大河を遡る/九重高原開拓史

読者感想文集(其のU)

 単行本を出版するということは、世の中に大変大きな影響を及ぼすことがよくわかりました。特に歴史的な文章の場合、登場する人物や社会的環境に携わった方々が多いことから、作者として無責任は許されません。
私の拙い文を読んだ方が、自らの人生を振り返ったり、確定しつつある歴史認識に意見を述べたりしていくのですから。
発刊後にいただいたお便りを、なるべく多く、しかもできるだけ原文のままでご紹介することで、読者に対する僅かながらの恩返しになればと編集しました。ご意見を頂ければ幸いです。タイトルは、こちらでつけました。
(2010年7月)

 

被災農民救済の主人公に共鳴

SCさん(女性・久留米エールピア大学での受講後)

基礎科目で一番印象に残ったのは、古賀勝先生の「大河が教えるもの」と題したお話でした。
飽食の時代では想像もできない話です。徳川幕府が崩壊し、大政奉還され、廃藩置県された後の筑後民による九重千町無田開拓団の話です。
明治22年、筑後地方は未曾有の豪雨に見舞われ、家屋流失、破壊家屋、浸水家屋、堤防欠損、道路決壊、橋梁流失、田畑冠水と、そのための死者・負傷者多数に及び、失業武士や貧農民の苦しみは食べるものさえ満足になく、想像を絶する被害だったそうです。士族の青木牛之助は、被災農民の生活苦を見過ごせなく、頼まれたら断れない正確の持ち主だったので、その解決策として考えたのが大分県九重町の飯田高原にある千町無田の開拓で何とか食べていけるよう考えたそうです。
湿地帯を開墾することの大変さ。米はできず、トウモロコシやいも、野菜だけの生活の中で、犬小屋のような家に住みながらみんなで力を合わせてやっと米の収穫ができるようになり、明治40年に出資額と開拓の実績に応じて土地の分配がなされ、自分の土地を持つことができたそうです。

親代々苦しんできた「水飲み百姓」から解放され、晴れて「本百姓」を名乗れたときの開拓民の喜びはいかばかりだったかと思います。
開拓民は牛之助の恩に報いるために、朝日神社の境内に「青木牛之助氏開墾記念」碑を建立したそうです。
この難民救済事業も一つの節目を迎え、青木牛之助は久留米に帰り妻ツルとともに昔からの趣味である和歌を詠み、屏風を貼って墨絵を描き、それを酒代に当て、自分の人生を取り戻して大正12年愛妻ツルに見送られて天国へ旅たったそうです。享年77歳だったそうで、牛之助により千町無田開拓ができた大分県にあって、この地だけは言葉が久留米弁だそうです。
明治時代の逞しい生きざま。現代の人に伝えるため、古賀勝先生は「大河を遡る」と題して本を書かれたこと、本当に素晴らしいと心から感謝の気持ちで、話も聞き本も読ませてもらいました。読み終えた後の感動はいまだに残っております。


過酷な開拓事業に同情

YSさん(女性・久留米エールピア大学での受講後)

