伝説 「大刀洗」由来 大刀洗町 古賀 勝作


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第035話 2001年11月25日版
再編:
2018.07.01
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

筑後最大の合戦「筑後川の戦い」
「大刀洗」の由来と農民の悲劇

福岡県
大刀洗町・三井郡・小郡市・久留米市


太刀洗公園の菊地武光像

 筑後川の北岸に、「大刀洗(たちあらい)」という変わった名前の町がある。整備された公園の一角には、菊地武光(南北朝時代の武将)の勇ましい銅像が。この場所、「日本三大古戦場」のひとつに数えられる。

 大保原(おおほばる)の合戦は、正平14(1359)年に起こっている。当時都では、足利尊氏が没して、二代目の義詮(よしあきら)が権力の頂点にあった。北条高時によって島流しされた後醍醐天皇が、元弘の乱(1332年)時に隠岐の島を脱出して京都に復帰し、「建武の新政」を開始した年から23年後のことである。写真は、大保原合戦の図
 大原合戦吉野にある後醍醐天皇は、未だ10歳に満たない第十皇子懐良親王(かねよししんのう)を征西将軍として九州に送りこんだ。親王の後ろ盾は、肥後の菊地一族である。足利に味方する少弐や大友勢と睨み合いが続いた。

異臭の中を恋人探して

 30歳に成長した懐良親王を御旗にいただく菊地の総大将は菊地武光。彼は、筑後の豪族・草野永幸ら4万の兵を従えて千歳川(筑後川)南岸に陣を張った。久留米市の「宮ノ陣」の地名は、懐良親王がこの場所で陣を整えたという言い伝えから付けられたものだとか。当時宮ノ陣は、千歳川の南岸に位置していた。


現在の宮ノ陣神社

 大川を挟んで北岸に陣取るのは、少弐頼尚・直資父子と大友氏時など六万騎である。一触即発の状態が幾日も続いた。
 正平14(1359)年7月20日から21日いかけて、まず菊池軍が動いた。周囲が漆黒の闇に包まれる時刻、300騎が突撃を開始した。少弐軍もすぐさま応戦する。夜が明けるまで、矢が飛び交い、刀と刀の叩きあいで火花があたりを照らした。


公園化された大刀洗川

 東の空が白んでも、勝敗の行方はまったくわからない。雑兵たちが右に左に駆け回り、次々に倒れて息を引き取っていった。

戦死者数は数千とも

 愛馬に跨り、大保原(小郡市)で北朝方と切り結んでいる菊地武光には、雑兵の矢作がついていた。矢作は、竹槍を持たされ、形ばかりの防具を着けている。もし敵が主人に斬りつけたら、自分が馬の盾になって死ななければならない。言いつけどおり、必死で武光の馬を追いかけた。だが、疲労が重なっていて武光の馬を追いかけられずに見失った。そこに敵の群れが襲い掛かって、矢作の胸を一突き。
 矢作の脱落など知らぬげに、菊地武光は東方に逃げる少弐軍を追い詰めていた。ふと後を見ると、味方の兵が一人もいない。気がつけば、武光自身が深い傷を負っていた。
 武光は追撃をやめて近くの小川の縁に下り立った。すぐ北側の山が水源で、川の流れは速く、武光は愛刀を抜いて水に浸した。この刀が何人の肉と骨を砕いたことか。刃にべっとりついた血潮が、不規則な縞模様を作り出していて、気持ちが悪い。刃先もノコギリ同然に欠けている。刃についた血の塊は、剥ぎ取られるようにして下流に流れ去った。彼は、流れていく先を茫然と眺めているだけだった。
「太刀洗」の地名は、この時の菊地武光の心境を思って、後世の人がつけたもの。筑後川を挟んで筑紫平野を舞台に繰り広げられた戦いで、少弐方の負傷者は1万8000人、菊地方が6900人と記録されている。そして、戦死者の数は、双方合わせて1000人とも2000人とも。あるいは数千人、数万人とさまざまに伝えられてきた。
 この時の勝利で、南朝方はそれから12年間、九州において圧倒的な支配を続けた。

 筑紫平野の北東部、花立花山の麓で、おせんは今日も許婚の行方を捜していた。周りの田んぼは踏み荒らされ、死体を焼く異臭が鼻をつく。つい数日前の戦が、何十年も前のことのように静かな佇まいであった。
 許婚の矢作は、今年の初め草野の兵に連れて行かれた。「大丈夫だ、戦で手柄を立ててお前のところに必ず帰ってくるから」と言い残して、笑顔で千歳川(筑後川)を渡っていった。
 許婚のおせんは、「手柄をたてて必ず帰る」と言った矢作の言葉を信じて待った。戦の間もじっとしておれず、矢作を追い求めた。だが、目の前で虫けらのように死んでいく雑兵たちを見て、不安が胸をかきむしるのである。
 戦が終って、武将や兵たちが去って、おせんは戦場を彷徨った。矢作が虫の息で彼女を待っているかもしれないと思うと、死体の異臭などなんともないことだった。
「あんないい人、二人といないよ。仏さま、私のいい人を、極楽浄土に連れて行ってください」写真:銅像に残る痛ましい銃弾の痕
 おせんは、涙も尽きてしまい、顔を西に向けて手を合わせた。そばでは、近くのお年寄りや農婦たちが、積み上げられた死体を、何日もかけて炎の中に放り込んでいだ。(完)

 改めて、大刀洗公園の菊地武光の銅像を見上げた。愛馬の嘶(いなな)きを背に、鎧兜姿の勇ましい武将が、旧戦場を睨みつけている。大保原から筑後川べりまで、古戦場跡は稲刈りも済んで穏やかな光景であった。
 久留米市に入って宮ノ陣近くに、「大原合戦五万騎塚」と刻まれた石碑を見つけた。そのほかにも、戦場跡には、「大将軍塚」や「千人塚」など、この時の戦いの爪あとを記す石碑が散らばっている。「二度と戦争は起こしてはならぬ」と、古の人が伝えたかったのであろう。
 ニューヨークの超高層ビルが、テロによって崩れ落ちた。僕はこんな卑劣なテロを絶対に容認しない。でも、報復のために暴力で他国(アフガニスタン・イラク)を攻めるやり方も許せない。何故なら、古代の戦争と同じように、犠牲になるのはいつも弱い立場の人間なのだから。

後醍醐天皇の皇子

01 尊良親王 たかよし
02 世良親王 せよし
03 恒良親王 つねよし
04 成良親王 なりよし
05 義良親王 のりよし
06 護良親王 もりよし
07 宗良親王 むねよし
08 恒性親王 つねさが
09 満良親王 みつよし
10 懐良親王 かねよし


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