伝説紀行 久留米ツツジの坂本元蔵 久留米市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第54話 02年04月07日版
再編:2017.04.23
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

久留米つつじ誕生秘話
坂本元蔵

福岡県久留米市


久留米つつじを開発した坂本元蔵記念碑(久留米市妙生寺)

 桜が散り、春の主役が色とりどりのツツジにバトンタッチされた。中でも久留米つつじは人々の目をひきつけて離さない。開花時には幹も枝も無数の小さな花弁が覆い隠してしまう。その種類たるや、朱・紅・紫・桃・白・絞りなど300種にも及ぶ。
 久留米つつじの本場は、その名の通り久留米である。そう、もう200年もむかし、徳川幕府もそろそろ完熟期を迎えて、葛飾北斎が「富嶽三十六景」を、安藤広重が「東海道五十三次」を描いた天保年間の頃であった。当面、武士が戦場に赴くこともない平和な久留米の城下に、坂本元蔵なる三百石とりの侍がつつじの品種改良に日も夜もない時間を費やしていた。

位は中級武士

 元蔵は、久留米城(現篠山神社)本丸から1キロばかり東の武家屋敷の一角で生まれ育った。代々家柄は馬術指南役で、中流武士の立場にあった。


坂本元蔵の屋敷があった櫛原町

 40歳を過ぎた元蔵の屋敷の庭には、所狭しと盆栽棚が備えつけられ、多種多様な植木鉢が並べられている。登城しない日など、朝から晩まで盆栽と会話するのが彼の慣わしだった。

「旦那、何をブツブツ言っているんです?」
 出入りの植木職人・半助がこの家の主のような顔をして突っ立っている。元蔵にとって半助は、出入りの職人というより、盆栽つくりの指南役なのである。桜の季節を終えて、野山も庭先もつつじが満開の季節であった。

単純な自生種は好かん

「いやな、どうもおもしろくなえんだ」
「何が?」
「このキリシマ(ツツジ)よ。色が単純すぎてもう一つ魅力を感じねえ」
 元蔵は流行に乗りやすい男で、ありきたりのつつじでは満足していなかった。彼が不満を漏らすように、自生する「キリシマツツジ」には、赤や白など数種類の色しか出ない。高良大社や梅林寺に自生するキリシマもやはり色は単純であった。多くの植木職人が、いろいろ交配を試みても、期待する「色」を生み出すことができないでいる。
「無理ですよ。挿し木や取り木では中間の色は出せません」
「じゃあ、どうすればよい?」写真は、高良神社脇の久留米つつじの原木
花蕊(かずい)(雄しべ・雌しべのこと)どうしを掛け合わせて、その花に実をならせて種を採るしかなかですよ」
「そんなことができるのか?」
「できるかどうかはわかりやせんがね」
「無責任な」
 その道では名を売っている半助も、理屈の上の話でしかなく、自信はなさそう。

大隅によかツツジがあるそうな

 お城から帰るなり盆栽の前に座り込む元蔵。
「旦那さま、たまには子供たちに読み書きや作法など教えてくださらなければ・・・」
 最近の奥方は愚痴ばかり。大方ツツジに嫉妬しているのだろう、なんて勝手に奥方の心理を推理する元蔵であった。ある日、お城から帰るなり元蔵が旅支度を始めた。
「いずこへ?」
 奥方が訊くと、「ちょっと大隅まで」と答えた。大隅といえば九州の南端(鹿児島県)ではないか。1日や2日で行き来できる距離ではない。
「そんな遠くまで、ご家老さまのお使いででも」
 奥方にとっては最大級の皮肉である。
「違う。ひと月ばかり暇をいただいたのじゃ。山中にあるツツジを探しに・・・」
「仕事そっちのけで、またまたツツジですか。ご苦労なことです」

 奥方もあきれ顔で送り出した。

花から実を採って

 表に出ると菅のカッパに三度笠、振り分け荷物も粋に仕立てて半助が待っていた。
「半助、お願いだから、旦那さまに無理をしないよう見張っていてくださいね」
 奥方の心配言を後ろに聞いて、二人はまるで子供が遠足にでも出かけるように、仲良く小走りで大隅を目指した。二人は半島の山中を歩くこと歩くこと。本場といってもなかなか目指すツツジには巡り会わないものだ。ようやくそれらしい木を見つけると、宝物でも抱くようにして久留米の屋敷に帰ってきた。発ってから20日目の夕刻だった。
「この木に花が咲き、実がなって、その種を撒けば芽がでる。来年花蕊どうしを掛け合わせりゃいい」