約2年前この本を興味深く読んだ。まず、千町無田が私が時々行く登山口へのコース上にあること、次にその開拓民が筑後地方の農民であったことである。更に青木牛之助の超人的な体力・行動力に敬服するばかりであった。そしてこの625日の基礎講座で、古賀勝先生のお話を聞くことができた。
それは明治22年の筑後川洪水から始まる。降り続いた大雨は遂に75日の歴史上最大級の洪水となり筑後地方をひと呑みにした。田畑は泥沼と化し家は流され潰されて生活は困窮の極みであった。
久留米の梅林寺の警護にあたっていた元藩士青木牛之助はこの開拓に不安を抱く者を説得し、またとても出来ないだろうとの世評を振り切って、開拓を決心した。
彼に従った49家族は相前後して入村し本格的に開拓が始まった。併し、ここに至るまでには幾多の障害・困難・悲劇があった。
青木はこの開拓の認可を取り付けるために大分県庁・村役場・時には東京までも行き、文字どおり東奔西走した。その距離は2800里にもおよぶもので、しかも殆どが徒歩であった。
また、ある娘は恋人に「お前だけは残っとけ」と言われ、「そげなこつはでけん」と言って泣く泣く別れた恋人どうし、さらには子供たちが地元のものに「無田のもんは臭いけんあっち行け」と言われて悔し涙を流したり、時には仕事のことで仲間同士がいがみ合ったりと苦難の生活が続いた。特に、厳冬の高地での生活は想像も及ばないものだったろう。このようにして千町無田で獲れる穀物に余裕が生まれるようになるまでには13年の歳月を要した。
開拓村には彼の業績を称え恩に報いるために朝日神社に「青木牛之助氏開墾記念」の碑を建立した。因みに青木は久留米市鳥飼に住む藩士で、率いられていった農民は筑後川水系で今の朝倉郡・浮羽郡・小郡市・三井郡・久留米市・三潴郡・大川市、矢部川水系では八女市・八女郡の出身者であった。
相前後するが、青木が大洪水による農民の窮状を救わんとしてハワイに600人もの移住を成功させるために、江戸開城の基をつくった山岡鉄舟を動かしたことは、特筆すべきであろう。
次に千町無田の地名の由来についてみると、その昔、浅井長治という長者は数千町歩の美田を使用人に耕させ、贅沢三昧に耽っていた。当時餅は福と言われていたが、ある祝いの席で長者が鏡餅を的にして矢を放ったところ、餅は白い鳥に変身してどこかへ飛び去った。つまり福が消えた。その後長者一族は滅亡し高原は荒れ放題となった。また美田には穀物が育たなくなった。土地の人は、荒れた高原を長者原と言い、以前の美田を千町無田と呼ぶようになった。
いま、このあたりを通ると、田畑や屋敷の周りに青木が境界の印として植えさせた名残と思われる杉の並木が所々に見られ、当時を偲ぶことが出来る。また、白鳥が飛び立った場所には白鳥神社が祀られている。
最後に、この本に出てくる会話は当然のことながら筑後弁が殆どで、まったく違和感がなかった。それほど遠くないし、皆さんも一度訪ねてみては如何ですか。


美しい筑後川をいつまでも

TYさん(男性・久留米エールピア大学での受講後)

春の筑後川は菜の花の中に川が流れているみたいで大変心を和ませてくれる。我々の生活と切っても切れぬ筑後川も、その歴史においてはまた、治水との戦いでもあり、恵みの大河でもあった。歩きながら時の流れを何となく考えていた日々もあったが、過日、古賀勝氏の「大河(筑後川)が教えるもの」の講演を聞き、筑後川源流の九重飯田高原千町無田開拓移住者の開拓史を学び、先人の並々ならぬ労苦に率直敬意を表すものであり、是非行ってみたいと考えた。
九重は遠くにありながら故郷にも似た心の和むところだ。私は昭和21年より何十回か九重連山に登り、キャンプもした心の古里でもある。早速千町無田への検証をすべく当地に出向いてみた。昭和45年夏に当地を通った時は、土地改良事業の最中で、工事の関係者は地盤が湿地のため大変苦労していたと記憶している。今考えてみると、この地の開拓移住者は現在のような機械力もないなか、どのような作業をしただろうかと思い、遠い昔の苦難を改めて感じた。この地には確かに神社境内に青木牛之助開墾記念碑があり、また改良農地の路傍には土地改良竣工記念碑もあった。
そこも筑後より来る青木牛之助以下の開拓苦難の歴史が刻み込まれている。近くで高原野菜を売っていたお婆ちゃんの野菜を買いながら、お婆ちゃんの故郷はどこかなあと聞いたら、「私は行ったことはないが、先祖は筑後の方だ」と言っていた。私がここの農家の人はみなそうかなと聞いたら、「ここ5、6軒はそうだけど」と言っていた。私が、道も田圃もでき、その上観光で働く場所ができてよかったねと言うと、彼女は嘆いて曰く。「それでも跡取りがねえ」と寂しそうに呟いた。
筑後の先人の尊い偉業を思いつつも、近年の筑後川の水質汚染と水資源を考えながら、この地も別荘地の開発がやたらと多くなり、昔の高原のよさがなくなりつつあることにこれ以上の自然破壊をしてはならないと怒りの気持ちともども観光開発はここまでとして水資源確保のためにも、水源涵養林の育成こそ喫緊の課題だと考えながら夕暮れ迫る千町無田の農道を歩いた。
少し茜色になりかけた三俣山、平治岳を仰ぎ、また来るねと呟き千町無田を後にした。


