伝説紀行 自得さん 久留米市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第079話 02年09月29日版
再編:2017.03.16

プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

自得さん

福岡県久留米市


高良山の方生池
 久留米市の東方に横たわる高良山312b)は、江戸時代まで神仏習合の霊山であった。由緒ある石造りの大鳥居をくぐって九州自動車道を過ぎると、趣深い池に行き着く。京都の清水寺のお庭を模して造られたから清水の池とも、また放生池とも言うそうだ。享和3(1803)年に架けられたという石橋の上に立って南を見上げた小山には、最近まで清水観音堂が建っていた。

訳あり男が現われた

 150〜160年もむかしのこと。ある秋の夕暮れ時、高良川のほとりをトボトボと浪人風の男が歩いてきた。一日の畑仕事を終えて帰る途中の茂作とおつね夫婦の目の前で男は倒れた。茶碗に3杯もご飯を食べるとすっかり元気を取り戻した男が正座して夫婦に礼を言った。このあたりでは聞きなれないきつい訛りの持ち主であった。
「どこから来たの?」「お名前は?」と尋ねるが、それにはいっさい答えない。返事の変わりに言うことは、「死に場所を教えてくれ」とだけ。

観音さまの堂守りに

翌日、茂作は男を連れ立って高良山の参道を登った。周囲の宿坊を縫うようにしてたどり着いたのが蓮台院御井寺の御門前。


写真:高良山本坊御井寺跡

「私はこれで失礼いたします。後のことはよろしくお願いいたします」
 茂作は応対に出たお坊さんに頭を下げると、もと来た山道を降りていった。それから1ヶ月も経った頃、墨染めの衣をまとった僧が茂作の家の前に立った。出てみると、あのときの行き倒れ男であった。
「その節は命をお助けくださってかたじけない」
「そんなことはどうでもいいが、俺と別れてからあんたはもうお坊さんになりなさったのかい?」写真:高良山観音堂跡
「いいえ、あなたに連れて行かれた蓮台院で、座主(ざす)の伝雄僧正さまに『自得』という名前をいただき、観音さまの堂守りを仰せつかりました」

仏の僕(しもべ)に

 そのとき、自得が伝雄僧正に連れて行かれた観音堂は放生池から見上げる丘の上にあり、今にも朽ち落ちそうな建物だった。肝心の観音さまはというと、蜘蛛が巣を張り巡らした奥にをかぶって立っておられた。
「これから一人でこの観音さまをお守りしなさい」
 自得は、夜が明ける前に起きだして観音像に積もった埃を払い、研いた。お堂の掃除も大切な日課である。一人で生きていくために周りを耕して野菜も植えた。朝の仕事が片付くと、取り付かれたように「南無阿弥陀仏」を繰り返す。ときどき覗く僧正の弟子にお経を習い、午後は街に出て托鉢。陽が落ちると、与えられた仏教書を読み漁り、横になるのはいつも深夜であった。
「言われたのですよ、僧正さまに。今までの過ちはこれから人の役立つ人間になることで償える、と」
「そうでしたかい。よかったね、生き甲斐が見つかって」

突如若侍出現

それから2年の歳月が流れた。茂作夫婦もすっかり自得(ひいき)になった。暇さえあれば観音堂に行き、掃除や畑仕事を手伝った。村の衆の難儀を聞きつけて自得が小川に橋を架けるときも、仲間を誘って加勢した。崩れかかったお堂を建て直す材木は茂作が集めてやった。そしてまた1年、桧の香りも神々しい観音堂が完成した。
「自得さん、お話が・・・」
 お堂に入ってきた茂作が言いにくそうに話を切り出した。若い侍が親の仇を探しているとの街の噂のことだった。
「その仇というのが自得さん、あんたではないかと・・・」
「そうですか」
 自得は一言発したきりで、また観音像に向かって念仏を唱えた。

