平尾山荘物語

野村望東尼伝(改訂版)

2024/03/03


復元された平尾山荘&野村望東尼像


 福岡市内に定住して40年。恥ずかしながら、すぐ近くに保存されている貴重な「文化遺産」を見過ごしてきました。福岡市中央区平尾5丁目に建つ平尾山荘のことです。倒幕派と佐幕派が激突した江戸末期、ここ平尾山荘も重要な舞台となっていたのでした。
 山荘の住人だった野村望東尼(のむらぼうとうに・旧姓野村モト)は、大田垣蓮月・中山三屋と並ぶ江戸時代を代表する女流歌人です。特に、野村望東尼と中山三屋は、勤王女流歌人として討幕運動にも貢献した人物として有名でした。
 改めて平尾山荘とその周辺を歩きました。復元された山荘は、西鉄平尾駅と動・植物園で賑わう南公園の丁度中間地点にあたります。山荘の周辺でまず気がつくことは、坂道だらけの高級住宅街であること。一カ所たりとも、平らな道が見当たりません。
 主人公・望東尼が過ごした頃の平尾村は、古木に覆われた丘陵地帯であり、山を伐り拓いた典型的な農村地帯だったようです。手元の資料で調べると、当時の村の戸数は150戸、人口643人、田53町歩、畠17町余とあります。
 明治維新から遡ること十数年前、そんなのんびりした丘陵地帯に、藁葺き屋根の一軒家が建ちました。家の広さは、6畳・3畳・2畳の3間で、厨房と土間を合わせても10坪に満たないほどです。家の周りには雑木が密集していて、外からではそこに誰が住んでいるか伺うことは出来ません。そこが、野村望東尼が住処とした平尾山荘なのです。
 ボクはこれまで、身近に隠れている歴史的人物や伝説・民話を掘り起こすことに頑張ってきました。この度は、望東尼の勤王女流歌人としての生き方を、彼女が歩いた足跡を辿ることによって深掘りして参ろうと思います。

 最初からお読みいただくには、 第1部 仏門に入る へお進みください。ご意見・ご感想をお待ちします。

第7部 離島の牢獄

姫島上陸


姫島全景(周囲4㌔)
アカ□=姫島牢獄 アオ○=姫島桟橋

 望東尼を乗せた船が姫島の船着場に着いた。夜が明けて間もないというのに、数人の島民が唐丸籠を取り巻いた。中には、見覚えのある女房や娘の顔も確認できる。
 唐丸籠は、浜定番(はまじょうばん)屋敷に入った。暫時屋根の下で待たされる。そこで出された冷や飯と白湯だけでは、喉を通りそうになかった。昼過ぎから裏庭の白州に出され、藁茣蓙に座らされた。
「ここに直れ」。屋敷の小役人が指さした。しばらく待つと、上方からかすれ声が降ってきた。「面(おもて)を上げい」と叫んでいる。自分を見下ろしているのは、かつて弟の部下であった小島源五右衛門である。小島は、望東尼に挨拶をしたいような眼差しを向けた。だが、すぐに険しい顔に戻り、「流刑囚の心得」を形式的に読みあげて、さっさと奥に引っ込んだ。

獄舎暮らし

 小役人に両脇を抱えられ、再び唐丸籠に押し込まれた。連れて行かれた先は山の中腹に建てられた獄舎である。降りたって南方を眺めると、眼下に白波の立つ海が見える。玄界灘である。陽は西の海に落ちかけるところで、間もなく来る恐怖の夜を覚悟しなければならない。