息子嫁に読ませたい

NMさん(女性・中学校同窓生・北九州市在住) 2001113

「大河を遡る」読ませていただきました。とってもわかり易く読み易く楽しく読ませていただきました。昨年3月初めて久大線に乗ったように全く方角音痴の私は、いろいろ想像しながら毎日数行ずつしか読めませんでした(申訳ありませんが、布団に入ってからが私の時間故)が、懐かしい苗字(十三区にはたしか田川姓が多かったなとか)、方言、そして昔の人々のご苦労、そのお陰でいかに現在のわれわれが楽をさせていただいていることか、熊本出身の両親からむかしの荒木・久留米のことなど聞かされるわけもなし、本当に興味深く読みました。
息子嫁の両親が浮羽町にすんでいます。そしてお母さんは荒木の人で小・中学校の後輩でしたのでそちらに本を送らせていただきました。
感想にはならないことをだらだらと書きましたがお許しくださいませね。今後も執筆活動活躍の程をお祈りしています。


山岳部時代のふるさと

YTさん(男性・医師・大木町在住)  2007.01.11

御著書「大河を遡る」を拝読後、何かにつけて思い出して居りましたが、最近又思い出して二度目を読み終わり、感動のあまり矢も楯もたまらず失礼とは思いながら迷った挙句意を決して電話させていただきました。
古賀勝様と青木牛之助氏のイメージがダブって夢現のままに感激しております。
今後一切贅沢は言うまいと今更ながら深く反省させられております。学生時代山岳部で久住に親しんでいましたので、思い入れひとしおであります。40歳・50歳台は田野の牧場(ヱルンフンチョグランデ)の馬を駆って、千町無田、音無川、そして吉部・坊がツル等を散策していましたので、いやがうえにも懐かしく思い出されます。千町無田の水源も覗かせていただいたことがございますが、先人が苦労して築かれた生命線であったろうと御著書を読み終わったあとで水源を覗いたことさえ罪深く思います。
家の里が三井郡北野町(現在は久留米市になっておりますが)ですので、筑後川流域の諸々の話が興味深いものです。
パソコンは苦手ではありませんが、家内に「筑紫次郎」「矢部川」などの検索を頼もうと、楽しみにしております。いつかどこかでお会いしてお話しを伺える日が来るのを楽しみに致します。敬具


知らなかった、高原の歴史

YCさん(女性・前原市在住) 2001.05.11拝啓

九重の五月は樹々の緑がいちだんと映える頃ですね。
「大河を遡る」を読ませていただき感動しました。
ここ十年くらい二人の姉と毎年23回は九重に行き、山を眺めてうぐいすの声を聞き、美田を見て心和ませておりましたが、こんな感動のドラマが根底にあろうとは思ってもみませんでした。よい本を出版してくださってありがとうございました。初めての便り失礼しました。


りっぱな先祖に誇り

KMさん(女性・青木牛之助の縁者) 2001.02.07

梅林寺の梅の花もほころびはじめる頃となりました。お元気でお忙しい日々をお送りのことと存じます。この度のご出版おめでとうございました。
記念会では大変お世話様になり、帰りにはサインまでおねだりいたしましてずいぶんとお疲れになられたのではないでしょうか。申訳ございませんでした。
私どもは先祖の一人の名とその偉業を世に知らしめてくださった古賀様に末席で感謝とお祝い、そしてご苦労のねぎらいを申し上げたく出席させていただくつもりでございました。
あのような過分なご紹介をいただきましてただただ恐縮致すばかりでございます。気品溢れる奥様の内助の功も執筆へのエネルギーの一つになられたのではないでしょうか。家宝の一つとして大切にしてまいりたいと思います。
拝読を終わりましたとき、叔父(高橋甲四郎)の父親(牛之助末弟の子・昇)と牛之助氏の時代が逆であったならば、千町無田の良い稲作がもっと早くスムーズに出来上がったのではないかと残念でなりませんでした。立派な先祖を持ったことを誇りとして、日々の精進を怠らないようにしていきたいと決心を新たに致しました。


