平尾山荘物語

野村望東尼伝(改訂版)

2024/02/11


復元された平尾山荘&野村望東尼像


 福岡市内に定住して40年。恥ずかしながら、すぐ近くに保存されている貴重な「文化遺産」を見過ごしてきました。福岡市中央区平尾5丁目に建つ平尾山荘のことです。倒幕派と佐幕派が激しく激突した江戸末期、ここ平尾山荘も重要な舞台となったのです。
 平尾山荘の住人だった野村望東尼(のむらぼうとうに・旧姓野村モト)は、大田垣蓮月・中山三屋と並ぶ江戸時代を代表する女流歌人です。特に、野村望東尼と中山三屋は、勤王女流歌人として討幕運動にも貢献した人物として有名です。
 執筆にあたって、改めて平尾山荘とその周辺を歩きました。復元された山荘は、西鉄平尾駅と動・植物園で賑わう南公園の丁度中間地点にあたります。山荘の周辺でまず気がつくのは、坂道だらけの高級住宅街であることです。一カ所たりとも、平らな道が見当たりません。
 望東尼が過ごした頃の平尾村は、古木に覆われた丘陵地帯であり、山を伐り開いた典型的な農村地帯だったようです。手元の郷土史を紐解いてみます。当時村の戸数は150戸、人口643人、田53町歩、畠17町余とあります。
 江戸末期、そんなのんびりした丘陵地帯に、藁葺き屋根の一軒家が建ちました。家の広さは、6畳・3畳・2畳の3間で、厨房と土間を合わせても10坪に満たないほどです。家の周りには雑木が密集していて、外からではそこに誰が住んでいるかも伺うことは出来ません。そこが、野村望東尼が住処とした平尾山荘なのです。
 ボクはこれまで、身近に隠れている歴史や民話を探し求めてきました。今回は、望東尼の女流歌人としての生き方を、彼女が歩いた足跡を追いかけながら深掘りして参ります。

第4部 集う志士群

みやげ話


当時の山荘

 文久2(1862)年6月(明治維新の6年前)。望東尼は、京都からの帰途、下関から渡船に乗って小倉に上陸した。半年ぶりの九州である。

 この間に実家の野村家は、貞和から孫助作の代にが替わっていた。住居も林毛町から下警固村の立益町(りゅうえきのちょう)に移っている。立益町は、現在の地下鉄桜坂駅付近である。
平尾山荘に着くと、早速野村家の家族が集まってきた。彼らには、山ほど積もった土産話を披露した。話を聞こうと、藩の若者も集まってきた。
 皆が帰ったあと、一人山荘の庭石に座り込んであたりを見渡した。どうしてここだけがこんなに静かなのだろうと、不思議な感覚にとらわれる。
 彼女を追いかけるようにして、京都の馬場文英から便りが届いた。激しい政情の移り変わりが、こと細かに記されている。馬場は、福岡に住む志士たちの動向も気にしているようだ。
 そんな折、孫の助作が、中村恒次郎なる青年藩士を連れてきた。青年に年齢を聞くと、23歳だと答える。助作より1歳上である。57歳の自分とは、母子ほどに離れている。
「おハハウエ、私にも京都の話を聞かせてください」と、子供がねだるような言葉使いで挨拶した。平尾山荘にやってくる若者は、望東尼のことを「ハハウエ」と呼ぶようになっていた。中村は、京都での尊皇攘夷派の活動ぶりを知りたいようだ。最近起こった大蔵谷回駕の一件や寺田屋騒動のことなどには、特に興味がありそう。
 望東尼は、蘇る記憶をなるべく正確に伝えようと心がけた。日を置かずして、望東尼の山荘には幾人もの若者が寄って来るようになる。助作から事情を聞きつけたのだろう。いずれも、自分とは母子ほどに年齢差のある青年ばかりである。彼らは、望東尼の話を聞きながら、誰憚ることなく尊皇攘夷論を戦わせる。口から泡を飛ばす青年らに、望東尼も危うさを感じることはなかった。立派な志士の卵たちである。


平野国臣来る


平野国臣の銅像(西公園)

 望東尼が上方から帰国して、一年が経過した文久3年のこと。山荘に平野国臣が尋ねてきた。望東尼にとって、初対面の武士である。大蔵谷回駕の事件もあって、彼のことは忘れられない人物の一人になっていた。風貌は想像していた以上に武士らしくない。月代(さかやき)は伸び放題だし、長刀だって刃を下に向けて腰に吊り下げているだけ。大蔵谷回駕事件後福岡藩に身柄を拘束され、枡木屋の牢獄に閉じ込められているところまでは聞いていた。

※枡小屋(ますこや)の牢獄:幕末期に福岡藩が橋口町(現天神4丁目日銀付近)に造った牢屋のこと。

「枡小屋の牢の中ににいるはずの貴方が、どうして私の目の前にいるのです?大蔵谷の一件なら、私もそれなりに知っているつもりだけど。貴方は、薩摩の島津久光公の名前を語って、黒田のお殿さまに建白書を渡したのでしょう。黒田のお殿さまだって、貴方を易々とお許しになるとも思えませんよ。いったい、その間に何があったのでしょう」
「ありがたいことに、朝廷からのお力添えがありましたようで。3ヶ月前に無罪赦免になったのです。拙者ごとき者に、朝廷がどうして働きかけをしてくださったのか、そこのところはようわからんのです」
 ひと通りこれまでの経過を聞かされたあと、望東尼が問うた。
「貴方が本日現れたわけは?」
「拙者、これより京に上ります。福岡藩からの命によるものです。無罪放免してもらったお返しのつもりで、聞き入れました。京都に行けば、馬場文英殿に会いたいと思っています。そこで、御尼に紹介状を書いて欲しいのです」
 平野国臣の上京の目的の一端が尊皇攘夷のためだとわかり、早速馬場文英宛てに紹介状を書いた。


