伝説紀行 恵良観音 日田市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第089話 2002年12月08日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

仏さんが笑った   恵良観音由来

大分県日田市


恵良観音堂

 筑後川が大山川と玖珠川の合体で大河に生まれ変わるところを三隈川という。その小渕地区での話。久留米から大分に通じる国道210号線が大山川に沿って杖立に向かう分岐点と考えてもらえばいい。小渕の人たちはこのあたりのことをえらんどと言って親しんできた。「恵良観音さま」が祀られているからだ。

流木と思いきや

 今から約420年前の天承6年6の梅雨時。大山川と玖珠川の濁流がぶつかり合って、水は堤防を越え民家や畑を襲った。住民は家畜を安全な場所に避難させると、とるものもとらずに高台に逃げた。
 水が引いて、あと片付けがまた大仕事。川そばに住む時蔵が流木の中から何やら光り輝く物体を拾い上げた。駆け寄った庄屋の仁兵衛さんが覗きこむと、それはなんとも神々しい20センチほどの観音像であった。
「かわいそうに。この仏さん、どこか上のほうで祀られていたのが、大水で流されてきなさったのじゃろう」
 仁兵衛さんは、観音像の体中にくっついている木屑やゴミを拭ってあげた。写真は、恵良観音が上陸した浜
「庄屋さん、この仏さん、何だか笑っているようにも見えるが」
「そうじゃのう。わしらに拾われたのがよほど嬉しかったんじゃろう。元のお堂から迎えが来るまで大切にお預かりしなきゃなるまい」
 とりあえず、観音さまは庄屋の屋敷に安置されることになった。

観音さんの実家はどこ?

 時蔵や仁兵衛さんの口宣伝が効いたのか、「観音さまにお参りすると病気や怪我を治してくれるげな」「良縁に恵まれるげな」「金持ちになれるげな」なんてことになって、近所はおろか、遠くは天ヶ瀬あたりからまで庄屋さんの家に押しかけるようになった。それもお賽銭やお供え物をたくさん持って来る。
「あっ、ホトケさまが笑った!」
 お参りした人たちは、観音さまのお顔を拝んだ帰り道、どなたも満足そうに家路についた。
「庄屋さん、この仏さんば元のところに戻さんでもよかつじゃろか?」
 時蔵は参拝者が増えるたびにそれが気がかりだった。
「わしもそう思うばってん、観音さんがどこのどなたやらわからんし…」
「流れ着きなさったところに観音さまを戻せば、泳いで元のお堂に帰られるかもしれんな」
 村中して観音さまの住んでおられた川上のお堂を探すことになった。そうしたら見つかった、観音さまの実家が。から20キロ上流の恵良(九重町)というところに。村の人たちも大事な観音さまを探し回ったということ。だが、銅でできている観音さまが三芳村(恵良観音堂のある村)まで流されるとは夢にも思わず、さっさと諦めて新しい観音さまを調達してお祀りしてしまった。時蔵らの報せを受けて恵良村の代表が川を下り、小渕浜で拾い上げられた観音像を検分した。
「確かに私どもの観音さまでございます。それではいただいて参ります」
 代表は挨拶もそこぞこに像を抱えあげようとした。

体はチビでも思いのなんの

 あれだけ住民に慕われた観音さまがいなくなるというので、村の衆全員が見送りにきて涙を流した。
「あれっ、いつもは笑っていなさる観音さんが怒ってござる」
 見送りの女房が観音像の顔を指差した。たしかにいつものにこやかなお顔とは違う。それだけではない。普通なら片手でも楽に持てる観音さまなのに、恵良の衆が二人がかりで抱えあげようとしても、根が生えたようにびくともなさらない。
「そんなはずはない」
 恵良の衆は、今度は3人がかりで抱え上げようとしたが駄目。それどころか観音像に触った3人がその場に倒れこんで唸りだした。庄屋の仁兵衛さんが額に手をやると、3人ともやけどをしたような高熱であった。
「悪うございました。私らがあなたを小渕の方々のように大切に思わなかった罰です。大水で流されなさったとき、もっと捜せばよかったのに。こともあろうに代役を立てるなど不届きなことをした罰です」

 恵良村の代表は、高熱にうなされながら、大粒の涙を流して観音さまに謝った。
「わかりました。観音さまはこれまでどおり私らがお守りいたします」
 庄屋の仁兵衛さんは、恵良村の衆に告げて、観音さまを元の位置に戻した。
「あっ、観音さまが笑った!」
 女房がまた素っ頓狂な声を発して観音像に手を合わせた。今度こそ大水にさらわれないように、岸辺から少し離れた場所に観音堂を建ててお祀りした。【完】

 似たような話があったなと考えていたら、東京は浅草の観音さまがそうだった。浅草寺の場合は時代がどっと遡って、1400年前ということになる。檜前浜成(ひのくまのはまなり)・武成(たけなり)兄弟が隅田川で漁をしていたところ、その網に人の形をした像がかかった。地元の土師仲知(はじなかとも)という人が鑑定したところ、その像はありがたい観音像であることがわかり、仲知がお堂を建てて観音像を祀ったのが浅草観音金竜山浅草寺の起源だそうな。
 市役所の方に教わって恵良観音堂を訪ねた。ウロウロしていたら郵便局の前の奥さんが案内してくれた。ここだけはいまだに神仏混合で、菅原道真公と恵良観音さんが隣どうし仲良く暮らしておられた。浅草の観音さまと背丈は違わないのに建物の大きさがあまりにも違いすぎる。恵良の観音さんはこじんまりしたお堂の中にいらっしゃるのだが、暗くてお顔がはっきり見えず、笑ってなさるのか寂しがっておられるのかわからずじまいだった。
 改めて小渕の浜に出て、大山川と玖珠川の合流点を確めた。上流のダムのせいか川とは名ばかりの水量で、岸辺の雑草だけが大威張りで伸びていた。

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