KKさん(男性・中学校同窓生・自営業) 2000.11.10

勝さん、「大河を遡る」読みました。
よく昔のことを書きましたね。私も農家に育ち農家の苦労がよくわかります。昔の農家の開拓精神がよく書かれています。


感動をありがとう

HKさん(男性・高校同窓生)

(還暦同窓会で配布されて)
拝啓、若葉も過ぎ衣替えの気候となりましたがいかがお過ごしでしょうか。
さて、5月12、13日は久商61回生の還暦祝いをかねて1泊で原鶴、秋月、高良神社でのお払い行事。
その際会費のうちだからと1冊の本を手渡され、帰ってから、たいした事はないだろうと2、3ページ黙読している間にドンドンと魂が揺り動かされ、涙はポロポロ、あっという間に読み終えました。

人の感動を誘うとはこういうことであったのかと改めて確認したところです。ありがとうございました。先輩のますますのご健勝を祈ります。


人生を創る本

EKさん(女性・久留米市在住) 2001.07.06

感動のTELさせていただいたのが昨年の秋・・・。
冬と春が来て群青色の空の下、流域語り部大会をさせていただくことになりました。
たくさんの仲間が、「よかよ」と来てくれます。心に残る1日となると思います。これも、「大河を遡る」の本との出会いのお陰です。ありがとうございます。
シンポジュームの方にもご出席していただけるとお聞きしまして、本当に楽しみにしています。
人生を変える本がある・・・と聞いたことがありますが、「人生を創る」本もあるんだなあー、など思っております。


第二の牛之助を期待

MSさん(男性) 2001102

先生の著書「大河を遡る」拝読し、歴史・社会背景・いまの暮らしなど比べ物にならないことをつくづく感じました。
明治初期、時代が大きく変わるとき、心の動揺? まだ家長制度の強い・女性の地位は低く、農家の一次産品に頼る、治山治水の整備されていない次・三男坊は股旅の歌詞を思い出す暮らし。今から見ればいろいろの問題を抱えていた時代。
青木氏の気骨、気質、ただただ頭が下がる。
よくも人のため働かれたものだ。いわば私財を投げ打ち、家庭を犠牲にして、今では人の犠牲の上には乗るが人の犠牲には家族が反対する。奥様のことはあまり書かれていないが、献身的協力なしではことが進まなかったでしょう。
地図を見ながら拝読しましたが、ほんとに山道ばかりの往復、役人との折衝、ただの人ではできない偉業です。開拓者も良く辛抱されたと思います。
いまテレビは起きてから寝るまで世界中テロ問題である。タリバンは経済社会を非難している。人の道が崩れていると言っているようである。第二の青木牛之助氏の輩出されるのを期待します。良書に会い心を洗われました。


