大河を遡る/九重高原開拓史

マスコミの紹介&評価(其のT)

 本著出版にあたり、発刊元の西日本新聞ほか、新聞や雑誌・放送などが、たくさんの紙面を割いて紹介してくれました。嬉しい限りです。マスコミの影響がこれほど大きいのものかと、改めて知らされました。まさしく「紺屋の白袴」だったのです。
作品の評価は、筆者の予想を遥かに超えて高く、それが何よりの励みとなりました。「一度出したら、次のテーマへ」は、感想文の中にもたくさんありました。がんばります。
以下、可能な限り掲載いたします。
 西日本新聞(春秋)  朝日新聞  毎日新聞  日本農業新聞
 西日本新聞U  元気です!城南    

西日本新聞
2002年10月31日

朝刊一面コラム(春秋)で

  

大分県九重町の飯田高原の一角に、筑後弁を話す集落があるという。高原に源流をもつ筑後川の下流域から100年以上も前に移り住み、開拓した人たちの子孫だ。
▼1889年(明治22年)、豪雨で筑後川が氾濫し、田畑は一面の泥海と化した。前年までは干ばつが続いていた。ただでさえ生活が苦しかった農民たちはいよいよ途方にくれ、川を遡って新天地を求めた。
▼やまなみハイウェーが走る長者原の近くに、今も千町無田という地名が残っている。名前の通りに、広大な不毛の湿原だった。そこが農民たちが目指した場所でもあった。水稲を実らせるまでに11年の歳月を要している。
▼「大河を遡る・九重高原開拓史」(西日本新聞社刊)に詳しい。書いたのは、RKB毎日放送を2年前に定年退職した久留米市出身の古賀 勝さん(62)。在職中にそのことを知り、苦闘の史実を丹念に掘り起こした。
▼農民の苦闘を見かねて、開拓の先頭に立った青木牛之助という旧久留米藩士にスポットを当てている。入植が実現するまでの4年間に、現地踏査や役所通いなどで1万キロ超を歩いた。入植した後も、どん底の生活にあえぐ農民たちを励まし続けた。
▼当時、冬の夜は、ありったけの衣服を着て互いに体を寄せ合って眠ったという。いまでは、青木牛之助の指導で植えた杉が、天を突かんばかりに成長し、田畑と家屋を寒風などから守ってくれているそうだ。

朝日新聞
2001年1月14日(朝刊)

  明治時代、筑後川のはんらんで農地を失った筑後地区の農民を率いて大分県・飯田高原を開拓した元久留米藩士、青木牛之助(1846-1923)の生涯を描いた「大河を遡る」を、元RKB毎日放送社員の古賀 勝さん(62)=福岡市城南区=がこのほど出版した。青木の功績を紹介した著書はこれまでにほとんどなく、古賀さんは「郷土の先輩の偉業を見直すきっかけにしてもらいたい」と話している。(中略)
(著者の)古賀さんは、ラジオ番組の取材で筑後川の水利史を調べたのがきっかけで青木たちの開拓を知り、厳しい試練に耐え、荒野を拓いた農民の歴史を伝えようと、本書を書きあげたという。開拓者の子孫らへの取材や資料をもとに、物語風に描いている。

毎日新聞
2001年1月8日(筑後版)

 明治時代、筑後地区の農民を率いて飯田高原(大分県九重町)の田園開拓に挑んだ元久留米藩士・青木牛之助に焦点をあてた「大河を遡る 九重高原開拓史」がこのほど、出版された。
著者は元RKB毎日放送久留米支社長の古賀勝さん(62)=福岡市城南区田島。忘れ去られていたという先人の偉業を発掘している。(中略)
古賀さんは1998年4月から2年間放送されたラジオドラマ「筑紫次郎むかし物語」の製作に携わり、青木の存在も知った。「飯田高原の美しい田園が100年前、筑後の人たちによって開墾されたとは考えもしなかった。子孫の人たちに会って話を聞いたが筑後弁だったのに驚かされた」という。
また、青木について「維新後から開墾まで目立った記録もなく、時代を傍観しながら正義感がうずいていたのだろう」と、農民救済に向かった心情を推察している。

日本農業新聞
2001年1月31日(全国版)

  明治時代に、福岡県を流れる筑後川のはんらんで農地を失い、絶望のふちにたった久留米の農民を率いて、大分県飯田高原の千町無田を開拓した、元久留米藩士、青木牛之助の生涯を描いた「大河を遡る」(古賀勝著)が好評だ。(本紙読書欄既報)
福岡県久留米市や大分県九重町に住む子孫や農業関係者は、自分たちの歴史が舞台となったものだけに、本の購入などを呼び掛けるほど。2月3日(土)には久留米市で九重町の子孫も駆けつけ、出版記念会が開かれる。(以下省略)

日本農業新聞
2001年1月22日 読書欄

 大分県湯布院町から、やまなみハイウェーを登っていくと、九重町の九重高原(飯田高原)が現れる。今では観光農園や牧場が広がるのどかな田園景観。しかし、この陰に「馬や牛でも少しはうまいものを食っている」という、農民の苦しい開拓の歴史があったことを本書は教えてくれる。
(中略)
「開拓」という言葉が死語になりつつある中、農地を求めて古里を後に山に向かった農民の心情。「開拓史」は、明治人から悩める現代人への励ましのメッセージでもある」という筆者のあとがきが心にしみる。

西日本新聞

発刊を伝える


2000年8月11日 現地取材風景(左)・新聞社社告


2000年11月12日 発刊を伝える記事


2001年7月27日 牛之助縁者の現地訪問

県境を越えて 
 2001年1月18日

2001年2月4日 出版記念会と当日市長町長の交流

 


筑後川フェスタでも

2003年7月11日

夫の遺志を語り継ぎたい

城南地区情報紙


 著者の古賀さんは、九重町教育委員会・久留米市史編纂会などの協力や現地と図書館通いで、11月に西日本新聞社から「大河を遡る」を上梓しました。
著書には筑後弁をふんだんに使い、青木牛之助らの奮闘が、九重町に伝わる伝説を織り交ぜて描かれています。筑後川流域と九重町の深い因縁と九重高原開拓史をまとめた初の本です

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