第4部 七転び八起き    
 @友人こそ財産 A 大儲け B 買い漁り C 内戦勃発
 D荷が野ざらしに  E命からがらの帰還 F 時機を待つ G 人吉の攻防
H 妻の逆襲 I 走るもの躓きやすい  

友人こそ財産 @

「河野さまに聞こゆるとまずかけん」
嘉助に背中を押されるようにして青々館を出た雲平。2人は、牛鍋屋に着くまで無口のままだった。
「何ごとか知らんが、深刻な話があるごたるな」
 山田平四郎は、2人を2階のプライベートルームに案内した。そこにも、七輪と鉄鍋は置いてある。
「すぐに用意させるけん」
写真:西郷隆盛肖像(鹿児島市維新ふるさと館)
 言い置いて平四郎がいなくなると、雲平の情けない顔が、更にしょげ返った。
「そげん情けなか顔ばするもんじゃなか、雲平しゃん。前に言うたろう。今度の西郷さんと政府との戦いは、久留米ん人間にとっても他人ごとじゃなかち。もちろん、商人にとっても、知らん顔はできん。雲平しゃん、ここは一番、あんたの出番たい」
「何のために?」
「あんたが、もう一まわり大きか商人になるために」
「ばってん、卯之助と2人でどげん頑張っても、1日に100足しか作れんとばい。20日かけても、せいぜい2千足がよかとこたい。それに、ズボン下とかシャツまで作れち言われても」
 雲平の泣きごとは、嘉助にとって少々食傷気味である。
「そんなら、どうして、必ず期日までに納品させていただきますち言うたと」
「あの場じゃ、そげん言わなきゃ殺されるち思うた。それに、嘉助も助け舟ば出してくれんじゃった」
「また、人のせいにして。人間、死ぬつもりなら、どげなことでもできるとじゃなかか。雲平しゃんがこれまでに積み上げてきた財産ば使えばよか」
 謎かけみたいな嘉助の進言に、雲平は生消化のままで店に帰ってきた。
「嘉助さんが言いなさる財産とは、これまでにあなたさんがお付き合いをした方々のことじゃないでしょうか」
 浮かぬ顔の雲平から、いきさつを聞いたモトが膝を乗り出した。
「その人たちが、2万足もの足袋ば作ってくれるち言うとか」
「そうじゃありませんよ。その方々の知恵とかお力を借りたらどうかということです。もちろん、借りたものは必ず返さなければなりませんが」
 モトも、嘉助と同じことを言う。おぼろげながら、嘉助とモトが言う「積み上げてきた財産」の意味が分かってきた。
「ばってん、俺には、長崎の親方とか博多の甚兵衛さんの顔くらいしか思い浮かばん」
 恩になった2人に、またまた力を貸して下さいと、頭を下げる自信がない。
「何を今さら弱気を言い出すのですか。あなたさんは、陸軍の偉いお方に、必ず20日以内に納品しますと約束されたのでしょう。そのことを、今さら『やっぱり無理です』と言えますか。言えないでしょう。だったら、当たって砕けるしかないじゃありませんか」
 2人の会話に卯之助も加わって、深夜まで作戦会議は続いた。
「それじゃ、行ってきます」
 雲平から託された小川源助への親書を懐に、卯之助が翌朝早く長崎に向かった。
「じゃあ、後のことは頼む」
 一人店に残るモトに声をかけると、雲平も足早に博多を目指した。達磨屋の甚兵衛に助力を求めるためである。
 甚兵衛は、材料と縫製道具を揃えることに同意した。
「なあに、雲平に投資するんだから、代金なんぞは後回しだ」
 胸を叩いた甚兵衛は、博多の町の木綿や糸の材料店を連れ回した。
「もう1軒」
 最後に連れていかれたのは、博多でも指折りの縫製工場であった。
「わかりました。達磨屋さんの頼みを断るわけにもいきませんからね。2、3日中には、腕利きの職人を久留米に向かわせまっしょ」
 主人が、甚兵衛の頼みを引き受けた。

