終章 新聞連載「小川トク去る」
明治43(1910)年8月。トクは残り少なくなった久留米での暮らしを惜しむように、栄三郎の嫁に着てもらう縞を織っていた。そこに扇子をばたつかせながら男が入ってきた。
「小川トクさんですよね。先日郵便で取材をお願いした福岡日日新聞の松本です。お忙しいでしょうが、しばらくお付き合いを願います」
取材を申し込まれてすぐ、断りの返事を出していたはずだと言葉を返すと、「断られても必要なことは記事にするのが新聞記者ですから」と勝手に玄関先に居座った。30歳を過ぎたくらいの記者は、ギラギラした目を向けて、トクの我がままを許さない。
「トク子去る」の記事を載せた新聞
松本の取材は、なかなか先に進まなかった。それほどに、トクの一生は波乱に満ちていたということか。
「これからでは博多までの汽車もないでしょうし、泊まってらっしゃいよ。こんなお婆さんと一緒では怪しむものもいませんから。すぐ晩ご飯の用意をしますね」
トクが夕餉の準備をする間、松本はすっかり暗くなった町の灯りを眺めていた。
「最近ですよ、このあたりも夜が明るくなりました」
トクは、台所に立ったまま街の変わりようを説明した。
「すぐ近くに槌屋足袋の大きな工場ができましたし、国武喜次郎さんや本村庄平さんの工場もますます繁盛です。久留米の駅を降りてここまで来るのに、工場ばかりだったでしょう。40年前までは、雑草ばかりの淋しいところだったのにね」
久しぶりに向きあって食べるご飯はおいしいと言って、トクは食事中はしゃぎ放しであった。
「私の宝物をお見せしましょうか」
トクは、箪笥(たんす)の引き出しから1冊の帳面を取り出した。
「日吉町の頃に働いていた人たちの名前と居所ですよ。亡くなった野田ハツコさんや、奥州の安積(あさか)に行ったツタエさんの名前もありますでしょう。ざっと500人にはなりますか。ひとり暮らしが身に染みると、この帳面を引っ張り出しています。縞織りを習おうとする娘さんも、教える私も、いつも真剣勝負でしたからね。時には私が辛くあたったために店を出て行った人もいました。出て行ってもすぐに戻ってくる娘(こ)もあれば、そのまま帰ってこない人もいました。30年たった今でも、みなさんの顔や性格をはっきり覚えていますよ」
小川トク自身が最高に充実したときは、日吉町ではた屋を開業する前後だったのだと松本には聞こえた。
「ひょんなことから久留米の町に舞い降りまして。はた屋を開業し、再婚して娘を産むまでは無我夢中でしたからね」
「でも、あなたは水道町に移ってからも、精一杯働きました」
「そうですね、私がこけたら、作業場や店で働いている方とそのご家族を日干しにさせてしまいますから・・・」
「あなたが久留米に来て、一番辛かったのは、やはり娘さんを亡くした時ですか」
「あの時ばかりは、浅乃の後を追いたかったですよ。でも、死ぬことすらままならない自分が情けなくて。そんな時、本村のおじさんやおシゲさんの励ましにどれほど勇気づけられたことか。お二人に受けたご恩は生涯忘れまいと、自分に言い聞かせております」
話題が娘浅乃に及ぶと、トクの口調も一気に落ちる。
「娘さんと貴女のお墓に、お別れのご挨拶は済みましたか」
松本の切り返しも、遠慮がちになる。
「宮ヶ谷塔に帰れば、娘のお墓からは遠くなりますが、どこに行ってもあの子の魂は私の体の中に息づいていますから。一緒に宮ヶ谷塔に連れていくのと同じことです」
松本高志は、二度と会うこともないだろう目の前の老女に、聞き忘れがないか確かめた。
「おさらいをさせてください。あなたが織った久留米縞は、他の縞織と比べてどこがどのように優れているのです?」
「最初に申しましたでしょう。それまで当地で織られていた縞は、生地が弱くて染めも悪かったのです。何より、女の人が身につけるのに洒落(しゃれ)や品(ひん)といったものがどこにも見当たりませんでした。これじゃみなさん、少々値が張ってもかすりの方に気持ちがいってしまいますよね」
「それで・・・」
「そこで私は、宮ヶ谷塔で織っていた縞に自分なりの工夫を加えれば、久留米の方々にもきっと喜んでもらえると思ったのです」
「今では当たり前になった千筋や万筋、それに縞(しま)微塵(みじん)などですね。それらの織柄の原点はふるさとの宮ヶ谷塔にあった・・・」
左から千筋−万筋−みじん筋