復元された獄舎

 牢獄に入った初日は、慶応元(1865)年11月15日。明治維新まで3年を残す晩秋の夕暮れであった。
 これから寝起きする獄舎は、家畜を住まわす小屋が似つかわしいものである。四角い建物の屋根には、粗末な瓦が置いてあるだけ。縦1間半(2.7㍍)、横2間(3.6㍍)の広さに、寝起きするための畳1枚と敷板が置かれている。そのすぐ隣に雪隠(便所)があり、またその隣が警護室になっている。
 護送してきた役人は、望東尼の身辺を念入りに調べた。自殺の恐れのある刃物や、火災のもとになりそうなローソクなどを隠していないか点検する。望東尼を獄に閉じ込めた後、外から頑丈な錠前をかけてすぐに立ち去った。役人が警護室に寝泊まりしないことを知って安堵した。
 陽が落ちると、月明かりが板戸の隙間から差し込んでくる。表の草むらで鳴く虫の音や、天井から聞こえる梟の鳴き声がもの悲しい。「痛いっ」思わず自身の声が獄中に籠もった。忍び込んできたコオロギが、脛に食いついたのだ。与えられた薄い布団と周囲の茣蓙などを重ね合わせて身にまとい、寒さを偲ばなければならない。虫や藪蚊に悩まされながら、眠れそうにない夜が過ぎていった。
 夜が明けると、村人らしい中年の男がやってきて、外側からはめ込んだ板戸を開けた。彼方の海から、眩しいばかりの白波が目に飛び込んできた。村民との接触は、役所が委嘱している食事を運ぶ村の女が一人だけ。それも、無用な会話は許されていないらしく、用を済ますとさっさと獄舎を離れていった。
 格子戸から眺める対岸は、福吉あたりの唐津街道筋か。その奥には、浮嶽(805㍍)が気持ちよさそうに居座っている。牢獄の周囲に建つ家屋からは、牛や雄鶏の鳴き声がひとときも休む間もなく騒がしい。

島民との交流


今日の姫島風景

 いかに役人が村人との間を裂こうとも、時間が囚人との距離を縮めるもの。島の女たちは、魚の天日干しなど、仕事の合間に獄舎の前庭に集まって来る。そこでは、子供のことや亭主の稼ぎについて自慢し合う。最初は小声で、そのうちに他人の耳など気にすることなく騒ぎだす。
 武家屋敷では、おおよそ聞いたことがない下世話の話まで飛び出して、大口開けて笑い合う女たち。朝晩食事を運ぶシノとも会話を交わすようになった。最近顔色が良くなったと言って嬉しそうに語りかけてくる。
 望東尼は、シノに頼んで筆立てを用意してもらった。姫島での日記を書くためである。入牢して二十日が経過した頃、獄中の柱に書き込んだ心境である。

またここに住みなむ人よ堪へがたくうしと思ふは二十日ばかりぞ

 次にこの獄舎に入る人よ、耐えがたく辛いと思うのは最初の二十日間だけのことですよと、いとも前向きな歌である。
 この頃、囚われの身であった馬場文英が、京都の牢獄から釈放されたと、見回りに来た小役人が耳打ちしてくれた。そのうちに、野村の本家からも、差し入れが届くようになった。
「これ、ババには甘すぎて駄目だから、お子たちに食べさせて」
 朝食を運んでくる際、差し入れに入っていた駄菓子を差し出した。そんな時シノは、桑野喜右衛門という役人さんを覚えていると言い出した。
「その者はこの尼の三つ違いの弟だよ」と応えると、「あらまあ」を連発。後は、以前からの知り合いでもあるように、口が軽くなった。厳重に禁止されているはずのローソクを、「書き物に必要だろうから」と、こっそり敷き布団の下にしのばせた。夜になって火を灯すと、世界が変わったかのように明るくなった。人との繋がりの大切さを、仏の光に見立てて詠んだ句である。

暗きよの人やに得たるともし火はまこと仏の光なりけり

 時は過ぎていく。狭いながらも獄舎が自分の住処のように思えるものかと、我ながらびっくりする。シノに限らず、寄ってくる主婦や娘とも格子越しに会話するようになった。一日に一度の役人の見回りさえ気をつけておけば、彼女らとの間に、獄舎の壁はあってないようなものになっていた。


