伝説紀行 雲竜久吉伝 柳川市大和町


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第085話 2002年11月10日版
再編:
2017.12.30 2019.03.10
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

「雲龍型」雲龍久吉伝

福岡県柳川市(旧大和町)


雲龍久吉の土俵入り像

怪物は海から生まれた

 大相撲といえば、横綱の土俵入りに注目が集る。土俵入りには「雲龍型」と「不知火型」があるのは皆さんご存知のとおり。だが、その「雲龍型」が我が郷土から出た横綱の名前から発していることまで知っている人は意外と少ない。今から遡ること180年前、有明海に面した柳川市(旧山門郡大和町)の干拓地で生を受けた雲龍(本名塩塚久吉)がその横綱なのである。天下の雲龍型は、我が郷土有明の海が生み育てたものだったのだ。

親代わりの働き手

 久吉は、13歳になって、今日も親類の馬の手入れに余念がない。
「休み休みでよかよ」
 叔母の染乃が声をかけた。叔母は父の妹だが、両親亡き後は世間の冷たい風から久吉兄弟を守ってくれている。父の久平治と母は2年前に流行り病で連れ立つようにしてこの世を去った。兄弟は他家に貰われて別々に暮らす運命に晒された。
「嫌だ、弟たちと別れるくらいなら、俺も父ちゃんと母ちゃんのところに行く」と泣きじゃくる久吉を、親類の者たちからかばってくれたのが叔母であった。親を無くした兄弟は、体を寄せあってこの2年間を過ごしてきたのであった。
「馬に餌をやったら畑に行って叔父さんの麦まきば手伝うよ」
「おまえは体が丈夫だから安心さ。早く帰っておいで、弟たちの晩飯も用意しておくから」
 叔母は、久吉の笑顔を見ていると死んだ兄貴を思い出すと言って笑った。文政6年(1823)に久吉が産声を上げた頃、現在の大和町の大半はまだ有明海だった。関ヶ原合戦の軍功で田中吉政が柳川城に入ってから、有明干拓は急速に進んだ。かつて家のそばまで迫っていた有明海も、今では遥か彼方に遠のいている。
 久吉は、15歳にもなると大人と対等に干拓工事や矢部川の護岸工事にも参加した。

180キロの巨石を担ぐ

護岸工事が休みの日には各地の神社に出かけて田舎相撲に出場した。大人顔負けの巨体で突っ張れば、どんな力自慢の大人でも吹っ飛んでしまう。もちろん久吉の目当ては、優勝して貰う賞品にあった。あるときには米俵、あるときは野菜など。たまには賞金もあって、相撲はやめられない仕事の一つになっている。


雲龍の力石

身長は180センチ、体重は100キロ。叔母から貰う駄賃だけでは兄弟が十分に食べられなくて、稼ぎのよい干拓事業や矢部川の護岸工事に出かけることが多くなった。
「おーい、のっぽ。いかに力持ちでも、そこの多っか石は担げんじゃろう」

 現場長に挑発されて、20貫目と30貫目(合計約180`)の川石を頭上にかざした。
「おー、りっぱ、りっぱ。坊主、その石ばな、どこか目に付かんとこに捨ててこい」

 現場長は初めから工事に邪魔な巨石をどかすために彼の力を利用しただけだったのだ。いまだそんな大人のずるさがわからない久吉は、石を抱えたまま捨てる場所を考えた。
「そうだ、家の近くのお宮さんなら、誰も文句は言わんじゃろ」
 仕事が終わってその日の手間賃をいただくと、天秤棒の前後に180キロの石をぶら下げて帰途についた。現場から家まで3里(12`)の道のりである。さすがの久吉も足がおかしくなった。中休みを取りながらどうにか海童神社にたどり着いたときは既に夜中であった。

プロと互角に

「久吉、三柱神社に江戸相撲が来るげなばい」
 何かと久吉の相談相手になってくれる同じ歳の吉造が誘った。だが、兄弟の食い扶持を稼ぐ方がさきで、相撲見物どころではない。
「こげなよか稼ぎは滅多になかぞ。番外で、賞金を賭けた素人相撲が組まれちょるげなけんな」


三柱神社

 賞金と聞いて久吉は、直ちに前言を翻した。
「腹がへったら勝負にならんよ」
 叔母の染乃が出かける久吉に特大の握り飯を持たせてくれた。相撲興行は追手風部屋一行であった。久吉は素人だけの勝負を難なく優勝で飾った。そのあとは、優勝者とふんどし担ぎ(番付の低い力士)の対決が組まれた。いくら番付が低くても相手はプロである。久吉は満員の観客が見守る中、5番取って3番勝った。正面にどっかと座った追手風親方は、素人の相撲に目を凝らしていた。
 この日も賞金を懐に入れて、露店を見てまわりながら弟たちへの土産を買った。そのあとは吉造にご馳走するべく境内の茶店に入った。