大儲けA

 卯之助が長崎から帰ってきて5日後、槌屋足袋店に5人の男がやってきた。源助親方が仕向けた足袋職人たちである。一行の頭格は、かつて雲平への指南役を務めた兄弟子の国松であった。彼らは、愛用の鋏と尺など、足袋製作に必要な道具を持参している。
「久し振りじゃったない、雲平」
 雲平の手助けをするのは自分を置いて他にはないと、国松の方から親方に申し出たのだと言う。
「店も忙しかでしょうに。親方が、国松さんばよう出してくれたですね」
 雲平は、親方の心遣いを喜んだ。
「いくら兵隊が履く足袋ちいうても、いい加減なものば作るわけにはいかん。それに、数が数じゃけ、俺たち5人だけじゃ間に合わん。親方は下関におるむかしの兄弟弟子の方にも電報を打ちなさった。その内来るじゃろ」
写真:西南戦争時総督本営となった明善堂(久留米市史)
 国松は、注文の足袋の種類などを確かめた後、大きさに合わせて、何種類もの型紙を描き始めた。そうこうするうちに、車力3台に積みこんだ材料が博多から届いた。運んできた10人は、いずれも達磨屋が依頼した仕立物屋の職人たちである。次の日には、下関からも足袋職人5人が到着した。
「俺たちがシャツとズボン下ば受け持ちますけん。余った人間は、足袋縫いば加勢するように言われとります」
 仕立て職人は、「達磨屋さんへの恩返しのつもりで頑張ります」と言った。嘉助が集めた地元のおなご衆は30人。駄賃が目当ての主婦や娘たちである。総勢50人の作業要員は、近くの寺を借りて、突貫作業に入った。
 本堂いっぱいに広げられた木綿生地が、国松らによってリズムよく裁断されていく。未だミシンなど考えられない時代である。女たちは、職人の指示に従って、大小の針を使い分けながら縫い合わせた。日頃、家庭内で行う裁縫とは桁違いの大仕事である。博多と下関から駆け付けた職人は、シャツと股引を同時進行で製造していった。
 モトと兄嫁のフデが、自宅からお茶を運んでくる。朝昼晩の食事は、青々館のミヨとトミ子が中心になって拵えた。
 休みなしで回し続けた大車輪は、期限まで3日を残して止まった。車力3台に積んだ足袋とシャツと股引が、卯之助や国松らによって明善堂内の司令本部に運び込まれた。
 翌日出向いた雲平に、河野の代理として出てきた軍人は、「ご苦労」の一言もなく事務的に代金を支払った。袋の中身は、雲平が予想した2倍の金額だった。生まれてこの方目にしたことのない高額紙幣の束である。
 達磨屋への材料費と、遠くから駆け付けた職人、地元で雇った縫い子たちへの報酬、寺の借り賃、青々館への弁当代と宿代などすべての経費を支払っても、なお半分以上の金が雲平の手元に残った。

軍需品の買い漁りB

 明治10年(1877年)が明けた。雲平は、今回の薩摩と政府の衝突が「消耗戦」になると踏んでいる。そこで、政府軍からの追加注文を見込んで、物資の買い集めを考えた。
 モトに対して、「商人として、一世一代の大勝負たい」と言い残し博多に向かった。そのとき、妻の不安な顔を見返ることはしなかった。
 博多に着いた雲平は、以前達磨屋の紹介で知り合った商人を訪ねた。兵隊が着用する肌着類や草鞋、それに食料の梅干、漬物類、更には油紙まで、片端から注文した。
写真:西南戦争での薩軍服装(田原坂資料館)
 買い集めた品物は、一括して熊本城内にある兵糧倉庫宛に送りだした。受取人は陸軍の河野参謀。以前に河野が、「戦争が始まったら、いくらでも高値で買い取る」と豪語していたからである。明治10年の年明け早々であった。
 大仕事の疲労から少しだけ解放された2月。
「西郷さんの軍隊が、鹿児島ば出発しなさったげな」
 嘉助が、雲平の店にやって来て告げた。彼には、泊り客から聞いて、生々しい戦況が手に取るように分かるらしい。
「いよいよ戦争が始まるとばいね。西郷さんの薩摩軍はどのくらいの人数じゃろか」
「お客さんの話だと、その数2万は下らんち言うとらした。鹿児島から東目・西目の街道に分かれて出発したらしか」
 東目・西目とは、鹿児島を起点にして、筑前までの旧街道の内出水回りを西目、大口回りを東目と呼んだ。
「政府は、熊本から先には、薩摩軍を一歩も通さんつもりたい」
 これも、嘉助が持ってきた情報である。政府は、熊本城内の司令本部から打たれる電報で、敵の動きを詳細に把握していて、徴兵制で集めた兵隊を、陸上と海上から続々と九州に送り込んでいるという。
 もともと熊本の司令本部に常駐する鎮台兵の数は、2千600人しかいない。司令長官の谷干城は、味方軍隊が圧倒的に少数であることを悟り、援軍の到着までの籠城を決め込んでいた。
 そこに想定外の出来事が。熊本城の象徴でもある天守閣が炎に包まれたのだ。戦国時代の武将・加藤清正が精魂こめて築いたあの熊本城がである。火災は飛び火して、貯蔵していた食料まで焼き尽くした。城内に籠る司令部にとって、蓄えている兵糧を失うことは絶望を意味する。薩摩軍が未だ熊本に着く以前の2月19日のことであった。
 鎮台兵が圧倒的に不利のなか、熊本に到着した薩摩軍の本体は、熊本城に向かって攻撃の火蓋を切った。明治10年の2月21日である。世に言う「西南戦争」の始まりであった。
写真:西南戦争時焼失直前の熊本城天守閣(田原坂資料館)