男、過去を語る

 それから3日経った日の夕刻。自得が観音像に向き合っていると、表の扉を激しく開いて一人の侍が入ってきた。侍は後姿の自得に向かって言い放った。
「探したぞ、伝次郎。そなたに討たれた松島吉左衛門の息子・時之輔ぞ。もう逃れはできぬ、神妙に直れ」
 自得は振り向きもせず読経を続けた。


高良山参道

「待ってください、お侍さん。どのような訳があるかは存じませんが、ここは仏さまの御前ですよ。その物騒なものを収めてくださいまし」
 茂作が侍の前に立ちふさがった。
「私の方からお話しましょう」

托鉢でお堂再建

あいかわらず体は観音像に向いたまま、自得は静かな口調で語り始めた。自得、つまり合川伝次郎は遠い仙台藩の武士であった。些細なことから上役の松島吉左衛門を殺めてしまった。藩を逃げ出した伝次郎は、行く当てもなく諸国をさ迷った。そんな時、吉左衛門の息子が敵討ちのため伝次郎を追っているとの噂を耳にした。孤独が身にこたえている伝次郎は、殺されることが恐かった。生存本能が、彼の足を西へ西へと向かわせた。
 懐の金子(きんす)も使い果し、畑の芋や果物を盗んで食った。川辺で魚が泳ぐのを見つけると、生のままかじりついた。気がついたら関門海峡を渡り九州路にいた。高良川のほとりで行き倒れになったところを茂作夫婦に助けられた。このとき、自得が仙台を出てから既に1年が経過していた。
「私はそこにおられる親切なご夫婦に助けられました。茂作さんに連れて行かれた伝雄僧正さまに『そんなに命が惜しいか?』と問われ、素直に首を縦に振りました。『おまえは人をめたことを反省しておるか?』とも訊かれました。私はそれにもハイと答えました。僧正さまは、『反省だけなら猿でもできよう。人が人を殺めることがどんなに罪深いことか、おまえは身もって世間に示さなければならない』と言われました。そこで連れてこられたのが、破れ果てたこの観音堂だったのです」

反省は行動で示せ

「そうでしたか。それであなたは人のため世のためにと、托鉢をして観音堂を再建された。そればかりじゃない、人の難儀を聞きつけると、どこへでも出かけて行って助けられる」
 初めて自得の過去を知って茂作夫婦は納得し涙した。
「お侍さま、勘弁してやってくれませんか? このお方は今ではこの地でなくてはならないお方なんです」
「それはならぬ。拙者とて国の身内の期待を一身に受けて、ようやく捜し当てた仇である。言い訳はそこまでにして素直に直ってもらおう。さもなくば尋常に勝負されよ」
 時之輔はいったん脇に置いた刀を再び取り上げると頭上に振りかぶった。自得はいたって冷静であった。
「もういいのです。僧正さまが言われた『反省は行動で示せ』の意味もわかりましたし、仏の教えもかじりました。世のためにどれだけのことができたか、人を殺めた罪をどれだけ償えたか、いまだに迷っている私ですが、もういいのです。いさぎよく時之輔殿に本懐を遂げてもらいます」
 自得は目を閉じて合掌した。彼の心に一点の迷いもないのだと茂作には映った。刀を振り上げたままどのくらいの時間が経ったろう、時之輔は静かに刀を鞘に収めた。そして泣き崩れた。(完)

 どこかで聞いたような話だ。そう、あの有名な菊池寛の小説「恩讐の彼方に」や本ページ第103話「農民を救った汐井川の貫」と同じ筋立て。
 自得さんは、物語の新清水観音堂を完成した後も、鳥居や狛犬、石灯籠などたくさんの文化財を後の世に残している実在の人物なのである。頂上の高良神社に向かう自動車道の脇の木立に隠れるように彼の墓は立っていた
 さて、自得さんを仇と狙った時之輔のその後は? どこを探しても記録にないから、僕もそれ以上の詮索は止めにした。

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