青少年に読んでほしい

MKさん(男性・95歳・元RKB毎日放送会長・東京在住) 2000.10.29

“大河を遡る”を拝読いたしました。先ず貴君がラジオの“筑後川”を発想され多大の成果をあげたことは承知しておりましたが、その河の源泉地帯の開拓にまで研究をすすめていたことは存じませんでした。これも凡て故郷を愛すればこその執念だと再度敬服する次第です。
文章もわかり易く、何度も現地を往復したであろうと感じられました。それに固有名詞が詳細に出ているので、その人たちの子孫たちにとって祖先の歴史を知り、さぞかしその家々にはこれから永く語り継がれることでしょう。また、大昔の日本人は、久留米に限らず日本中の人たちがあれと同じような苦しい生活をしたわけで、現在の青少年にも是非読んで欲しいと思います。
文章も良し申し分ありませんが、ただ一つ、あれだけの千町無田の沼地というか湿地帯を現代のように機械もないのに排水したか、その点が少し気にかかりました。もっともその工法を述べるのが目的ではないので、その必要がないといえばそれもそうですが・・・。
重ねて貴君の愛郷精神には敬服しました。従って、今後も故郷のために何かできることにご努力されたらと念じております。
秋も深まり、寒さも厳しくなります。どうぞご一家ご自愛ください。また十二月一日夕には朋友会(OB会)のパーティーもあるのでその節にまたお目にかかるのを楽しみにしています。


ご先祖様が命を懸けて・・・
MMさん(女性・諫早市在住) 200199

私の勤めは、有明海が一望できる瑞穂町という町の岡の上です。出身は大分県玖珠町、豊後中村駅前通の下手、尊光寺下です。祖父母は「徳永」といい、製材所を経営していました。
去年、ある新聞の片隅に「筑後川を遥かさかのぼった所に筑後弁を話す集落がある」と書かれてあって、何故か永らく私が不思議に思っていたことと一致し、その本が欲しくなりました。しばらく経って偶然「大河を遡る」を見つけ、2冊買い祖母に1冊送り、私も飛びつくように読みました。
祖母は今年83歳になりますが、生まれは筑後大川、嫁いで60年以上経つというのに、いまだに筑後弁を貫き通す頑固者です。祖母は九重に住みながら心はいつも筑後にあるようです。けれど、「大河を遡る」を読ませていただき、祖母の抱える源を少し理解できたような気がします。
時折話してくれる昔話、飯田は寒くて子供を背負っての仕事はきつかった…など、本を読みながら重なって胸が熱くなりました。祖母も一気に読んだよと喜んでいました。そして第2次入植者の「徳永甚太郎」という人が、別名徳永政美といって曽祖父にあたること、徳永の家系を丁寧に思い出すように話してくれました。母も聞いたこともないような話でしょう。
大分に帰ると私は決まって「久住山」を見に飯田に行きます。十三曲を通り長者原から眺める久住の山は壮大で、仕事で疲れた心を癒してくれます。元気の源の地が飯田であったことは不思議な偶然のようです。千町無田にも行ってきました。所々高い高い杉の木が古い屋敷を守るかのように聳え立っていました。
私のご先祖様が命をかけて開拓したところ、感慨深いものがありました。「青木牛之助氏」の記念碑が祀られている神社へも参り手を合わせて感謝申し上げました。
100年前、そんなに大昔でもないのに、私たちの暮らしはこんなに便利に贅沢に変りました。先人の方々のご苦労をこんなに身近に感じ、考えることも初めてです。祖母(祖父は20年前に他界)をいっそう大事にしようと思います。
私の兄は障害があり、祖母はいつも兄を気使ってくれます。私はコロニー雲仙という施設で働き今年で19年になります。久住の施設にいた兄も今年から長崎(諫早)に呼び生活しています。
ふるさとを離れ、ずいぶん遠くへ来たものだと思っていました。けれど、「大河を遡る」を読み、有明の海に注ぐ筑後川のその源は「鳴子川」「玖珠川」と思い、何故か有明海に親しみさえ覚えます。
人間は何か目に見えない縁でつながり、自然によって生かされているんだな…と思います。
こんな大切なことに気付かせてくれた「大河を遡る」と古賀様に心より感謝いたします。ありがとうございました。
初めてのメールで立ち入ったことを書いてしまい、失礼をお許しください。今後もますますのご健勝をお祈りいたしております。