漁村風景

 ある日、別の獄に繋がれている囚人が、二人連れでやってきた。脱獄の恐れの少ない囚人に対しては、監視も緩やかになっているらしい。無精髭が顔中を覆う男は、望東尼が旧友ででもあるように、親しげに話しかけてきた。島を囲む海は、何にも増して頑丈な監獄塀の役目を担っているのだろう。
 ある時は漁師の男がやってきて、釣り船の進水を祝った和歌を詠んでくれとねだった。望東尼は、新しい舟の航海の安全と豊漁を祈念して、和歌を贈った。島内では、本土で有名な歌人であることが知れ渡っているようだ。
 望東尼が唐丸籠に乗せられて上陸した際、桟橋で見かけた女の子も気安く話しかけてくる。名前をウメと言い、望東尼のことを「おばあちゃん」と呼んだ。本当の孫のように思えてきた。年が明けると島人たちは、シノを通じて、海の幸・山の幸が入った雑煮を持ってきてくれた。
 獄舎には、いろいろな生き物が侵入してくる。ねずみ、百足、蜘蛛、蟻など。いちいち怖れていては、ここでは生きていけない。彼らも島民と同様に大切な仲間だと割り切って、安全な場所に逃がしてやったりもした。

脱獄作戦

 入獄から半年ほど過ぎた慶応2(1866)年6月。幕府は15万の軍勢を擁して第2次長州征伐に出た。だが、幕府軍の部隊にいるはずの薩摩軍は動かない。既に薩長連合(同盟)が成立して、倒幕の側にいたのだ。それでも幕府軍は、四方(小倉口・石州口・大島口・芸州口)から長州軍を攻めたてた。幕府軍の旧式装備では、新装備の長州軍を負かすことは出来ない。そこで、将軍家茂の死去を機に征討を中止することにしたのだったのである。
 その時、小倉口で長州軍の指揮を執っていたのが、高杉晋作であった。だが、持病の結核が進み、急遽下関まで帰ることになってしまった。

小倉城から持ち帰った戦利品の大太鼓
(下関厳島神社)

 時は更に過ぎて行く。慶応2年(1866年)の9月。明治維新まで残り1年あまりの頃である。この頃、福岡藩を脱藩して、下関にいた藤 四郎が病床の高杉晋作に告げた。「平尾山荘の望東尼さまが、筑前姫島の牢に島流しに遭っています。いつ何時命を奪われるかも知れません」と語り、老尼の救助を願い出た。乙丑の獄で玄界島に流された同士2名が、突然首を斬り落とされたことで、藤 四郎の焦りが募っていたのであった。
 四郎の差し迫った訴えを聞いた高杉は、早速必要な救助隊を編成することを決めた。高杉にとって、わずか10日間の平尾山荘滞在ではあったが、望東尼は命の恩人である。別れ際には、「お世話になったご恩はけっして忘れません」と誓ったうえに、気持ちを吐露する漢詩を置いてきた。望東尼からは、一晩かけて縫い上げた旅衣を着せてもらった。
 その時高杉は、福岡藩や長州の俗論派双方から命を狙われていた。その場は、月形洗蔵が主導して福岡藩領から脱出させ、無事長州の同士に引き渡してくれた。高杉は長州に帰国後、すぐさま俗論派を追放することに成功したのである。
 高杉は、望東尼救出のため、直ちに作戦に必要な同士を集めさせた。まずは、姫島と周辺海域に詳しく海流や海路、風向きなどを読める者、脱出に必要な船舶と船頭を都合できる者など、作戦に必要な要員の確保である。
「脱出後は、海の流れと風頼りだ。対馬藩の浜崎領には、船問屋が2軒あるはず。対馬の同志に頼んで、手頃な船と船頭を調達するように」
 高杉は、頭に浮かぶことを次々に口に出した。
「姫島に上陸する前に、獄にいる望東尼どのに知らせる必要もある」と藤 四郎に指示した。

帆船で脱出

 夏の盛りも過ぎた8月の末。陽が落ちて、牢獄の出入り戸を叩く音がする。望東尼が振り向くと、戸の隙間から紙切れが1枚。「9月10日夕刻、救助に参上 四郎」と書かれていた。「まさか、あの藤 四郎では」と直感する望東尼の心が躍った。
「王政復古の大号令」、明治維新まで1年とわずか。慶応2(1866)年9月10日の夕刻であった。