(蕨市歴史民俗資料館講座資料)
「そうですね。何しろ、あちらで織ったものは、大江戸での品定めに合格したものばかりですから。でも、宮ヶ谷塔でのはた織りがどんなものだったか、いざはた織りを再開しようとすると、なかなか思い出せないのです。情けなかったですね、あの時ばかりは」
「織り機も織り柄も、あなたの記憶の中にしかなかったからですね。苦労しましたね」
「久留米でのいざり機では、窮屈なばかりでどうにもなりませんし。また、一つ一つ重い杼を送るやり方では、量産も無理でしょう」
「そこであなたは、宮ヶ谷塔時代の織り機を思い出して、小川トク流の高機(たかはた)を作りました。それから、投げ杼(なげび)の記憶も戻ったのですね」
「そうです。それに高機に付随した揚げ枠や座繰り機、絹織りが許されたために、それ用に撚(よ)り掛け機も考えなければなりませんでした。そんなもの、久留米のどこにもありませんでしたしね」
「絹織りが許されて、織物にも派手さが加わりました。それから、当時東京で大流行(はや)りしていたのは、二タ子縞だったと言いましたね」
「そうです、こちらに参りましてからは双子縞と呼んでいます。細い糸を撚(よ)り合わせて1本の糸にします。二つの力が合わさって、より強い糸ができるのです。それがまた品のある布にもなるのです。2本の糸を撚り合わせて1本の強い糸にするなんて、まるで、宮ヶ谷塔と久留米が合体して双子の姉妹になったみたいですね」
自分で発した言葉がおかしかったのか、トクが大笑いした。
「最後にもう一つだけお尋ねします。あなたは、ふるさとに帰ってからも縞織りを続けるのですか」
「曾孫(ひまご)の普段着くらいは織るかもしれません。でも、縞織りを商いにする気は、もうありません。人間らしさを取り戻すために帰るのですから。申し上げましたように、帰る旅賃すら息子に出してもらわなきゃならない惨めな年寄りです。ですが、お国(久留米)のお金を一文たりとも持ち出さない私を、金にきれいな女だと褒めてくださいな」
その時、トクの目が潤んでいることを松本は見逃さなかった。
「私の話はそこまでです。今日の世情から見ますれば、まことにつまらない、呑気(のんき)な話でございまして。お話したこと自体が恥ずかしい限りです」
トクは座りなおして、話を聞いてくれた新聞記者に深々と頭を下げた。
松本が取材してまとめた「小川とく子去る」の記事は、明治43(1910)年8月21日から4日間(9574号〜9577号)、福岡日日新聞(現西日本新聞)に連載された。松本は、連載の最後を次のように結んでいる。
「小川トク(子)去る」の新聞記事
「老媼(ろうおうん)(老女)の一生の物語は、先斯なものであった。聞くところによれば、媼は久留米にありても、一度は夫もあり娘もあったが、不幸にも娘に先立たれて寂しき老後の孤独な生活を続けていたものであるが、一代の元祖と呼ばれながら、その末路はすこぶる同情に堪えなかったので、媼に対し、『今媼が久留米を去るに臨み、その功績に報いることが充分でないのは、地方の面目からいってもまことに遺憾の次第であるが、而し媼半生の偉業は筑後に縞織物の続かん限り、永く名を後の世に伝えるは勿論であるから、媼もまた大いに慰むるところあるだろう』ということをもってしたが、媼はにっこりして膝を叩いて、『つまらぬ私をそんなに思っていただきますのは、ただ有り難いばかりでございます』と締めくくった。記者は媼の健康を祝して帰社したのである」
大石平太郎と青木倉蔵が風呂敷包を下げてやってきたのは、松本記者が帰って3日後であった。風呂敷の中には50円もの大金が入っていた。
「先生が久留米を去られることを知った弟子たちが、かすりや縞を売る店を一軒一軒訪ねて集めた餞別金です」
日頃は「トクさん」で通す平太郎が、この時ばかりは「先生」と呼んだ。
「私も涙もろくなりました。平太郎さん、倉蔵さん、どうかみなさまによろしくお伝えください。これでようやく曾孫(ひまご)たちに持っていくみやげが買えます」
トクは、交互に二人の弟子の手を握り締めながら、真っ白になった頭を下げた。
称徳の石碑
再びやってきた孫の徳次郎と連れ立って、トクは九州鉄道の停車場に向かった。見送ってくれる人がいないことに寂しさはなかった。思いは故郷の宮ヶ谷塔に飛んでいるし、来るときの決死の覚悟とは異なり、帰りは愛娘(まなむすめ)の位牌を抱きながら、愛しい孫に手を引かれての里帰りの旅なのだから。