むかし大分に行った思い出が

MAさん(女性・元民放社員・ 鳥取県在住) 20016月1日

少し読み始めていたのですが、改めて手にしたらどんどん進んでいきました。(内容は、決して面白い話ではありませんのに)読みやすく書いてあったのと、「青木牛之助」氏をはじめ、開拓団の人々の勇気・努力・辛さ・苦しさなどに惹かれたのでしょうか。我が家も本来農業です。他人事ではない昔日があったはずです。ずいぶん前のこと、元KBCのお友達にに“九重の山開き”に連れて行っていただいたことがあり、山並みを思い出しながら読みました。日田に行きました。山の中の緩やかで広く穏やかな川の印象だったのですが・・・。


登場する石崎熊蔵の孫です

IDさん(男性・千町無田開拓団子孫・千町無田在住) 2001127

私こと、昨秋に発刊されました「大河を遡る」の文中、千町無田開拓の先駆者・青木牛之助さんとともに開拓に従った石崎熊蔵の孫です。(父は祖父の次男の力蔵です)
幼い頃の思い出に、牛之助さんの記念碑がある広場近くの道路沿いで、醤油や駄菓子類を店先に並べて小さな商売をしていた祖父の姿をおぼろげながらも記憶しています。私も大正時代の末期に千町無田に生まれ、朝日小学校に学びながら育ちました。
九州の屋根と呼ばれる飯田高原は、雄大な大自然の景に恵まれながらも、冬の日の厳しい寒さ、交通の便も悪く、当時の人々は情け深い人柄の方が住民の気質とは申せ、生活環境では恵まれていたとは言えなかったかも。
この度、貴方様のお骨折りにより、今までに読んだことのない千町無田の開拓の歴史が1冊の本により詳細に紹介され、読ませてもらった者は私以上の感動を覚え感謝の心でいっぱいと思います。
私の先祖や多くの先輩の方々が、青木さんという偉大な先覚者の呼びかけに応じて、不毛の地といわれた千町無田に新しい生活の地を求めての移住、当時の人々に生活の希望を与え、集団生活を束ね、対外関係への度重なる陳情、折衝。青木さんは千町無田の村人から尊敬されていましたが、ただただ感激し、素晴らしい人間性の一面を理解することができました。今は畏敬の念でいっぱいです。
昔、父から聞いた話ですが、苗代田を由布院盆地に借りたり、硫黄山の硫黄を牛の背に積んでの駄賃とりのことも記憶にありましたが、雪深峠越えは知りませんでした。
稲の品種の関山は私の小学生の頃陸羽132号へと代わりました。
湿田の多かった田が、大水が出ると氾濫してた様子、村人が大川の河川対策にご苦労された様子、父や村人の代表の方々が県庁の耕地課へ陳情に行っていたのが記憶に残っております。
毎年収穫の秋の一日、青木さんの碑の前でだんご祭りをしてその年の労をねぎらい、豊作を喜びあっていた姿も思い出としてあります。
私たちは終戦まで吉部・北方の地に住む人とともにランプの生活、「戦後、電柱立てに労働奉仕したことも懐かしい思い出」でした。
戦後職を求めて当地に住むこと五十年。歳を重ねるごとに故郷は遠くなりつつあるのは否定できませんが、今度祖父母、父母、兄弟の眠る墳墓の地の開発の歴史を再認識をすることができました。
元をただせば筑後川の洪水。青木さんという素晴らしい方、幾度となく本を読み返してみたいと思っています。
貴方様の益々のご健勝とご活躍を願い、今は九重町の穀倉地といわれる千町無田の発展を祈りながら駄文を止めます。


筑後川をもっと知りたい

OHさん(男性・元高校教諭・佐賀県みやき町在住) 2000.0221

先日は突然お電話して失礼致しました。『大河を遡る』という御本があまりにも素晴らしかったのでお礼を申し上げたかったのと、「筑紫次郎物語」のことをお尋ねしたかったのでした。
私は高校の教員として三十五年間勤め、昨年三月鳥栖高校を最後に定年で退職しました。一応国語を教えてきたのですが、スポーツが好きで三十五年間のうち二十七年間は陸上部の、八年間は山岳部の顧問でした。
明治二十二年の大洪水のことは『北茂安の史話伝説』の年表にも記されており、凄かったろうことはわかっていたのですが、『大河を遡る』を読ませていただき、うーんと唸ってしまいました。青木牛之助という人のことをまったく知らなかったからでもあります。いずれにしろ、筑後川流域の人々は、川の恩恵は受けながら、一方でその氾濫に泣かされてきたのですね。筑後川のことをもっと知らなければと思います。また、九重の山々には何度も登っているのですが、「千町無田」のことは頭にありませんでした。車ででも訪ね、眺めて、開拓者のことを偲びたいと思います。