 船幅いっぱいに帆を張った船が、姫島の船着場に碇を下ろした。夕飯支度の時刻であり、海辺に人影はない。船から下りたのは男が4人。船に2人が残っている。
 男らは、上陸すると2⃣人ずつ二手に分かれて、島の中央に座る鎮山への急坂を登っていった。藤 四郎と博多商人の権藤幸助は、望東尼が入っている獄舎へ。権藤幸助は博多商人だが、攘夷派藩士との交わりが深く、藤 四郎に誘われて作戦に参加している。事前に脱獄の予告文を投げ入れたのもこの男である。
 一方の2人は、福岡藩を脱藩した藤 四郎の元同僚・小藤平蔵と対馬藩を脱藩して長州領内に居留する多田荘蔵である。両名は、獄舎から更に登ったところの岡定番役(じょうばんやく)屋敷に向かった。
 望東尼が繋がれている獄舎に到着した藤 四郎は。周囲の様子をうかがった後、獄中に向かって声をかけた。
「ハハウエ、お迎えにあがりました」。中から呻くような声が返ってきた。
 一方、定番屋敷の前に立った3人は…。小藤平蔵が定番役屋敷の表戸を叩いた。玄関に現れた坂田は、大声で語りかけた。
 ほぼ同時刻に、藤 四郎らは、持参した木槌で牢の錠前をたたき壊した。
「おお、四郎かえ」
 先を競うようにして侵入してきた四郎に、望東尼が真っ先に質した。
「長州の高杉晋作どのの計らいで、ハハウエを救いに参りました。ここにいるのは、同志の権藤幸助です。細かいことは後ほどゆっくりと…。手荷物は最小限にして、さあ、参りますぞ」
 促されて望東尼が立ち上がろうとするが、膝に力が入らない。
「おつかまりください、手前の肩に」と、権藤幸助が背を向けた腰を下ろした。
 1年近くも座りっぱなしで、足が萎えていて思うように立つことも出来ない。背中を向けた権藤には、かすかながら見覚えがあった。いつしか平尾山荘に志士らと連れだってやってきたことがある。その時、珍しい茶菓子を差し入れてくれた。
「して…、私をこれからどこに連れて行くのですか?」
「長州の下関まで」
 長州と言われても、そこがどんなに遠いところなのかさえ、考えが及ばない。陽が唐津の海に落ちていく。近所の民家から漏れているわずかの灯りと、遠くで点滅する漁り火が道標(みちしるべ)であった。
 権藤幸助に背負われて急坂を下りていく時、下から上ってくる女とすれ違った。獄に夕飯を届けに行くシノである。
「あのう」、見知らぬ男の背中に負われている望東尼に、声をかけた。
「おシノさん、今日からもうご飯はいらないよ。これから遠いところに行くけれど心配ないからね。島のみなさんに、くれぐれもよろしゅう伝えて」
 事情を察したシノは、港に急ぐ望東尼を、声を押し殺すようにして見送った。