運命的出会い

「おいそこの若いの」
 店の隅にいた大男に声をかけられた。先ほど土俵の正面に座っていた追手風親方だった。


写真は、雲龍が生家近くの神社に寄贈した石の鳥居

「うどん1杯じゃ物足りんだろう。遠慮することはねえ、2人とも食いたいものを食えるだけ食え。銭のことなら心配するな」
 吉造が2杯目で箸を置いてから、久吉はさらに3杯追加した。
「どうだ若いの、相撲とりにならんか」
 落ち着いたところで親方が本題をきり出した。
「おまえなら幕内くらいまではいけるかも知れん。そうなりゃ、日雇いなんかやってるよりよほど稼げるぞ」
 親方がドスの聞いた声で太鼓判を押した。
「駄目です。俺はまだこまか弟たちを養わにゃならんとです」

大口叩いて

「わしは、待っているからな」
 親方と別れたあと、久吉は落ち着かなかった。飯より好きな相撲を取って銭が稼げる、そんなおいしい話がこの世にあったのだ。
「行きなよ、弟たちの面倒ならあたしが見るからさ」
 叔母の染乃は、久吉の相撲部屋入門を勧めた。

「駄目だ、叔母ちゃんにそこまでは甘えられん。そげなことしたら地下の父ちゃんや母ちゃんにがられる(怒られる)けん」
 相撲取りになる話はそれでおしまい。翌日からはまたいつもの矢部川工事現場通いが続いた。

 久吉が20歳を過ぎ、弟たちの養育からも開放されると、久吉の頭に追手風親方の「待ってるぞ」のダミ声が甦った。
「叔母ちゃん、俺やっぱり諦めきれん。大坂に行ってもいいかな?」

 当時、大相撲を目指す者はまず上方(大坂)相撲から始めることが多かった。
「誰に遠慮がいるもんか。おまえは死んだ父ちゃんと母ちゃんに代わってりっぱに塩塚家を守ってきたじゃなかか。これからはおまえの好きな道を行けばよか」
 叔母は諸手を上げて賛成した。


写真:雲龍の実家

「ありがとう、叔母ちゃん。俺、必ず大関になってこの甲木(かつき)に帰ってくるけん」
「そげな大げさなこつば約束するもんじゃなかよ。大丈夫、入門して1枚も番付が上がらんでも、いつでん叔母ちゃんは待っとるけんね」
 

魅せた 雲龍の土俵入り

 夜が明けきらない時刻、江越八幡の燈台下には30人もの人が集った。久吉の門出を見送るためであった。燈台は、200年前に田中吉政が干拓を始める前まで海岸線だったことを示す目印である。


雲龍土俵入りの錦絵

「おい、若僧。頑張れよ」
 矢部川の現場長も久吉の肩を叩いた。遊び仲間や親類の者たちから代わる代わる手を握り締められた。そのとき久吉は、地面に棒きれで丸い輪を描いて中に立った。
「ありがとう。きっと大関になってこの場所で、土俵入りばお目にかけるけんね」
 久吉が両足を広げて四股を踏むと、見送りの面々が「よいしょ」と調子を合わせた。
「大っか口はそんくらいにして、さあ、早う行かんね」
 叔母は、持ってきた握り飯の包みを手渡し、力いっぱい久吉の背中を押した。
 朝靄(あさもや)の中を遠ざかっていく久吉を、叔母の染乃はいつまでも手を振って見送った。

稽古の虫が大関に

 大坂に着いた久吉は早速陣幕部屋の門を叩いた。そして1年間みっちり鍛えられたあと、念願の江戸相撲へ。追手風部屋に再入門。弘化4(1847)年、久吉満25歳の春であった。、親方から「雲龍」の四股名(しこな)を貰い、幕下付出しでデビュー。人一倍負けん気の強さと稽古熱心で番付も少しずつ上がっていった。そして初土俵から6年たった嘉永5(1852)年には初入幕。このとき柳河藩主から豪華な化粧回し(子持ち二つ引き銭裏の三つ紋)が贈られた。嘉永7年には小結に、安政5(1858)年になって、ついに相撲界の最高峰大関まで登りつめた。入門から12年経って、塩塚久吉は故郷のみんなに見せた「大口」を現実のものにしたのであった。ときに36歳。このとき、彼の背丈は5尺9寸(195a)、目方(体重)が36貫目(135`)。雲流久吉が心・技・体三拍子揃った無敵の横綱として角界に君臨したときである。