内戦勃発C

 「陸軍関係のお客さんが言いよらしたもん。政府軍と薩摩軍のせめぎ合いは、当分続くじゃろうち」
「この戦争は長引くちいうことじゃな」
 雲平は、嘉助の戦況報告を内心喜んだ。雲平の商いには積極的であったはずの嘉助がブレーキをかけた。
「戦争が長引いたら、陸軍が軍需物資ば欲しがるはずと考えたまではよか。ばってん、相手からの曖昧な注文ば真に受けて、有り金ば叩くとは...」
「これから大勝負ばしようちいうときに、ケチばつけんでもよかろう。戦争が始まる今が、売り込みの絶好のときたい。熊本に行ってくる」
 雲平は、翌朝嘉助らの心配を振り切って熊本に向った。明治10年2月21日であった。
「行ってらっしゃいませ。私と卯之助さんで店は守りますから」と、モトは当座の旅費として10円を差し出した。
 肥後の玄関口である南ノ関(現在の南関町)では、草鞋履きの下級兵士ばかりが目について、農民の姿などはどこにも見当たらない。
 熊本の城下に入っても、人影はまばらだった。水前寺近くの茶店で昼飯を詰め込みながら、親爺に訊いた。
「2週間前だったか、熊本の鎮台から『賊軍が攻めて来るけん、安全な場所に逃げよ』と、お触れが回ったんだわ。その直後に城下から人影が消えてしもうた。ここで生まれ育ったもんが、ここで死ぬんなら本望言うて、わしは動かんかった。店も開けたまんまじゃ。そうこうしているうちに、2月19日の昼前じゃった。外に出て見ると、お城の天守から炎が上がっているんだわ。びっくりしたなもう。その時まで薩摩軍が到着したという話は聞いておらんかったし、誰がお城に火をつけたんやら...」
 親爺は、朝晩親しんできたお城が焼け落ちるのを見るのが、身を切られるように辛かったとも述懐した。
「薩摩兵が熊本城を攻めなさったのは昨日のこと。お城だけじゃのうて、街にも火をつけなさったんだわ。お陰で見渡す限り黒焦げになってしもうた」
 それにしても、茶店の親爺の話ぶりは、事の重大性からはかけ離れた、ゆったりしたものだ。
「町の人は、どこに行ったの?」
「言いましたやろ。前もって鎮台からお触れが回ったと。熊本の周りはみんな山じゃけん、逃げるところはいくらでもありますがな」
 熊本城の天守閣が炎上した直後にも、小倉の歩兵第14隊330人が。東京警視隊400人も熊本城に近づいている。更に、野津・三好両司令官率いる旅団が、博多港に上陸した後、南ノ関に向かった。