 一方、定番役を引き留める作戦の小藤は…。
「我らは、藩命により参った。この度、殿に対して朝廷から、入獄している野村望東尼を釈放いたせとの命令が下った。尼僧の身柄は、当方で無事城まで届ける故、心配ご無用」
 小藤が、わざと声を大にして相手を威嚇した。眠気覚めやらぬ坂田は、何事が起こったのかさえはっきりしない様子。
「そんなはずはない。囚人の管理は定番役の拙者の仕事故・・・。そんな重大な決定なら、奉行より直接拙者に指示がなされるはず」
「朝廷から藩主への命なれば、そのように悠長なやりとりをする暇はなかったはずだ」
「しばし待たれよ。当方より真偽のほどを確かめる故」
「何を申すか!この期に及んで。奉行の代理たる拙者を侮辱する気か!」
 小藤は、押し問答しながら、一向に慌てる風がない。
 その時である。港の方から「ズドーン」と、銃砲の轟音が響き渡った。
「何事じゃ、あの音は?」
 坂田がひかえている庭番に質すが、庭番も小首をひねるばかりではっきりしない。
「困ったご仁じゃ。深夜のこと故、これ以上はそなたを責めないが、そのうち奉行より何らかの措置が下されよう」
 小藤は、坂田嘉左衛門を睨み付けた後、多田を促して、山裾を駆け下りていった。
「どうもおかしい。あの者らは、本当に奉行の遣いなのだろうか。もう一度問い詰めなければ…。着替えを用意いたせ」
 坂田は、奥方に言いつけて、目をこすりながら出て行った。坂田が浜定番屋敷に寝泊まりしている小役人と一緒に船着き場に駆けつけたとき、望東尼らを乗せた帆船は、彼方の仏崎岬に隠れるところであった。
「しまった、遅かったか!」
 地団駄踏む坂田嘉左衛門。こうして藤 四郎らによる望東尼救出作戦は成功した。高杉晋作が組み立てた作戦と藤 四郎らの実行力が、見事に的中したのである。脱出に気がついたはずの島民が、見て見ぬふりをしてくれたことがどれほど役だったことか。藤 四郎らは、鎮山の頂が見えなくなって、ようやく舳先で胸をなで下ろすのだった。
 望東尼を乗せた船は、大型の木造帆船。風力が主な動力源であるが、対馬海流と南西からの追い風に乗れば、それは何よりの船旅になる。

海上逃避行


玄界灘望む

 望東尼は、船酔いを紛らすために、遠くに点滅する街灯りを眺めている。
「こんな一本柱の帆掛け船で、波の荒い玄界灘を乗り切れるのかしら。風だって、必ず順風とは限らないでしょう」
「そこは心配ご無用に願います。船は、南から北へ流れる対馬海流に乗っております。それに今は都合のよい南西の風が吹いております故」
 舵を操る多田と吉野が、自信たっぷりの口ぶりで説明した。
「この船に乗っているのは、誰と誰?」
 望東尼の問いに藤 四郎は、一人一人を指さしながら答えた。
  藤 四郎・小藤四郎(福岡藩脱藩)、多田莊蔵・吉野応四郎(対馬藩脱藩)
  泉 三津蔵(長州藩)、権藤幸助(博多商人)。
「今、どの辺を走っているの?」の問いに、藤 四郎が答えた。
「先ほど、大きな船が先方を横切ったから、玄界島を通過したところですかね」
 しばらく沈黙が続いた。気がつけば望東尼は、俯いたまま寝息をかいている。藤 四郎が口を開いた。
「これから宗像沖の大島に上がります」
「何のために?」。望東尼には訳の分からないことである。
「大島の牢獄に捕らえられている、助作殿を救い出すためです」
「孫の助作ですか?会いたいな」
 突然飛び出した孫の話に、すっかり目を覚ました望東尼が声を上げた。
「救出はよろしいが、肝心の牢獄が何処にあるのか…」
「それも心配ご無用です。私は6年前に脱藩の罪で大島の牢獄に繋がれたことがありますから…」
 大島には、宗像大社の中津宮が祀られている。令和の今日、ユネスコに「神宿る島」として申請し、世界遺産として登録された。大島で最高峰の山は御嶽で。島の周囲が7㌔を西の玄界灘と東の響灘が取り囲んでいる。牢獄は、この島の北東部に造られているという。
 藤 四郎は、権藤幸助を伴って下船した。間もなく戻ってきた時、助作ではなく、知らない3人を連れていた。
「どういうことなの、孫は?」と、激しく問い質す望東尼に、藤 四郎。
「助作殿は、藩の都合で島流しではなく、城下の枡木屋に入れられたままだそうです。この者たちは、ぜひ助けて欲しいと訴えるので、連れて行くことにしました。ハハウエには、期待だけ持たせて、お気の毒でした」と、うなだれた。気を落とす老尼に、一同はその先ずっと励ますばかりであった。新しく乗船するのは、桑野半兵衛・澄川洗蔵・喜多村重四郎の3人であった。
 大島を離岸した船は、10人を乗せて、再び波荒い玄界灘に出た。南西の強い風を受けて、時を待たずに響灘へと突き進んでいった。

つづく

 

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