伝説紀行 馬の尻を覗いた男 筑後市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第062話 02年06月02日版
再編:2017.12.17
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

馬の尻を覗いた男

福岡県筑後市


馬の尻

 筑後市、北部九州を横断する国道442号線と九州の西端を縦断する国道209号線、それにJR鹿児島本線などが交叉する交通の要衝である。そこに和泉という地区がある。江戸時代は竹薮や雑木林の間に、申訳なさそうに民家が散らばる寂しいところだった。

ほろ酔い機嫌の平助さん

 平助は羽犬塚の小料理屋でしたたか酒を飲んで、山ノ井川べりのあぜ道を千鳥足でご帰還途中。梅雨を控えて今晩の空気は妙に生ぬるかった。大きな笠をかぶったお月さんも、ぼんやり浮かんでいるだけでなんだか退屈そう。ゲンジ蛍をかき分けながら歩いていると、突然音をたてて西風が通り過ぎた。小川の向こうの竹薮がザワザワと騒ぎ出す。
「こんな晩はキツネでも出るんじゃないか。出てもよかばってん、どうせなら、ばさらかよかおなごに化けて現れてくれんもんじゃろか」


野生のキツネ

 家に居るのは、間もなく70に手の届くおっかさんが一人っきりでは、急いで帰っても仕方がない。

化け具合を見せてもらおう

「あれあれ、あそこに誰かおるばい?」
 おぼろな月の光に照らされて、飛び交う蛍の間に蠢いているもの、あれは確かにキツネ。キツネはサラサラ流れる水に前足を突っ込んで藻を取り出すと、雫(しずく)が垂れるのもお構いなしに頭に乗せた。平吉が瞬きする間に、現われ出でたお姫さま。
「きれいだ。あのお姫さんは月よりの使者かいの」
 絢爛豪華な衣装の裾からふさふさの尻尾さえ見えなければ、今にも飛びつきたいくらいによかおなごである。
「うん、ここはいっちょうキツネのお化け芝居にでも付き合うか」
 平吉は、気付かれないように背をかがめてなりゆきを見守った。

藪の中の一軒家で

そんな平吉の存在を知って知らずか、お姫さまが動きだした。田んぼ道を小川に沿って。そっと後ろをつける平吉。両脇の田んぼからは、蛙たちの鳴き声がそれは煩(うるさ)いこと。50b前を行くお姫さまは、一度も振り返らず、彼方の竹薮の中に消えた。見失ってなるものかと平吉も竹薮に突入した。だが、蜘蛛の巣が顔一面にくっついてベタベタ。加えて獲物を見つけた薮蚊の大群が平吉めがけて襲いかかってきたからたまらない。
「こんくらいのこつでひるむ平吉さまじゃなかばい」

 藪の向こうに藁葺きの一軒家が見えた。
「あの家に入っていったばいね、雌キツネめ」

興奮絶頂 芝居の幕が

 足音を忍ばせて一軒家に近づいた。周囲に人影はない。耳を澄ますと中から何やら艶めかしい調べが。窓の障子はいつ貼り替えたものか赤茶けている。「よし…」平吉は人差し指にをつけ直径3aほどの穴をあけた。中を覗いてびっくり。表からは想像もできないほどに室内は煌(きらび)びやか。家具も調度品も豪華。室内は妖しいまでの桃色(ピンク)の灯りが。いかがわしい絵を施した屏風の手前には、体ごと沈んでしまいそうなフカフカ布団が敷いてある。
 目を皿にし、息を殺してなりゆきを見つめる平吉の目の前に、先ほどのお姫さまが長襦袢を真っ赤な細帯で結んで現れ、まだ二十歳そこぞこの色白男の手を取って、フカフカ布団に招き入れた。
 そして、お姫さまは行灯(あんどん)に口を寄せ、「ふっ」と灯りを消す。……

覗き込んだ障子の穴は

「ぶるっ、ぶるっ」 
 身震いしたところで、
「危なかっ!」
 けたたましい叫び声が飛んできた。同時に平吉がその場に尻餅をついた。叫び声の主は、平吉のおっかさん。周囲を見渡すと、いままで目の前にあった一軒家は、何のことはない、自分の家ではないか。
「それでは、あの障子の穴は・・・」
「馬鹿たれ息子!そこ早ようすざらんかい(後退しないか)。馬に蹴られて死んでしまうが」
 おっかさんのだみ声で、改めて前方を見上げる。そこにはいつもこき使っている農耕馬が太い足を踏ん張って後ろ向きに立っていた。
「おまい(おまえ)が覗き込みよったつは、その馬の尻(けつ)の穴たい」
 おっかさんの呆れ顔。
「そこいら(そのへん)で、キツネば見らんじゃったね?」
「そう言えば、さっき、あっか(赤い)犬があっちに逃げていった。尻尾の毛がふさふさしとったけん、大方ありゃ、キツネじゃったかもしれんね」
 いったん萎(な)えた腰は容易に立ち直れない。だらしなく口を開けて馬の尻を見つめている平吉の顔をめがけて「ボトリ、ボトリ」、野球のボールほどもある糞が何十個も落ちてきた。(完)

 筑後市の和泉地区を訪ねた。寂しいはずの山ノ井川周辺には公共施設が建ち並び、当時の面影すら見いだせない。野菜畑に立って、わずかに残る竹やぶにカメラを向けたら、地元の人に野菜泥棒と間違われて睨まれた。
 キツネの目から見た人間の愚かさは、平吉ならずともみな一度は経験したはず。「騙したつもりが…」まんまと相手の手のひらのうえで踊らされている。この物語、平吉が「馬に蹴られて死んでしま」わなくてホッとする。

和泉村 江戸期から明治22年」までの村名。
明治17年には、戸数60戸、人口407人
羽犬塚宿 久留米藩3宿のひとつ。延宝4年頃から公認の馬市遊郭 宝暦元年の大火まであったが若津に移転。

ページ頭へ    目次へ    表紙へ