 荷が野ざらしにD

 雲平は、茶店を出ると、迷わず熊本城を目指した。
 予期した通り、天守閣はその形をなくしていた。街中には、鼻をつく焦げくさい臭いが充満している。
 司令部の番兵に河野参謀への面会を要請した。
「この非常時に何ごとか!」
 一喝されると、それでは、城内に送り込んだ物資を確かめさせて欲しいとすがった。雲平が送りだした荷は、むしろも被せないままに放り出されていた。
 腸が煮え返るが、怒りの矛先をどこに向けてよいのものか。通りかかった軍人らしい男に物資係に面会することはできないかと尋ねた。
「荷物を無駄にしたくなかったら、今の内に安全な場所に移しておけ」と、言い残して立ち去った。
 大金をすべて叩いて買い集めた兵糧物資を、むざむざとゴミにしてたまるか。何としても、官軍に買いとってもらわなければならない。
 戦況は、雲平が時機をうかがっている間にも、急展開した。薩摩軍は、熊本城の包囲網を維持しながら、一方で、桐野利秋率いる部隊が山鹿方面へ。そしてもう一つの部隊は、田原坂や吉次方面に進軍した。
 一方、熊本城に籠城していた政府軍の一部は、薩摩軍の包囲網を突破して南方の宇土へ飛んだ。彼らは、日奈久と八代に上陸した別働隊と合流して、熊本城を取り巻く薩摩軍を逆襲したのである。薩摩軍は、たまらずに城郭の包囲網を解除した。
 戦闘のすさまじさは、田原坂から20里(約80`)離れた久留米の町でも、手に取るようにわかった。戦場から搬送されてくる死傷兵が、何よりも激戦のすさまじさを物語っていた。負傷兵を介護するために設けられた久留米包帯所(臨時の病院)には、1300人が運び込まれたと記録されている。大包帯所のある熊本や南関、高瀬など前線の病院を含めると、その数は何十倍にも膨らんだはずである。
 薩摩軍が、田原坂方面に進軍している同時刻に、政府軍の、第1、第2、第3旅団が続々と熊本に向かった。開戦から10日経った頃には、田原坂まで進んだ政府軍が、北上してくる薩摩軍に襲いかかった。
 田原坂の戦いは17昼夜に及んだ。そして開戦からひと月が経過した3月20日、ついに薩摩軍は熊本からの退却を余儀なくされた。
 田原坂など熊本県北部地方での戦闘で、官軍・薩摩軍合わせて3600人以上の命が失われている。(因みに、西南戦争全体では、官軍・薩摩軍合わせて1万3168人の兵が戦死した。=田原坂資料館)
 その時倉田雲平には、大金を叩いて買い込んだ荷を捨てる選択肢など、まったく考えられなかった。

命からがらの帰還E

「そろそろ着くけん、目ば覚まして」
 聞き慣れない図太い男の声で目が覚めた。
「面白か男だね、あんたは」
 自分の顔を見下ろしている大男、どこかで会ったような気もする。
「まる1日も、ずっと眠ったままじゃけんな」
 そこまで聞いて、男が何者か理解できた。
「今日は何日ですか。今何時?」
「6月26日だ。もうすぐ陽が落ちるけん、大方6時過ぎだろうよ。西洋式の暦になってからちいうもんは、時間の感覚が狂うてしもてほんに困る」
写真:現在の若津港
 男は、呟きながら出て行った。ここは貨物船の船底。百貫石の港(現熊本市西区)で若津行きの貨物船を見つけ、船長に頼み込んで乗せてもらった。有り金を巾着ごと渡すと、船長は船底でいいなら寝ていてもいいよと許した。
 その時太陽は、西に聳える雲仙普賢岳の峰に隠れるところだった。あれから時計が一回りしたということか。看板に出て周囲を見渡す。川幅が広い河口付近で、大きな船が忙しく行き来していた。
「もうすぐ若津の港だ。ずっと眠りっ放しだったから、船が有明海から筑後川に入ったのも覚えとらんじゃろう。もうすぐ荷ば降ろすけん、それまでに目を覚ましときな」
 船長は、雲平の肩を叩くと、乗組員に次なる作業の指示を出した。
「助かりました。船に乗せてくれんかったら、俺はどげなことになったことか」
 雲平には、正直、目の前の男が仏に見えている。
「わしの顔ばそげんじろじろ見なさんな。恥ずかしかばい。ここから久留米まで歩いていくとなると、早うても2時間はかかるじゃろうない。気をつけてな」
 船長は、乗船のときに自分が渡した巾着を、そっくり雲平の手のひらに載せた。
「これは、...」
「わかっとるって。無銭乗船は嫌じゃち言いたかとじゃろう。だがよ、お前さん。このままじゃ久留米に行きつくまでに、干上がってしまうぜ」
 言われてみれば、乗船した昨日から、水以外はいっさい口にしていない。言われる通り、途中の城島あたりで行倒れになるかもしれない。
「あそこに見ゆる店の女将なら、温かい味噌汁ば飲ませてくれるだろうよ」
 船長は、桟橋から出たところの馴染みの飯屋を教えてくれた。
 目の前に槌屋足袋店の表戸がある。生きて帰れたことが不思議な気がする。陽はとっぷり暮れていて、誰からも声をかけられることはなかった。急ぎ熊本に向かってから、4ヶ月が経過している。
「あなたさんですか?」
 土間に降りてきたモトが、気ぜわしく表戸を開けた。その顔は、安堵というより、夫が目の前に立っていることが信じられない様子である。被っている笠は破れ放題だし、足元の草鞋は擦り切れたまま。出立するときとは比べようもないほどに頬はこけ、体は別人のように痩せ細っている。その分、眼光が鋭くなった。
「熊本から戻ってきたのですか」
「熊本の百貫石から若津まで、親切な船長さんが貨物船に乗せてくれた。若津からは歩いてきた」
 かいつまんで話している間も、モトは雲平が身に着けているものを気ぜわしく脱がせた。
「完全に見込みが違うた。この戦争は1年や2年じゃ終わらんち踏んどったもんで。大久保さん(官軍)にとっても西郷さん(薩摩軍)にとっても、意地と意地のぶつかり合いのようなもんじゃけんな。お互いに『参った』とはなかなか言いなさらんち思うておった」
 雲平は、モトが聞きもしないことを一方的にしゃべっている。物音を聞きつけて2階の作業部屋から下りてきた卯之助と入れ替わりに、モトは急ぎ風呂場に去った。
「怒らないのか、モト」
 風呂から出て、糊の利いた浴衣に着替えても、雲平はまともに妻の顔を見れないでいる。
「あなたさんは、お仕事で出かけられたのです。精いっぱい働きなさって、その結果がうまくいかなかったからといって、私が怒る筋合いでもないでしょう」
 妻が発する最大限の皮肉かと疑ってもみる。
「人吉までいらっしゃったのですか。噂に聞けば、西郷さまの軍隊は、人吉で官軍と激しゅう戦われたそうですね。その後、日向の方へ退却なさったとか。ときどき嘉助さんからお話を聞いております」
 戦地にいると、官軍に売り込む軍需物資のことが頭から離れず、広く世の中の動きを見ることができなかった。
 翌日の昼過ぎ、店を出て通町を歩いた。4ヶ月留守をしただけなのに、何やら異郷の土でも踏んでいるような気がする。なかでもひときわ目立つのが、赤レンガ造りの倉庫。そこでは、屈強な男たちが、大きな荷物を次々と車力に積みこんでいた。荷は菰にくるんだままで、中身は分からない。
 それにしても、卸問屋が建ち並ぶ通町は人通りが多い。周辺の村から仕入れに来る常連に加えて、官軍の制服を着た兵隊の姿も目立つ。家に戻る前に、青々館の門を潜った。待ち構えたように嘉助が現れた。
写真:現存する国武商店の倉庫
「あの兵隊たちは、田原坂とか八代あたりで戦うた者たちたい。青森とか新潟とか、遠かところへの帰り道げな。戦争で命拾いした上に給金ば手にしたもんで、女房や子供どんにおみやげば買いよるとたい。お陰で、久留米の街は、いっぺんに春が来たごと潤っておる」
 嘉助は、雲平の疑問を先取りして、最近の久留米城下の繁盛ぶりを披露した。
「ところで話ば戻すばってん。雲平しゃんは今頃まで、どこで何ばしとったか。別嬪の奥さんば放たらかして」
 予期した通り、きついお咎めが飛んできた。
「4ヶ月も前だもんな、俺が家ば出たのは・・・」