「筑後から武蔵までは、おばあちゃんが思うほどに遠くないよ」と言ってくれた徳次郎のひと言が、ますます気持ちを浮き立たせてくれた。
停車場の周囲に人だかりができている。
「先生、お待ちしておりました」
野田マサエと何人かの弟子が走り寄ってきた。
「何ごとなの、こんなに大勢して」
「何を言いよるとですか。先生ば見送りに来た人たちですよ」
また涙が噴き出した。徳次郎がポケットからハンカチーフを取り出して、そっと祖母の手に渡した。
待合室は見送りの人で立錐(りっすい)の余地もない。縞織同業組合の会長が「ご恩に報いないまま見送るのが辛い」と言って大声をあげて泣きだした。
汽笛があたりに鳴り響いた。明治44(1911)年9月15日午後2時2分、列車は轟音とともに大量の蒸気を噴き上げて、ゆっくりと駅のホームを離れていった。名残り尽きない人々を遠ざけるように、汽車は間もなく筑後川の鉄橋を渡った。
初めて久留米に着いたとき、二度と後戻りのできない「三途の川」に思えた大川も、ひと飛びで向こう岸へ。筑後の地に降り立ってから43年後のことである。
現在の筑後川鉄橋(手前が久留米方面)
小川トクが久留米を去って3年が経過した。第一次世界大戦の勃発で騒然たる新聞社内の松本高志の手もとに、一通の封書が届けられた。差出人は小川徳次郎である。
「先日、祖母小川トクが75歳で亡くなりました。生前は大変お世話になりました」
差出人は、あの時トクを迎えに来た孫だとわかった。取材の途中で何度も「息子の名代として孫徳次郎が迎えにきてくれます」と打ち明けていたことを思い出したからである。
読み進むうちに、小川トクの強烈な個性が眼前に迫った。
「祖母は、宮ヶ谷塔に帰るとすぐ、両親が眠る墓前で泣き崩れました。孫の私には想像もできないことですが、未だ幼少の頃に相次いであの世に旅立った父と母の面影が脳裏を駆け巡ったのだと思います。
祖母はその後、孫の私に小声で尋ねました。若い時分に、江戸でお世話になった清吉さんの所在を知らないかと。二人が別れてからの40年は、宮ヶ谷塔に住む人々の事情も変えてしまっていました。清吉さんが10年前に亡くなったことを祖母に伝えたところ、見るに忍びないほどに気落ちしていました。
その後の祖母は、父栄三郎ともすっかり打ち解けて、静かに余生を送っていました。申し遅れるところでしたが、祖母トクは、やっぱりはた織りの魅力から解放されることはなく、帰郷後も近所の娘さんたちを呼び集めては、縞織りの手ほどきを続けておりました。
そんな平和な暮らしも長くは続かず、久留米から戻って3年経った大正2(1913)年12月20日に永眠しました。父栄三郎は、短い時間でも、母は生まれた場所で過ごせたことを喜んだに違いないと言っています。祖母の法名は『永山実性禅定尼』で、前記両親の墓のそばに埋葬いたしました」
松本高志が、小川徳次郎から次の手紙を受け取ったのは更に1年後であった。徳次郎の文面は、松本の気持ちを一層高ぶらせることになる。
小川トクが死去した翌年の春(大正3年)。久留米縞同業組合から息子栄三郎に対して、彼女が望郷の念に駆られていた場所に石碑を建てて欲しいと、金50円を送ってきた。
添えられた手紙には、化学染料の一件で一度は袂(たもと)を分った同業組合が、すべてを水に流して再び合流したこと。組合は、市内篠山(ささやま)神社(久留米城跡)で、久留米縞の創業者小川トクを偲んで酒食の宴を催した。出席者は、来賓の久留米市長をはじめ組合関係者など総勢90名あまり。これは組合結成以来の盛事である。トク女から直接教えを受けた参加者は涙を流して喜んでいた、とも。
栄三郎らは、組合の意思を受けて、菩提寺覚蔵院の境内に頌徳(しょうとく)の石碑を建立した。石碑は、「墓の主は宮ヶ谷塔が生んだ偉大な人物」であることを村民に徹底することになった。
後に石碑は、覚蔵院から村民が集う氷川神社境内に移された。現在石碑が建っている氷川神社とは、かつて、トクが初恋の清吉と語らった場所である。(完)
小川トク頌徳の碑(さいたま市宮ヶ谷塔・氷川神社)
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