晴れて故郷に錦を

 文久3年(1861)には、吉田司家から第十代横綱を張ることも許された。横綱にのみ許される手数入り(土俵入り)で見せる彼の豪快なせり上がりは江戸中の人気をはくし、錦絵(今で言うブロマイド)が飛ぶように売れた。
 江戸の相撲通は雲龍久吉の土俵入りに魅せられて、その名を「雲龍型」と名づけた。現在武蔵丸とか貴乃花が演じているあの「雲龍型」の原型である。久吉が横綱の免許をいただいた報せは、すぐ弟たちのところにも届いた。
「おーい、久吉が帰ってくるぞ」
文久元(1861)年、幼馴染みの吉造が干拓の村中を走り、「雲龍帰郷」を報せてまわった。
「何ば言よるとか。あん人は天下の横綱ばい、いくら友だちち言うたっちゃ、呼び捨てたら罰が当る」


海童神社の雲龍顕彰石

「そうたい、あんお人は、今では立花のお殿さまに召抱えられる、大人物じゃけんな」
 呼び捨てにする吉造を、仲間たちがたしなめた。写真:海童神社境内
「よかと、どげん大関になったっちゃ、久吉は甲木村の久吉じゃけん」


 吉造が笑った。久吉が横綱になって初めて故郷に錦を飾る日、干拓の村は盆と正月が一緒に来たような騒ぎになった。海童神社の境内に造られた土俵の周りには十重二十重の人垣ができた。海童神社は、久吉が矢部川から180キロの巨石を天秤に載せて持ち帰ったところである。
 落ち着かない村の衆が待つなか、歓呼の声に迎えられて久吉が到着した。涙ながらに出迎える親類や幼馴染み、兄弟たち。迎えられる久吉も何故か落ち着かない。出迎えの中に叔母の姿が見えなったからである。
「叔母ちゃんな、おととし、死んでしもうた」
 弟が悲しそうに報告した。
「なして報せてくれんじゃったと。俺にとっては親以上に大切なお方なのに」
「叔母ちゃんが、絶対に言うなち。兄ちゃんが別れ際に横綱張るまではここには戻らんち言うたろ。じゃけん、叔母ちゃんも、兄ちゃんが横綱になるまではいらん心配はかけちゃならんち」
 弟は大粒の涙を流して泣き出した。

お世話になった叔母さんに

久吉がまわしを締めて横綱を張り土俵際に現れると、この日干拓工事が臨時休業の村人から大歓声が巻き起こった。
「よおっ、日本一!」
「我らが英雄、ウンリュウ!」
 方々から掛け声が。「よいしょ、よいしょ」久吉が四股を踏むたびに大合唱。土俵入りが終わって、紋付袴に着替えた久吉が挨拶に立った。
「わしは、子供の頃に皆さんにお世話になったことばけっして忘れまっせん。旅たつとき、必ず横綱になるち言うた約束も果たしました。だが、親代わりをしてくれた叔母さんに土俵入りば見せられんじゃったこつが悔しゅうて・・・」
 声を詰まらせた。大観衆も水を打ったように静まった。久吉は江戸に帰るにあたって、海童神社に一対の灯篭、生家と神社を結ぶ参道には力強い鳥居を残している。
 
江戸に戻った雲龍久吉はその後も横綱を張りつづけ、43歳で現役を引退するまで優勝7回(年2場所)を果たした。幕内での成績は127勝32敗、引き分け・預かり20。引退後は年寄五代目追手風喜太郎を襲名したが、明治23年6月15日に波乱の人生を閉じた。69歳であった。墓は歴代追手風親方が眠る東京の海蔵寺にある。(完)

 福岡から西鉄電車に乗って柳川を過ぎると、右手に巨大な相撲ドームが見えてくる。奥の建物が「雲龍の館」。出身地である大和町が、郷土の英雄・雲龍久吉の功績を称えて建設したもの。有明干拓が始まるまでの海岸線を示す「江越八幡海岸燈台」のすぐ近くに雲龍の生家はあった。現在は弟久七の子孫によって引き継がれている。生家から海童神社に通じる狭い参道には、頑丈な石の鳥居が立っている。雲龍久吉が故郷に錦を飾った折に寄贈したもの。苔を払って覗き込むと、寄進者として「文久二年四月吉日 日本東大関雲龍久吉」と刻んであった。海童神社(別名雲龍神社)には、久吉が矢部川から担いできたという、108`と72`の巨石が「雲龍の力石」と名づけられて保存されていた。

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