時機を待つF

 雲平が、熊本の司令部に駆け付けたのは、西南戦争が勃発した翌日の2月22日だった。
 非常時ということで、頼りの河野参謀にも会えず、博多から送りこんだ品物は雨ざらしのままだった。それよりなにより驚くのは、戦争が急展開していることだった。
 熊本郊外で商機を窺っている間にも、官軍と薩軍の激突は、熊本城周辺から北方の田原坂・菊池川流域へと広がっている。なお北上しようとする薩摩軍の行く手を、政府軍は数の力で押し返した。
 田原坂での戦闘は、3月4日から、実に17昼夜に及んだ。だが、兵力と兵法に優位な政府軍は、次第に薩摩軍の戦力を細らせていった。3月20日、政府軍は遂に田原坂を制圧した。薩摩軍は、やむなく熊本まで後退した。そこで再び市街戦が展開される。その間にも、博多や熊本各地の港に上陸した政府軍の部隊が、続々と熊本市内に集結した。たまらず薩摩軍は、熊本からも撤退することになる。
 薩摩軍が熊本を離れて、南方の御船方面に敗走した直後、雲平は運送業者に頼んで、兵糧物資を八代港内の倉庫に送らせた。八代で、官軍と薩軍が激突しているという情報を得たからである。自らも荷物を追いかけたが、そこには官軍も薩摩軍の姿もなかった。諦めきれない雲平は、物資の一部を更に南方の人吉に送った。そして雲平も、官軍を追って球磨川を上っていった。
 官軍の後ろ姿を見ることもなく人吉に着き、町はずれの宿屋「長門屋」に草鞋を脱いだ。部屋に入るなり、宿の主人を呼んで、気になる官軍の動向を尋ねた。
「人吉には官軍はおりませんばい。薩摩の兵隊さんばっかりだが。官軍は、お客さんとは違う道ば下っとらすとやろ。今頃は、人吉に向かう山道で立ち往生しとるとじゃなかですかね」
 官軍の司令部にいつ会えるかもしれない。商いの相手を見失っては、先行きも見通せない。
「16年前の寅助火事で、お城(人吉城)が丸焼けになったとですよ。それで、薩摩軍は予定していたお城には陣を張れんで、川南の永国寺に本営を置きなさったとです。地元で幽霊寺と呼んどるお寺です。本営に属する2千人の兵隊さんは、町中に散らばっておられます」 
 寅助火事とは、文久2年(1862年)に、鉄砲鍛冶屋から出た大火事のことで、人吉城と城下の大半を焼失した。

