伝説紀行 満願寺おとら 南小国町


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第017話 2001年07月22日版

2007.10.07
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

おトラの神隠し
満願寺おとら

熊本県南小国町


阿蘇外輪山のススキ原

 小国の郷(南小国町)は、黒川温泉など出湯が有名なところ。その一つ、「満願寺温泉」の名は、その名のとおり古いお寺さんの「満願寺」からきている。

山奥に人間の形をした化け物が

 江戸時代も中頃のこと。満願寺近くで猟師をしている幾多郎が、庄屋の家に駆け込んできた。庄屋の源兵衛がわけを訊いた。
「人間の形をした化け物が、山の中をウロウロしとった」
 幾多郎が見た化け物とは…。


満願寺山門

 いつものように東北の方の湧蓋山の中腹で獲物を探していた。昼になって、景色のよい場所を選んで弁当を開いたときだった。気配を感じて振り向くと、全身赤茶けた深い毛の生き物が二本足で立っている。猿でもないし類人猿などいるわけもないし。よく見ると、胸に豊満な乳房を持つ人間の女だった。幾多郎は、食べかけの弁当を放り投げて逃げ帰ってきたというわけ。

して、その正体は

 庄屋の源太郎、何やら思い当たる節があるとみえ、幾多郎にその場所を詳しく訊いた。翌朝、猟銃も持たずに、背中には昨夜締めた鶏や野菜の煮付けなどを担いで山に入っていった。だが、人間の化け物はなかなか現われなかった。待つこと三日目の昼すぎ。
 幾多郎が話していた人間の化け物が姿を見せた。聞いたとおり、女の体は赤くて長い毛に覆われ、衣類をまったく身につけていない。でも確かに人間だ。歳の頃なら40歳過ぎだろうか。毛むじゃらの女は、距離を置いたまま、源次郎が背負っている鶏を無心する仕種を見せた。もともとそのつもりで持ってきたので、女に投げてやった。よほど空腹だったらしく、女は、口の周りを血と油で汚しながら、瞬く間に鶏1羽を平らげてしまった。
「あんた、ひょっとしたら、おトラさんじゃなかね?」
 食べ終わったころあいを見計らって、源次郎が声をかけた。しばらくして、女は蚊の鳴くような声で「はい」と答えた。

突然姿を消した女

 源次郎は、20年前に村から姿を消したおトラのことを覚えていた。彼女は村でも評判の器量よしだった。20歳になって、幼馴染の余一と結婚し、1年後には玉のような男の子を産み落とした。人も羨む夫婦仲で、おトラは姑からもたいそうかわいがられていた。


阿蘇外輪山

 ところが、おトラが子供を産んで半年もたったとき、亭主の余一が天国に召されてしまった。それからというもの、おトラは人が変わったように人付き合いが悪くなり、赤ん坊は姑に預けたままで野良に出たきり家にも戻らなくなった。その後、おトラは満願寺村から姿を消した。前後して、赤ん坊は川下の金持ちの家に貰われていった。
 姑の要請で、村総出のおトラ探しが2ヶ月も続いたが、とうとう行方はわからずじまいに。村ではこの事件を「山の神が隠した」として語り継いでいたが、それもいつのころからか途絶えた。庄屋の源次郎は、そのときの捜索隊の一員だった。

牛馬のように

 あれから20年の歳月が過ぎ去った。その間におトラの姑もこの世を去った。
「おじさんのこと、わたし覚えています。源次郎さんですよね?」
 源次郎は、おトラが普通の人間と同じ言葉を使ったことに安心した。久しぶりに食べるご馳走がよほど気に入ったらしく、おトラは源次郎の話を聞きながら、口を動かし続けた。
「おじさん、わたし、あれから何度も里に下りて家の中を覗きました。お義母さんが亡くなったことも知っています。誰もいないときに、余一さんやお義母さんのお墓にもお参りしました」
「そうじゃったか。そこで訊きたいんじゃが…。亭主が亡くなって、あんたは気が狂うたようじゃったが、あれは本気じゃったか?」


筑後川源流付近の民家(南小国町)


「いいえ、余一さんが死んだらお義母さんの態度が急に変わってしまって…」
「本当にそうなのか? あんたの姑さんは、涙を流しながらおトラを探してくれと頼んだよ」
「それは外面だけのことです。お義母さんは私を牛か馬のように働かせ、子供におっぱいを上げることさえ許しませんでした」

赤ん坊まで取り上げられて

「それで、頭がおかしくなれば家におれると思ったのじゃな。それにしても、夜は豚小屋で寝るし、みんなが嫌うものを好んで食べたりしとったな」
「はい、お義母さんに隠れて坊やにおっぱいを上げるには、何でも食べなければいけなかったのです。豚小屋は、ひどいお義母さんから離れておれる、安住の場所になってしまいました」
「おトラさん、もう一つだけ聞かせてくれ。そんなにかわいい赤ん坊を放り出して、なぜ家出ばしたとか?」
「それは違います、おじさん。お腹を痛めて産んだ子供を捨てる親などこの世にいましょうか。私が目を離している隙に、お義母さんが赤ん坊をどこかに隠したのです。私は赤ちゃんを返してと、お義母さんに泣いてお願いしました。でも、『おまえは黙って働けばいい。赤ん坊は邪魔じゃけん、川下の子供を欲しがっとる人にくれてやった』と、つれない返事でした」
「それで家ば出たんか。あのクソ婆め、村中に嫁が神隠しにあったと騒ぎ立てておいて。俺たちは、夜も寝んであんたを探し回ったちゅうに」
「それも、人の世を捨てた私にとってはどうでもいいことです。ただ一つだけ気がかりは…」
「わかっとる。赤ん坊のことじゃろう? 人の噂だと、子供は日田の大きな材木問屋の主人から我が子として育てられた。今ではりっぱに成長して、使用人からも慕われるたくましい若大将になっとるそうじゃよ」

阿蘇の山中に

 おトラは、一番気がかりなことを聞き出すと、源次郎に深々と頭を下げた。
「俺と一緒に満願寺村に帰ろうか、おトラさん」
「いえ、私は今までどおり阿蘇の神さまにお仕えします。もし、息子のことで何かありましたら、湧蓋山の頂で狼煙(のろし)をあげてください。いつでも飛んでまいります」
 源次郎がもう一つ、二つ尋ねようとしたが、おトラは飛ぶように阿蘇の中岳に向かって去っていった。跡には、冬枯れの茅の穂がざわざわと揺れていた。
写真:阿蘇神社本殿

 小国地方の人は、自分のふるさとを「小国郷」と呼ぶ。「郷」は、大昔の律令時代の地方行政区域の末端単位であり、その後いくつかの村を合わせて区域を言うようになった。
 小国郷の南方に位置する満願寺は、かつてNHKで放送された大河ドラマの「北条時宗」縁の寺だと由緒には記してある。寺の庭園は、相当古くに設けられたらしく、苔むした様子が旅人を慰めてくれる。寺を中心にして、温泉宿が連なっている。筑後川源流(満願寺川)を仕切ってつくられた露天風呂は、入浴料が200円と格安だった。
 ところで「神隠し」だが、昔から子供のしつけ方法としてよく用いられてきた。だが、おトラさんのように、再び人前に現われて、また大自然の中に消えていく話はあまり聞いたことがない。「早よう帰ってこないと、山の神に浚われるが」と、お母さんが子供に言い含めていた時代が懐かしい。

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