大行司の踊るカッパ
大分県日田市
大行司神社のカッパ踊り
日田市を流れる三隈川(筑後川の別名)には、四方の山からいく筋もの中小河川が流れ込んでくる。その一つが、紅葉と奇岩で有名な耶馬溪を水源とする花月川だ。そのまた支流の有田川ほとりには、大行司(八幡)神社がある。神社の祭りは、何故かカッパが主役。むかしの有田川には、カッパが棲んでいたという証拠だろう。
はらわた抜かれた
お話は、大原神社(現在は日田市役所隣)の主である八幡さまがご存命の砌というから、2000年から3000年も大むかしの神代のこと。ある真夏の昼下がりに、有田に住む五郎が八幡館に駆け込んできた。
「倅がカッパにジゴ(はらわた)ば抜かれたとです」
神さまに、息子の仇をとってもらうおうと、すがってきたのだった。
「ほんとうにカッパの仕業か? おまえ、そのカッパを見たのか?」
八幡さまは、五郎の言うことを疑ってなさる。
「俺は見てねえが、はっきりカッパば見たという者もおりますけん。皮膚の色は濃い緑色をしていて、頭には皿のごたるもんば載せておるとです。それから足にはですね、水かきば備えた恐ろしか奴ですばい。そうそう、カッパは陸に上がればなすびとか胡瓜ばちぎって食い、川の中では小魚ば捕まえて暮らしとるそうです」
「それなら、カッパという動物は人間にとっていいところが一つもないではないか」
御幣を立てて視察に
だが、農民の訴えをあまり無視するわけにはいかない。何故なら、農民は米や野菜など収穫物のお供えものをくれる大切なスポンサーだからだ。
「わかった、わかった。これからおまえの倅が犠牲になった川を視察に出かけよう」
八幡さまが裏庭に出なさると、家の子郎党が馬小屋から純白の神馬のシロを引いてきた。五郎が馬のかっこう好さに見とれていると、「馬鹿もん、神さまのお馬に臭か息ば吹きかけるでない。しっかり口を結べ」、叱られること叱られること。
お神輿という乗り物が発明される以前のことで、神さまがお出かけの折は常に馬であった。それも、農民の目につくようにわざとらしく、馬の尻尾には大きな御幣をぶら下げてである。五郎は八幡さまの行列から50メートル後ろを着いていくことになった。
神馬に蹴られて
目指す川が見えてきた。
八幡さまは郎党が用意した川渡りのための担ぎ籠を断られた。シロも疲れた足を冷やしたいらしく喜んで川に入った。その直後のこと。
「ヒヒーン」、シロがけたたましい鳴き声を発して、後2本足で立ち上がった。危ないところで、恐れ多くも八幡さまが落馬して深みにはまられるところだった。必死でたてがみを掴みながら八幡さまが水面を覗き込むと、頭に皿のようなものを載せた奇妙な生き物がシロの足にたかっている。
写真は、大行司神社参道
「カッパだ、五郎が言っておったカッパだ!」
八幡さまがシロのわき腹を激しく蹴りながら、「人間に悪さをする輩をやっつけるべし」と命令された。さすがは神馬、命令を受けるや力いっぱい後ろ足を跳ね上げた。すると、一匹のカッパが宙に舞って向こう岸に叩きつけられた。続いて2匹、3匹、4匹と、とうとう20匹ものカッパが陸に打ち上げられてしまった。
お皿が乾いた
「いかがいたしましょうや? このカッパどもを皆殺しにいたしましょうか?」
郎党が、八幡さまからの次の命令を待った。
「駄目だ、こう見えても我れは神なるぞ。例え理不尽なものでも、生き物を殺めてはならぬ」
りっぱなことをおっしゃる裏には、それなりの深いわけがあった。生来赤い血を見るのが何より嫌いな神さまだったのだ。ジリジリ照りつける太陽の熱で、シロに踏みつけられて身動きができないカッパたちの頭の皿が乾いてきた。
「お願いでがす、命ばかりはお助けを」
頭領らしいカッパが八幡さまに手を合わせた。