教科書の題材にならないか

NHさん(男性・うきは市出身・写真業・神奈川県在住)

田舎にいた頃の私は、中学校を出てただ働くだけの毎日だったので、「あそこ知ってる?」と近所の人に九州のことを聞かれても困ってしまいました。
修学旅行のほかに兄といっしょに九重と硫黄山に登ったぐらいで、阿蘇にもまだ行ったことがありません。
貴書「大河を遡る」は、現代の若者にぜひ読ませたい逸品で、学校の教科書などに入れたら、身近な題材ということでわかり易くいいと思います。我々が習った歴史など何一つ覚えていないもので、子供たちにもよい刺激になっるのではないでしょうか。戦争を知らない若者に、自然「土」に生きる大切さと食物の大事さがわかるだけでも現代の日本の姿に一本のカンフル剤として光明を与えてくれそうな気がします。
店のお客様にも九州出身の方がいますのでこれから勧めていこうと思います。
民話の連載も楽しく拝見しています。遅くなりましたがありがとうございました。またメイルを送らせていただきます。


TJさん(女性・中学校同窓生・茨城県在住) 2001.01.31

この度の本の出版おめでとうございます。貴方の努力と文才に感服いたしました。帰省の折りにぜひ一度千町無田に行ってみたいと思います。
今は亡き両親も、戦後大家族の中で必死で生活をしていたことの思いとダブり、昔を偲んでおります。本当に心にしみました。多くの人に読んで欲しいと思います。
貴方のますますのご活躍を期待しています。お元気で。かしこ


地元も知らない開拓史

SYさん(男性・会社経営・玖珠町出身・北九州市在住) 2000.12.25

私は、大分県玖珠町の出身で、現在北九州市で設計コンサルタント会社を経営しています。47歳の男性です。
先日大分市に出張の際、書店で偶然『大河を遡る』と出会い、早速読ませていただきました。何分身近な所の話でもありまして、場面場面が目に映るようでもあり、一気に読ませていただきました。
今から考えると、想像を絶するような苦労をしてあの土地を耕したんだなと、改めて思いました。
実は私が高校時代に、アルバイトで地元の建設会社に手伝いに行った時、偶然にも千町無田の排水側溝の改修工事をした記憶がありまして、ひときわ感慨深いものがありました。そして読み終えた今、この感激を地元をはじめたくさんの人に伝えたい、青木牛之助をはじめ開拓に携わった人々の苦労を、風化させずに再評価できたらと思いました。
私もですが、地元の人たちも過去にそういった事実のあったことをほとんど知らないのではないかと思います。
そこで提案ですが、彼らの功績を称えて何かイベント、たとえば5月5日の童話祭の日に記念講演やウォークラリー等を企画したらいかがでしょう。突然のご提案ですがぜひご検討いただけないかと思いましてお便りいたしました。


NMさん(女性・九重町役場職員)

先日は出版記念会で大変お世話になりました。古賀様の日常がお伺いできる立派な祝賀会で、感嘆し、私どもの話題ともなりました。
また、あのように開拓史をまとめてくださったことにも、改めて感謝致します。土地の古老の方々も非常に喜んでいます。
これを機会に、地域の交流が始まるといいことだと思っています。


命がけの先人に頭下がる

吉竹宇策さん(男性・自営業・鳥栖市在住) 2001.02.09

西日本新聞佐賀県版(2月8日付読書欄「イチおし本」)に、(私の投稿文が)記載されたものです。ご参考までに。

大分県九重町の千町無田開拓の歴史を描いた力作である。好きな九重がタイトルにあり一読。緑が広がるこの地に過酷な物語があったことを初めて知り、先人の命がけの営為に頭が下がる思いだった。
農民の先頭に立ったのは元久留米藩士青木牛之助。こうした人物がいたことを若い人たちに知ってほしい。
筆者は元RKB毎日放送久留米市社長。


