平尾山荘物語

野村望東尼伝(改訂版)

2024/02/25


復元された平尾山荘&野村望東尼像


 福岡市内に定住して40年。恥ずかしながら、すぐ近くに保存されている貴重な「文化遺産」を見過ごしてきました。福岡市中央区平尾5丁目に建つ平尾山荘のことです。倒幕派と佐幕派が激突した江戸末期、ここ平尾山荘も重要な舞台となっていたのです。
 山荘の住人だった野村望東尼(のむらぼうとうに・旧姓野村モト)は、大田垣蓮月・中山三屋と並ぶ江戸時代を代表する女流歌人です。特に、野村望東尼と中山三屋は、勤王女流歌人として討幕運動にも貢献した人物として有名でした。
 改めて平尾山荘とその周辺を歩きました。復元された山荘は、西鉄平尾駅と動・植物園で賑わう南公園の丁度中間地点にあたります。山荘の周辺でまず気がつくことは、坂道だらけの高級住宅街であること。一カ所たりとも、平らな道が見当たりません。
 主人公・望東尼が過ごした頃の平尾村は、古木に覆われた丘陵地帯であり、山を伐り拓いた典型的な農村地帯だったようです。手元の資料で調べると、当時の村の戸数は150戸、人口643人、田53町歩、畠17町余とあります。
 江戸末期、そんなのんびりした丘陵地帯に、藁葺き屋根の一軒家が建ちました。家の広さは、6畳・3畳・2畳の3間で、厨房と土間を合わせても10坪に満たないほどです。家の周りには雑木が密集していて、外からではそこに誰が住んでいるか伺うことは出来ません。そこが、野村望東尼が住処とした平尾山荘なのです。
 ボクはこれまで、身近に隠れている歴史的人物や伝説・民話を探し求めてきました。この度は、望東尼の女流歌人としての生き方を、彼女が歩いた足跡を辿ることによって深掘りして参ります。

 最初からお読みいただくには、 第1部 仏門に入る へお進みください。ご意見・ご感想をお待ちします。

第6部 姫島流罪

座敷牢

 御馬屋後(おうまやのうしろ=現中央区赤坂3丁目付近)に建つ浦野家での、謹慎暮らしが始まった。「謹慎」とは名ばかりで、実態は「座敷牢獄」と違わない。ここは、望東尼が嫁入り前まで暮らした家でもある。藩庁からのきつい申し渡しもあり、勝手に外出することはもちろん、会話することも許されない。広い座敷で、見張り役の総領吉之助と睨めっこが延々と続くことに。
「伯母上・・・」
 退屈そうにうなだれている伯母に、吉之助が語りかけた。


福岡赤坂3丁目 望東尼生誕地

「どこにどのような目があるかも知れぬ」と、望東尼が小声で遮った。
「吉之助よ、たまには外に出て、弓射場(ゆみいば)でも覗いてみたいの」
 今度は、伯母の方から話しかけた。するとすぐに、吉之助が身構える。
「駄目です。伯母上が変な気でも起こしたら、浦野家はたちどころに取り潰しですからね。しばらくの辛抱です、我慢しましょう」
「分かっていますよ。ただ、おまえの名前を呼んでみたかっただけ」
 それだけの会話を交わすのにも、気を遣わなければならない窮屈な自宅謹慎であった。
 謹慎中も、藩庁から取り調べのための出頭命令が届く。取り調べの場所は、お城を半周した向こう側の、中名島町(現長浜公園あたり)である。おおよそ半里(2㌔)の道のりを駕籠に乗せられてつれていかれる。体力に自信のない望東尼は、すぐ疲れた。付き添いの吉之助にねだって、海の見える日陰で一休みすることにした。博多湾からの風が気持ちよく、いつまでもここにいたいと駄々をこねたくもなる。
 取り調べは、年老いた尼僧を気遣ってか、部屋の中で淡々と進められた。
「今回取り調べを受けている者は、いずれも、包み隠さず答えておる。貴僧も、お仲間を思う心があるのなら素直に答えられよ」
「何をお訊きになりたいのです?」
と応じたところで、役人の声色はますます優しさを増した。
「貴僧の山荘に出入りしておる者の名前を聞かせてくれまいか。それから、中村円太の枡木屋脱走について、知っていることをすべて教えてほしい」
「申し上げたら、今捕らわれている者たちを、すぐさま自由の身にしてくれますか」と、念を押した。
「貴僧の願いを聞いてくれるよう、御奉行に申し伝える故」
 そこで望東尼は、平尾山荘に出入りしていた若者の名前を連ねた。そのことが、後の大弾圧に直結する誘導尋問であろうとは微塵も考えず、知りうることをすべて申し立てた。

判決言い渡し

 高杉晋作の帰国後、長州藩では劇的に俗論派(幕府擁護派)の勢いが衰え、逆に正義派、つまり倒幕思想が勢いを増すことになった。そのようなことを許すまいと幕府、第二次長州征討に打って出た。総司令官に、将軍德川家茂を据えてまで。
 第二次長州征討を知らされた福岡藩主・黒田長溥は、謹慎を申し渡している志士たちを即刻処分するよう言い渡した。世に言う乙丑の獄(いっちゅうのごく)本番の始まりである。慶応元年10月23日であった。明治維新まで3年を残す時期である。
 尊攘派が頼りにする家老の加藤司書をはじめ、月形洗蔵ら21名に切腹及び斬罪が言い渡された。その他にも16名に流罪が。併せて100名を超える志士に対する処分が断行されたのである。