「聞けばおまえたち、人間に悪さばかりしておるそうじゃな。今日も、そこに控えおる五郎の息子を、深みに引きずり込んで腸を抜いたというではないか!」写真:花月川
「それは違うでがす。あの子は遊泳禁止の立て札を無視して深みに入り溺れたのでがす。何とか助けようとしましたが既に心肺停止状態でがした。カッパは人間を殺めたりはしまっせん」
「嘘をつくでない。お前らは、ほんの今先我れと我れの愛馬を襲ったではないか」
「あれは、カッパ族の子供らが、珍しい白い馬を見てじゃれただけでがす」
恩返しにカッパの踊りを
「わかった。それなら許してやろう。ただしこれからも農民を困らせるでないぞ」
「はい、必ずお言いつけは守りやす」
子供も大人もいっしょになって
そこで八幡さま、シロの手綱を握りなおして、もと来た道を帰ろうとなされた。
「お待ちくだせい。命を助けてもろうたお礼に、カッパ族秘伝の踊りばご覧にいれとうがす」
カッパたちはいっせいに有田川に飛び込み頭の皿をたっぷり濡らすと、特有の笛や太鼓を持って陸に上がってきた。そして舞った。前に進みそのまま宙返り。手を上げて隣のカッパにからむ、寝そべったままのものもいる。あるカッパは御幣のチラチラがよほど気にいったらしく、飛び上がってむしりとる。まったく統制の取れない踊りだが、それがまた滑稽で、八幡さまもつい噴出されてしまわれた。
カッパたちは八幡さまご一行の姿が見えなくなるまで踊りつづけた。物陰で一部始終を見ていた五郎、「八幡さまはお人が良すぎる。あんな踊りに騙されなさって・・・」。大切な倅を失った親の悲しみがどんなもんか、神さまならもう少し勉強してほしかった、と愚痴ること。
このときのカッパたちの踊りが、後々大行司神社の「磐戸神楽=カッパ踊り」として伝承されることになったという話。(完)
なんとも郷愁を誘われる祭りだった。日が暮れて300メートル向こうの小山に集った村の衆が先ずやること、それは火おこしだった。満天の星空で輝くお月さんもさぞ煙たかろうと思うほどに炎が舞い上がる。その間に村総代をはじめ役員さんたちが紋付と袴に着替えた。やおらお出ましのお母さん方にせかされて、小学生たちがカッパ装束に。焚き火は、神社までの道行を照らす松明の種火だったのだ。
総代を先頭に、若い衆とカッパ姿の子供たちが続く。その後ろをお母さんや女の子たちがついて行く。行列は神社を一周して拝殿前に整列し、総代が祭文を読み上げて、さあ奉納演技の始まり始まり。村中の老若男女の前でまず青年が杖(棒)を持って踊る。そのあとが子供カッパのヘンチクリンな踊り。踊りというより4人のいたずら坊主が笛や太鼓も無視して遊んでいるといった感じ。それでも見物人は熱心に拍手を送っていた。
写真は、大原八幡神社
かつて八幡さまが見たカッパの踊りもそうだったのかと、妙に感心して時間のたつのを忘れてしまった。見物中の熟女に感想を訊いた。「むかしはね、踊り手に選ばれることが子供にとって大変な名誉でしたばってん。最近は子供の数が減って誰もが出演できるもんだから、踊り手の価値も落ちたとです」だと。
大原神社について
現在、日田市の中心部(田島2丁目)にある大原八幡神社は、物語の神代の時代には別の場所にあったらしい。神社の由緒書きによると、起源は、天武天皇9(680)年に靱負郷岩松ヶ峯(現天瀬町鞍形尾)に示現された八幡神を祀ったことによるとある。
その後、慶雲元(704)年に元宮原(神来町)に遷座し、貞観13(871)年、日田郡司大蔵永弘が社殿を造営して祭祀した。
さらに寛永元(1624)年5月に、現在の田島大原に遷座したんだと。
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