伝説 おさよの人柱 大刀洗町


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第011話 2001年06月10日版
再編:2008.05.25 2017.07.09 2018.07.22
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

おさよの人柱

福岡県大刀洗町


床島堰の跡(奥は筑後川本流)

 菜の花の季節が終ると、筑後川周辺の農民は田植えに向けて忙しくなる。今年の梅雨には、ちゃんと雨が降ってくれるだろうか、降り過ぎて苗ごと流されたらどうしよう、と気を揉む時節でもある。
 今回案内するのは、お百姓さんがお天道(おてんとう)さん任せだった江戸時代の悲しいお話。場所は、筑後川を挟んで、
福岡県田主丸町の対岸に位置する大刀洗町。そこには、申し合わせたように北方の筑紫山地から流れ来るたくさんの中小河川が集中している。ひとたび大雨が降ると、大河を目指して流れ下ってきた水が押し合いへし合い。筑後川も上流に降った雨で満杯状態だから、枝川の事情などいちいち聞いてはおれない。そこで、ひとたび大雨が降ると、小さな川の周りの田んぼはいつも湖のようになってしまう。


床島堰のあったあたり
 むかしの人たちは、大自然の猛威に立ち向かって、川の流れを変えようとするのだが、なかなかうまくいかなかった。そこで最後に頼るのが神さまということになる。

神のお告げ

 江戸時代の前期、床島村(現福岡県大刀洗町)の近くを流れる桂川は、大雨が降るたびに水が溢れ、流域の田んぼが水浸しになった。
 ある日、吉兵衛が真っ青な顔をして帰ってきた。女房のハルがどうしたのかと訊くが、しゃべる気力も失せてしまったように土間にへたり込んだ。ハルは、ただならぬ雰囲気を感じ、亭主に迫った。
「川をせき止めて流れを変えなきゃ、今年も大水で米がとれん。そこで川に土嚢を積んで流れを変えようということになったんだが・・・」
「それで、どうしたの?」
「水の流れが速うて、すぐ壊される。村のもんも、どうしてよかかわからんで、頭を抱え込むばかりたい」
 そんな時、見知らぬ白髪の年寄りが通りかかった。


筑後川に合流する直前の桂川

「そんなことで、どうして川の流れを変えられようか」
 老人は独り言のように呟くと、川下の方に去って行った。
「今のお方はひょっとして、神さまのお使いじゃなかろうか。もちょっと真剣に工事ばしろと叱りに来なさったのかも」
 吉兵衛たちは、土嚢に小石を詰め込んだり、数を増やしたりしてこれまで以上に働いた。だが、次の雨が降ると苦労して積み上げた土嚢はひとたまりもなく流されてしまう。
「俺たちは、神や仏からも見放されたとたい」
 みんなが川面を恨めしそうに見つめていると、またいつかの白髪の老人が現われた。
「お前たちの苦労が稔らないのは、すべて神の思し召しである。神の助けを受けたければ、着物に横じまの肩当をしている娘を、生きながらに川に投げ込め。そうすれば、工事はうまくいく」
 そんなことを、ブツブツ呟くと、今度も風のように川上に向かって消えていった。

孝行娘が人柱

「これはよかことを聞いた」と、村人たちは喜んだ。
「吉兵衛さんとこのおさよちゃん、確か、そんな肩当ばしていたよな・・・」
 衆議一決、桂川工事の人柱は、10歳になったばかりのおさよということに決まった。吉兵衛が反対すれば、掟に従い家族もろともこの村を出て行かなければならない。
「私は嫌ですからね。いくら神さまへのお供えといっても、あげなよか娘ばどうして差し出さなきゃならんとですか」
 吉兵衛の話を聞いて、女房のおハルは亭主の胸を叩きまくった。
そんな夫婦の会話を襖の向こうで聞いていたおさよが割って入った。
ウチが行かなければ村中が困るとじゃろ。断れば、父ちゃんも母ちゃんも村にはおられんごとなるとじゃろ」
 おさよは、困り果てた両親のために犠牲になることを心に決めた。村人たちが何度目かの堰造りを終えた頃、またもや桂川が怒りだした。吉兵衛と女房、そして村中のものが嘆き悲しむ中、おさよは白無垢を羽織って工事現場に現れた。
「皆さま、お世話になりました。今後とも父ちゃんと母ちゃんのことをよろしくお願いします」
 お礼を言い終えた時、例の白髪の老人が駆けてきた。