人吉の攻防G

 雲平が知りたいことは、薩摩軍の動向ではない。だが主人は、雲平の関心事など知るわけもなく、贔屓の西郷のことばかりを話したがる。
「西郷さまは、昨日(4月27日)の朝、人吉に入られたそうですがね。球磨川べりで、愛犬2匹を連れた西郷さんば、私の知り合いが見かけたと言うとりました」
写真:薩軍が本営を置いた永国寺
 薩摩軍は、人吉城下に集結後、志願兵と軍需物資を集めて兵力増強に務めた。かつて、新政府の参議を務めた西郷の威光や、幕末に薩摩藩が習得した鉄砲製造の技術が役に立ち、地元有力者の協力を得たからである。
「西郷軍の備えは盤石ですからね。しばらくは、官軍との睨みあいになりましょうか」
 戦況の長期化を期待する雲平の茶化したような口ぶりに、主人の表情が強張った。だが、雲平の言葉とは裏腹に、この時点での薩摩軍は、政府軍に比べて質、量ともに極端に後れをとっていた。政府軍は、薩摩軍が陣取る人吉を、信じられないほどの大きな円で包囲していた。
「官軍が攻めてきて、薩摩軍は持ち堪えられますか」
 雲平が、一番気になることを訊いた。
「なにせ人吉というところは、球磨川沿いの道と、五木や五家荘から峠を越えてくる五家荘街道、五木街道、種山道など、それに日向や薩摩から上って来る街道が集まるところですけん。薩摩軍は、地形ば知り尽くしとる桐野さまを大将に据えて、あちこちの山道ば完全に塞いどるらしか」
 雲平にとって、いくら戦争が複雑化しても、商う相手は官軍しかいない。いつ、官軍が人吉に入ってくるのか、薩摩贔屓の親爺には打ち明けられない雲平の心配事であった。
 5月に入って、政府軍がいっせいに動き出した。12日から25日にかけて、鉄壁であるはずの街道防御が、政府軍の近代兵法によってことごとく打ち破られた。いよいよ、雲平が待ち望む政府軍の人吉入りが見えてきた。
 政府軍は、球磨盆地が一望できる村山台地から、長距離砲で攻勢に出た。雲平が寝泊まりしている宿屋まで、砲撃音や地上戦の様子が聞こえてくる。官軍も薩摩軍も、敵味方の区別をはっきりさせるために、あらゆる建物に火を放った。たちまち城下は火の海に。5月30日から6月1日まで、球磨川を挟んでのせめぎ合いが続いた。
「とうとう、永国寺まで焼かれてしもうた」
 親爺が、情けない顔をして、部屋に入ってきた。
「それで、西郷さんは何処に?」
「人の噂では、西郷さまも桐野さまも、日向の方に向かわれたとか」
 人吉の城下は、炎と黒煙に覆われた。あちらこちらに、殺された兵士の死体が転がっているという。人吉での戦いは、数と質に勝る官軍の一方的な勝利に終わった。薩摩軍は、一部投降した部隊を残して、加久藤峠から小林方面に敗走していった。
「それで、官軍は?」
写真:村山台地から人吉市街を一望
「当然、薩摩の軍を追いかけなさるでしょうな」
 雲平は、商いの最後の機会だと考えていた人吉でも、官軍と接触する機会を失ってしまった。
 ときは明治10年6月の初頭であった。
「それで、人吉まで持っていった荷物はどげんしたと?」
 嘉助の詰問は、なお続く。
「どげんもこげんもなか。荷物の送り賃や倉敷料(倉庫が受け取る保管料)などで、巾着の中はすっからかんになってしもうた。役に立たたんごとなった品もんは、旅籠の親爺に二束三文で引き取ってもろうた。その銭で宿代ば棒引きにしてもろうて八代まで来たと」
「それからどうした」
 嘉助は、目の前の友人の話を涼しい顔で聞いている。
「笑いごとじゃなかばい、嘉助」
「笑うとりゃせんばい。それで...」
「商いの目標ば失うてしもうて、人吉から八代まで歩いた球磨川沿いの道の長かったこと。2日かけてやっと八代に着いて、港に残していた荷物ば整理して...」
「それから...」
「八代からは、ひたすら久留米を目指して歩いたさ。ばってん、百貫石(現熊本市西区)まで来ると、疲れと空腹が重なって足が前に進まんごとなってしもうた」
 あたりば見渡したが、食べ物屋もない。そんな時、材木を積んだ貨物船が大川の若津に行くと聞いて、船長に哀願した。
「ちょっとだけ残っておった銭ば船長さんに渡して、お願いしとたい。乗せて行って下さいち。そしたら船長さん、船底でよかったらということで乗せてくれた。そんときばかりは、船長さんが菩薩さまに見えたもん」
「何ば、のんびりしたこつば言いよるとか。こっちの心配も知らんで」
 嘉助の先ほどまでの涼しい顔が怒り顔に変わっている。