戦死した父の面影と筑後川

ICさん(女性・64歳=2001年当時・前原市在住)

大河を遡りきった古賀様にお便りをしたくなってペンをとりました。
読みましたよ、2時間かけてー。私は本を手に入れるとすぐには読まず、ー併しすぐ読めるように手の届くところに置いておくのです。この夜も午前3時に床に着き、一向に眠れないまま、せめて10頁でもと読み始めると、目はますます冴え、とうとう一気に読み終えました。現地に飛んで行きたくなる本にまた巡りあいました。
筑後川は、私にとって忘れられない川なのです。
昭和18年、父が招集され、現地(ビルマ)に行くまでの数ヶ月間を、久留米の営所(花畑)にいたのです。
母が私たち子供4人を毎週日曜日に、父に会いに連れて行ってくれて、まだ7歳だった私は、ただ筑後川(大人になって知った川)を渡るときの赤茶色の鉄橋とガタンゴトンの音しか覚えていなくて、父の戦死後、今度は久留米の玉垂宮(大善寺)に碑が建ち、母のお供で、慰霊祭に数年参りました。
夫の実家は吉井町の折敷でして、原鶴温泉が見える所です。汽車や車で何度も行ったことがあります。ーということで、、私にとって筑後川は幾度となく見た川なのです。その川に沿ってーと私なりに想像なんかしています。私は、本を見たり聞いたりすると無性にその地に行ってみたくなるのです。
ある本を見て、どうしても行ってみたくなり、娘と孫を介添して(私は少々目が悪くて)日田まで行き、万願寺温泉で泊まり、現地まで、そこのご主人に連れて行ってもらったこともあります。
まだ行きたくても探せないところが多々ありますが、本中千町無田にも行ってみたい所の一つになりました。今の私には、実行が可能とは断言できませんが、せめて道順知りたいななんて思ったりしています。
自分の思いのままに一方的に書きまして失礼しました。


IHさん(男性・高校同級生・久留米市在住)


国外移民足跡を彷彿

IKさん(男性・久留米郷土研究会所属)

先日の久留米郷土研究会でのご講演はご苦労さまでした。そして、短時間でしたが、お話しする機会をいただきまして、ありがとうございました。
千町無田開拓に見る筑後魂は真に興味深く、ことに定着への苦闘ぶりや教育熱心さなどさもあらんと、首肯させられました。というのも、私が南米勤務の合間に調べた日系移民の足跡が、それを彷彿とさせるものだったからです。
推移表の中に、“陸羽132号を開発”とありますが、これは農林省陸羽(りくう)支場で寺尾技師が創出した品種ですので、それを地域適応性を検証確認したということでしょうね。
事業の発展を祈ります。


地方にもいた骨ある人物

MTさん(男性・コピーライター・荒尾市在住) 2005年6月

(東京の居酒屋・有薫酒蔵で)古賀様を紹介され、「大河を遡る」をいただきました。読み始めますと、すっかり「青木牛之助」という人物の魅力に取りつかれました。
日本が急速に近代化する時代、歴史を見る目はとかく中央に偏りがちですが、地方にもしっかりと前を見つめた骨のある人物が存在したのですね。ついつい、今の日本には・・・と嘆きたくなりますが、いたらぬ愚痴を書くことはやめておきます。
綿密に調べられた資料に基づいてお書きになられた文章は、久しぶりに読み応えがあるものでした。コピーライターという職業柄、どうしても軽くなったり策を弄したりする文章を書いてきましたので、真正面から取り組んだ正統派の文章を楽しく読ませていただきました。。


SSさん(男性・青木牛之助縁者・教育者・八女市在住)

伯祖父の青木牛之助が縁で、色紙を贈ってくださいました。その後、千町無田現地へもご一緒しました。(筆者)



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