福岡城本丸跡

 望東尼の孫・野村助作には流罪の判決が言い渡された。助作が流される島は宗像沖の大島と聞かされた。実は、枡木屋の牢獄に閉じ込められたのだが。そして望東尼には、「姫島流罪牢居」の刑が告げられたのである。望東尼は、判決文を聞かされて涙が止まらなくなった。取り調べの際に、あれほど同士に対しては、罪はないことにして欲しいと頼んだのに。正直に真実を述べれば、許してくれると信じていたのに。全身全霊を込めての訴えは、黒田のお殿さまにまでは届かなかったのか。ましてや、他の同志に比べて自分への罪が軽すぎる。死罪でないのはどうしたことか。打ち首ではなく島流しということでほっとするどころではない、恥ずべきことだとも思えた。
 もう一つびっくりしたのは、流される先が筑前の姫島だということだった。福岡藩は、死罪に次ぐ罪状として設けた「流罪」の先として、姫島・玄海島・大島・小呂島など、近郊の離島に牢獄を設えている。孫の助作には宗像沖の大島が当てられ、望東尼には姫島だとは。それより、姫島には望東尼自身が何度か足を踏み入れていた。今は亡き実弟の桑野嘉右衛門が、かつて姫島に勤務していたことがある。その弟に誘われて姫島に渡ったのだ。その時、島への旅は、和歌の恩師である大隈言道と二人連れだった。
 姫島は、芥屋ノ大門近くの岐志港から7㌔西に浮かぶ離島である。現在岐志港から渡船に乗れば、約16分で到着する。
 あのとき望東尼と言道は、愛宕神社下の海岸伝いに芥屋まで、語り合いながらの旅であった。海が荒れていて船を出せないという船頭に従って、その夜は村長(庄屋)の屋敷に泊まることになった。望東尼はそのときの心境を詠んでいる。

旅ごろも香月の浦にいつまでか立うらぶれん波もわがみも

 ようやくたどり着いた姫島では、漁師の家族と触れあうなど、楽しい思い出が詰まった旅となった。この姫島に次に来るときは、囚人の身で荒波を渡ることになろうとは・・・。

唐丸籠

 慶応元年(1865年)11月14日の夕刻であった。明治維新の2年前である。浦野家門前に唐丸籠が運び込まれた。籠に乗るのは望東尼。唐丸籠とは、囚人を載せて護送するための籠のこと。「籐丸籠」とも言うそうだが、闘鶏用のシャモを飼う籠に似ているところから付けられた名前だとか。
 赤坂御馬屋後(おうまやうしろ)の実家から岐志の港までの8里(30キロ強)を、夜を通して護送する。岐志到着後は、船で姫島まで運ぶことになる。2人の役人と、籠の前後に舁き手2人と役人2人が護送する。囚人は、最初から最後まで籠の中。排便も籠の底に開けられた小穴を大小共通で使う。外から物珍しそうに見つめる目もお構いなし。これ以上ない惨めな晒しものである。気位の高い400石取りのご新造さんには残酷過ぎる。顔から火が出るような羞恥心も関係なく、籠は西方に向かって歩き出した。
「せめて港まででも…」見送りたいと訴える者には、「後の咎めが恐ろしいから」と、吉之助が押しとどめた。結局、身内から5人が、籠のずっと後を着いていくことになった。籠はか細い提灯の灯りを先頭に、唐人町から唐津街道に出た。


生の松原付近

 室見川を渡って振り返ると、川向こうから城下の灯が見送っている。生まれてこの方馴染んできたお城や福岡の街とも、今生のお別れになるのだろうか。多くの志士らと出会った平尾山荘を、今後誰が面倒見てくれるものやら。月形洗蔵-平野国臣など、山荘にたむろした面々が脳裏を駆け巡る。夫貞貫と、「ここでのんびり和歌を詠もう」と誓った山小屋である。夫の幻影が浮かんだ途端、もう一人の男がしゃしゃり出た。10日間だけ匿った高杉晋作の眼光鋭い姿であった。
籠は彼女の感傷も知らぬげに、海岸通りから愛宕下へ、更に生の松原を経て博多湾へと進んでいった。風が出たのか、海岸に打ち付ける飛沫が頬を濡らす。拭き取ることもままならず、目を閉じたままで我慢した。それより、師走間近の海辺では、頬を殴る風が耐えられないほどに冷たい。
 一行が岐志の港に着いた時、東の空では大きな星が休みなく輝いていた。一行は、船乗り場からほど近い庄屋の家で、しばし休息をとることになった。以前師匠の大隈言道と連れだって姫島に渡った折、立寄った庄屋の屋敷である。そのとき、庄屋に頼まれて自作の和歌を贈ったことを思い出した。
 役人は、守人に厳重な警護を言い渡すと、さっさと眠りこけた。後ろから付いてくる5人の身内も、元来た道を戻っていった。
 疲れ切っている守人の隙を見て、庄屋が筆と紙を差し出した。「今のお気持ちを一句」詠んでいただきたいとの願いである。

舟でするきしの浦波立かへりまたこの家にやどるよもがな

 目を覚ました役人が、守人の頭を叩いた。「凪いでいる間に船を出すぞ」と声をかけ、望東尼を再び唐丸籠に押し込んだ。桟橋まで見送ってきた庄屋とその家族が、「お身体をお大事に」と、涙声で手を振っている。行く末を察知しているかのように、声は上ずりがちであった。


筑前姫島渡船

 桟橋を出るとき凪いでいた引津湾が、玄界灘に出た途端、荒海と化した。
「大丈夫だって、こんくれえの波じゃひっくり返ることはなかけん」
 艪を漕ぐ船頭は、荒波に揺さぶられる様を楽しんでいる風にも見える。船酔いがひどい望東尼は、籠の中で横になることもできずにもがいた。
「夜が明けますぜ」と船頭が叫ぶ。お盆を伏せたような姫島が、目に飛び込んできた。まさしく、これからの困苦を予告する島影であった。

つづく

 

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