妻の逆襲H

「ところで、嘉助」
 雲平は、先ほど通町で見た赤れんが倉庫のことが気になっている。
「あそこから運び出しとる荷物は、あれはいったい何?」
「国武商店はかすり屋じゃけん、菰の中もかすりじゃろ。ばってん...」
「ばってん、何?」
「かすりばかりじゃのうて、上等な呉服とか女用の履物とかも...」
「この非常時に、何でそげな贅沢品ば」
「非常時じゃけんたい。あの人は、先に近江商人と組んで大儲けせらしたもん。その銭ば全部叩いていろいろな物ば買い集めらした。雲平しゃんと同じようにない。ばってん、集めた品物は戦争が終わるまであの倉庫に入れたままにしとらした」
「そこが、買ったはなから熊本に送り込んだ俺とは違うと言いたかわけね。ばってん、仕入れた物は売らんことには、商いにはならん」
 国武商店の国武喜次郎は、商いの勝負どころは戦争の後と読んでいた節がある。戦争中は荷物を倉庫に眠らせていておいて、薩摩軍が熊本から撤退したことを確認してから動きだした。品物を熊本の城下に持ち込み、予め話をつけていた呉服商のもとに運び込んだ。
「ばってん、熊本は戦争で焼け野が原ばい。そげなところで高級な呉服が売れるわけはなか」
「そうじゃなかと、熊本の人は。家は焼かれても、銭はけっして手放さなかった。熊本の商人は、そげな客の真理ばよう知っておりなさった」
「ばってん...」
「建物が無うても、売る場所さえあれば商いはでくる。焼け跡にござば敷いて、その上に高級呉服ば並べなさった。そうしたら、売り手の言い値でどんどん売れるち。国武さんは、そげな熊本の商人と組んどらした」
 親友は、更にたたみかけた。
写真:市街から見上げる熊本城
「国武さんは、政府軍に協力しながら、一方では自分なりの商いば考えとりなさったちいうわけたい。雲平しゃん、お前だけぞ。人の言うことも聞かんで、あげんに苦労して儲けた銭ば、いっぺんにすっからかんにしてしもうたのは」
 嘉助の話を聞きながら、自身の気持ちが底知れず落ち込んでいくのを止めようがなかった。
 疲れた体に親友からの追い打ちを受けて、足取りも重く店に帰ってきた。
「お帰りなさい。あなたさんに少しお話があります」
 モトが機嫌のよくない顔で出迎えた。2階の自室に入ると、追うようにしてモトも座った。
「何ごとな。急がんじゃったら、明日にしてくれんね」
 そのまま横たわりたい心境であった。
「これを受け取って欲しいのです」
 モトは懐から紙包みを取り出すと、雲平の膝の前に置いた。中を開くと、5円紙幣が20枚重ねてある。
「このお金は、あなたさんの留守中に、卯之助さんと2人で足袋を縫って稼いだものです。それに、このようなこともあろうかと、先に陸軍さまからいただいたお金の残りを足しました」
 雲平には、差し出された札束をどうしたら良いものか見当もつかなかった。
「元手も人手も、みんなあなたさんのものですから、このお金もみんなあなたさんのものです。1度や2度の失敗で、この世もお終いというお顔をなさらないでください。100円がどれほどのものか私には分かりませんが、ここから一緒に出直しましょう」
 夫婦の沈黙がしばらく続いた。
「そこで、あなたさんにお訊きしたいのですが」
 予想した通り、モトから二の矢が飛んできた。
「あなたさんは、今回の商いの失敗の原因を、どのように考えておいでですか」
 所帯を持って初めて食らう、妻からの一撃である。
「嘉助にも言われたばってん。陸軍相手の金儲けで、有頂天になってしもうたんやろうな。それに...」
 人吉からの帰り道に考えていたたことであったが、はっきり言葉にならない。
「あなたさんが、私と一緒になるときおっしゃいました。俺は足袋作りを天職と考えて長崎で修行したと」
 雲平が答えを躊躇している間に、先を越されてしまった。確かに足袋作りは自分で考えぬいた末に得た天職だと、新妻の前で断言した。その天職と、今回の商いの失敗がどこで結びつくのか。
「あなたさんは、この度の政府と薩摩の戦争をどんな風に考えておられるのですか」
 二の矢の次は三の矢である。妻は身をかわす間も与えてくれない。商いのことは考えていても、戦争そのもののことまで考えたことはなかった。
「街で見かける兵隊さんですね。お尋ねすれば、青森とか秋田とか新潟とか、全国隅々からおいでです。皆さん、一様にくたびれた顔をしていらっしゃいます。本来なら、生きて帰れるのですから、もう少し喜んでもよさそうなものを」
 明治政府は、徴兵にあたって百姓や商人の跡取りを順番から外した。これが税を取り立てるために欠かせない方策だった。重い足取りで故郷に向かう兵士たちは、農家の二男坊であったり三男坊だったり、或いは水呑百姓もそうだ。世間から見放されがちな階層の人たちである。彼らが帰る田舎には、戦場と同様の辛い現実が待ちかまえている。水呑百姓とは、田畑を所有しない貧しい小作のことであったり、日雇いの農民のことである。対して、田畑を有する農民を「本百姓」と呼んだ。
「私が倉田家に嫁に来る気になったのは、あなたさんが、人が嫌がる半物職人の道を選んだ人だったからです。貧しくても一生懸命に生きる人たちのために、履きやすくて、丈夫で、しかも手頃な値段で買える足袋を作る旦那さまって、素敵じゃありませんか。私は、武家育ちですが、ものを作る職人やお百姓さんたちを尊敬していたのです」