神は優しい子を見捨てない

「間にあってよかった。おまえがおさよか。賢いのう」
 老人はおさよの頭をやさしく撫でた。人柱を入れた俵が若者5人によって持ち上げられ、濁流の中に放り込まれた。

 それから1週間が経過した。 不思議なことに、それ以後の土嚢は、どんなに大雨が降ってもびくともしなくなり、田んぼが水に浸かることもなくなった。
「これもみんなおさよのお陰たい」
 村人たちは、一応に胸をなでおろした。
「おーい、おさよちゃんの遺体が見つかったぞー」
 下流から大きな声が飛んできて、吉兵衛と女房が真っ先に走り出した。流木に引っかかっていた俵が大事に引き揚げられた。中からは、おさよの冷たくなった屍(しかばね)が。
「おさよ、起きなさいっ!」
 他人の前では気丈を装っていたおハルが、このときばかりはだれ憚ることなく娘を抱きしめた。そして、どす黒くなったおさよの唇を舐めた。
 気がつくと、列の後に例の白髪の老人が立っている。老人は母親を下がらせておさよを抱いた。

「おお、おさよ。おまえは村中を救った賢い子じゃ。こんなよい子を神さまが見捨てるものか」
 老人はおさよの屍を何度も何度も撫でながら呟いた。すると、少女の頬に赤味がさしてきた。それまでしっかり閉じられていた瞼が細く開いた。
「おさよが生きとる!」
 吉兵衛夫婦が同時に叫んだ。
「父ちゃん、母ちゃん。わたし、生きてるんだね」
 おさよは弱々しい声で叫ぶと、そのまま母親の胸にしがみついた。村人たちも、手を取り合って喜んだ。
「あら、あのお爺ちゃんは?」
 おさよの目が白髪の老人を探した。しかし、老人は今度もまた風のようにいなくなっていた。そして、二度と床島村に現れることはなかった。
(完)

 現在、筑後川北岸一帯に農業用水を供給している恵利(床島)大堰ができる正徳2(1712)年以前の話である。
 最近までこの地方では、横しまの肩当を忌み嫌う風習が残っていた。
 床島地区を訪れたとき、あぜ道は菜の花が真っ盛りで、お百姓さんの出番を知らせているように見えた。


 2018年7月、東海から九州までの広い範囲を襲った数十年に1度の豪雨。川は氾濫し、土砂が街や村落を呑みこんでいった。
思い出すのが、本サイトの「おさよの人柱」である。北方の筑紫山地から流れ来る中小河川の大水は、筑後川に合流する直前、水門によって流れを堰きとめられる。流水は、行き場を失って右往左往、ついには田んぼも家屋も呑みこんでしまう。
なすすべを知らない村民は、神のお告げを信じて、無垢の少女を生きたまま濁流に放りこんだ。所謂人身御供(ひとみごくう)である。「おさよの人柱」の筋書きだ。
 あの話は江戸時代のこと、21世紀の今日にそれはないだろうと思いたい。だが、なすすべを持たない人間の無力さは、おさよの時代とちっとも違わない。死者200人もの犠牲者は、ある意味では現代における人身御供であったのかもしれない。
 本稿をおこしているただ今、西日本豪雨2018からわずか10日しか経っていない時間である。未だ発見できない多くの犠牲者と連日38度の猛暑の中で土砂を運び出すボランティア。使えなくなったゴミの山に混じって、額縁に入った家族の記念写真があるのをテレビで見て、涙が止まらなくなった。(2018年7月22日)

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