大隅半島高峠のミヤマキリシマ


「旦那、そんなに簡単なことならこれまでに誰かがやってますよ」
 半助に茶化された元蔵は、闘争心がさらに増した。

何事も辛抱が第一

 翌年の春。屋敷内の庭山ツツジと大隅半島から根ごと持ち帰ったキリシマが美しい花を咲かせた。だが、花蕊どうしを交配させても、木にはまったく実がつかない。
「キリシマが久留米の土地に馴染まないからですよ。旦那、ここは辛抱、・・・辛抱です」
 半助は実がならないことをあたりまえのように言ってしまう。翌年になって、咲き終わった花のあとに豆粒よりもっと小さな実がついた。大事に大事に収穫して、実から種を取り出し、秋口になって苗床に撒いた。春になり、高鳴る気持ちを押さえて、苗床を見張ったがとうとう芽は出なかった。
「辛抱、・・・辛抱」
 肩を落す元蔵を、半助はいつもの口癖で慰めた。

種が飛んでっちゃった

 元蔵は、その日も性懲りもなく苗床の土をつくっている。種を撒くのは奥方に頼んだ。彼女も、早く芽が出てくれたほうが得だと考えて、すすんで協力することになった。いざ種を撒こうとしたその瞬間、突然強い南風が・・・
「あら、種が・・・種が・・・」
 奥方が悲痛な声をあげた。掌に乗せていた小ツツジの種子が吹き飛ばされてしまったのである。
「何をしてるっ!」
 元蔵が振り返ったときには奥方の手には一粒の種も残っていなかった。怒ってみても後の祭りでどうしようもない。それに、これ以上怒れば今後好き勝手を許してもらえなくなるかもしれない。
 つつじの品種改良は完全に頓挫した。

大成功!実生から目が出た

 寒い冬が過ぎて、ようやく春の風が吹き出した頃。
「旦那さま、旦那さま」
 元蔵が部屋でくつろいでいると、奥方の甲高い声が屋敷中に響いた。そそっかしい奥方がと、しぶしぶ元蔵が立ち上がった。


写真:高良山つつじ公園(2013年4月22日撮影)

「ここですよ、ここ。早く下りてきてください」
 仕方なく庭に降り立った元蔵。奥方が指差す石灯籠の台座付近を見下ろして驚いたのなんの。青苔のすき間からこれまで見たこともない新芽が噴出しているではないか。
「もしかして・・・、これは・・・」
 元蔵の目が輝いた。まさしくそれはそそっかしい奥方が突風に持っていかれた種から出たつつじの新芽だったのだ。種は温かくてたっぷり水分を含んだ苔の中で成長し、元気に発芽したのであった。元蔵は思わず奥方の手を握り締めた。そして、半助に急いで来るよう使いを出した。

「久留米つつじは私の創作なの」

 苗床ではなく、庭の青苔で発芽したつつじの芽は順調に生育し、数年後には花芽をつけた。花はこれまでの単純色から大きく飛躍して、見たこともない中間色を生み出していた。坂本元蔵の、実生(みしょう)から始めたツツジの新品種づくりは、こうして大成功を収めることになったのである。彼の研究結果はたちまち久留米の街に広まった。そして武士や町人など愛好家が続々と屋敷に押しかけた。そのたびに奥方は、「実はこの実験、私が成功させたものですのよ、ホホホ」と胸を反らせてはばからなかった。(完)

 久留米藩の武士・坂本元蔵が開発したつつじの品種は、その後多くの愛好家や園芸のプロたちによって改良が重ねられ、現在ではその数700種に達し、その内の約300種が今も栽培されているとか。


品種改良が進むつつじセンター(久留米市善導寺)

 彼が生まれ育った屋敷跡を訪ねた。久留米の中心街から北に500bの閑静な住宅街の裁判長官舎がそれ。庭先を覗き見したが、元蔵を偲ばせるものと言えば、片隅の小さな標識くらいだった。次に元蔵が眠る寺町の妙正寺に行った。親切な住職に教えてもらい裏手の墓地に足を踏みいれたとたん、「坂本元蔵記念」の大きな石碑が目に飛び込んできた。何百の年輪を刻んだか、大楠のたもとに元蔵翁は静かに眠っていた。住職のお話だと、4月20日の命日には、「坂本元蔵翁追悼慰霊祭」が、日頃つつじの恩恵にあずかる植木農協の主催で営まれているとのこと。
 2005年10月になり、鹿児島県垂水市を訪れる機会に恵まれた。坂本元蔵がつつじの原木を探して
山中をさまよったと思われる「高峠」である。なるほど、久留米つつじのふるさととはこんな大自然の中にあったのか。鹿児島大学によって、垂水市の面積の20%を占める山地に照葉樹林など貴重な植物とともに大切に保存されていた。来年開花時に必ず再訪したい、坂本元蔵の気分になって。

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