走るもの躓きやすしI

 妻モトの追及は止みそうになかった。武家の娘から商家の嫁にきて、慣れない暮らしを辛抱しながら、何とか夫を支えて生きてきた。読み書きそろばんを得意としたモトは、即戦力として夫から重宝がられた。大福帳の記帳や整理に励むことで、売りあげ代金回収の充実にも結びつけた。現金決済が増えて、仕入先からの信用も増した。
 結婚から3年が経過して、倉田家でも、商いと家事の両面をこなすモトへの信頼が厚くなった。そんな時、舞い込んできた陸軍からの大量注文である。兵隊が履く草鞋掛け足袋2万足に、シャツと股引をそれぞれ1万枚という、桁外れの商いであった。夫と卯之助は職人集めと材料の確保に奔走した。モトに、戸惑っている暇などなかった。
 家事の傍ら、作業する職人や臨時に雇った主婦などへの食事の手配など、てんてこ舞いの毎日であった。その間も、材料や給金の出し入れに神経を使わなければならない。手持ちの資金が皆無に近い綱渡り状態でのやりくりであり、材料屋や作業場として借りた寺に対して、頭を下げて回るのもモトの役割であった。
「私があなたさんにもう一つお尋ねしたいのは、これから先、どのように商いをなさろうとお考えか」
 厳しい投げかけは際限なく続く。モトは、ここに至るまでにいろいろなことを考えたに違いない。中途半端な答えでは、とても許してくれそうになかった。紙包みの100円は、畳の上に置かれたままであった。
「一度大金を手にして、俺の目は、節穴になってしもうた。真っ暗闇の中を、ただ走り回ることしかできんかった」
「幼い頃、私の父から、『走るものは躓きやすい、爪立つ者は倒れやすい』という言葉を聞かされたことがあります。あなたさんが経験なさった今回のことに通じましょうか」
「もう一度自分を見つめ直して、気持ちを足袋職人に戻さなきゃな。急がず騒がずだ」
 雲平は、自分への戒めを認めて、これから先の商いの精神的支柱に据えることにした。
「走るものは躓きやすい、爪立つものは倒れやすい。堅実なる一歩ずつを進めよ。進めたる足は堅く踏みしめよ」と。

ページトップへ   次ページへ 目次へ  表紙