月形洗蔵屋敷跡(赤坂3丁目)


 大蔵谷回駕の後、福岡藩による尊皇攘夷派に対する監視はますます厳しくなっている。志士たちの中心にいる月形洗蔵もその一人である。月形は、望東尼が生まれた御馬屋後(おうまやのうしろ)の数軒東側に住んでいて、幼い頃からよく知っている仲である。彼は3年前に、藩主黒田長溥に対して、参勤交代の中止などを求める建白書を提出したことがある。その時黒田藩主は、藩政批判の罪で月形をはじめ30名余に島流し処分を科した。だが間もなく、全員の処分が撤回された。これまた朝廷からの働きかけであった。このときの処分を歴史家は、「辛酉の獄(しんゆうのごく)」と呼んだ。

八月十八日の変

 平野国臣や月形洗蔵らは、獄に繋がれてもすぐに釈放された。すべて、朝廷からの指示でなされたことである。ところが、それまで優位に働いていた朝廷における尊皇攘夷派の公卿らは、一日にしてその力関係を逆転させられることになる。尊皇攘夷派の急進派だった三条実美ら七卿が、朝廷を追われたのである。公卿らは、雨の中を草履と簔だけの姿で追放され、長州藩の兵士ら2000人とともに西に向かったのだった。

※八月十八日の変:1863年。幕末、公武合体派の薩摩藩が、京都守護職松平容保(まつだいらかたもり)を動かし、8月18日に朝議を一変させて討幕派を追放した事件。守護職は、長州の御所警衛を取り上げたうえ、長州藩主の官位と名誉を剥奪した。追放された三条実美ら急進派の実美らは、長州藩に逃げ込み(七卿落ち)、尊攘討幕運動は一時挫折することになる。


平野国臣生誕の地(福岡市早良区)

 馬場文英から、八月十八日の変とその後の平野国臣や志士らの動きについて、動静が伝えられた。平野は、新撰組の追っ手を逃れて但馬へ向かった。平野国臣は更に、周防国三田尻を目指した。みやこを逃れた七卿に会うためである。平野は、更に播磨へと移動する。三田尻を発つにあたり、平野国臣は望東尼に宛てて、自らの歌を添えて、訣別の書状を送った。
「幾度か捨てし命の今日までも残るは神の助けなるらむ」
 平野はその後、豊岡の藩士に捕まり、京都の六角の獄に移された。後に新撰組の手で処刑されることになる。

六角の獄:平安時代に建設された京都の牢獄。正式には「三条新地牢屋敷。宝永大火のあとは、六角獄舎、または六角牢といった。

 福岡藩士・中村円太も、同時期に脱藩の罪で捕縛され、枡木屋の獄(福岡)に繋がれた。平野国臣を失い、中村円太まで獄に繋がれていると聞き、望東尼は居たたまれなくなった。自分が女でなかったら、もっと若かったら…の思いが、なおさらのごとく気持ちを暗くさせるのである。

急展開

 年号は元治(1864年)に移る。春盛りの3月24日のである。福岡藩で二つの事件が起こった。
 一つは、藩の中でも身分の高い家臣(老臣)である牧市内が、地行が浜(現PayPayドームあたりの海岸)で暗殺されたこと。牧を斬ったのが勤王志士であったこと。
 もう一つの事件は、枡木屋に繋がれている中村円太が脱獄したこと。脱獄を手引きしたのが、中村円太の実弟恒次郎と小藤平蔵の勤王志士二人だったこと。
 あの夜、10名の藩士が平尾山荘に集まっていた。談合の途中、中村恒次郎と小藤平蔵が席を立った。二人の行き先は枡木屋である。牢獄に押し入り、獄吏に扉を開けさせ、繋がれている中村円太を解放した。小藤は、脱藩するまで枡木屋の牢で獄吏を務めていた藩士であり、当日獄を開いた人物とは同僚の仲でもあったのだ。
 同じ日に、老臣の暗殺と勤王派人物の脱獄という、いずれも勤王志士に共通する事件が起こった。福岡藩の上層部はもちろん、対立する勤王派と公武合体派を穏便に並立させようと考えていた藩主黒田長溥が、冷や水を浴びせられることになる。それまでどちらかと言えば優柔不断に見えた福岡藩主の態度を、決定的に幕府寄りにしてしまうことになったのである。


対馬藩飛び地田代代官所跡


 望東尼の気がかりは、あの夜車座から抜け出した中村恒次郎と小藤平蔵のその後であった。3人の足取りについては、山荘に現れた若者の一人が教えてくれた。脱獄に成功した中村円太と、円太を救い出した弟の恒次郎と小藤平蔵は、事前の打ち合わせ通り同士の家に匿われて難を逃れていた。
 その後3人は、対馬藩の飛び地である肥前国田代宿(現鳥栖市)の代官所(現田代小学校)まで逃げた。そこで長州藩士の小田村文助と名乗る武士に出会う。小田村は、3人を長崎経由で、商船に乗せて防府の三田尻港まで送り届けたという。
 ここで登場する小田村文助こそ、望東尼にとっての、後の人生を決定づける存在となるのである。

高杉晋作を匿う

 月形洗蔵が山荘にやって来て、長州の志士を匿って欲しいと願い出た。元治元年(1864年)11月11日のこと。明治維新の4年前である。匿って欲しい人物は高杉晋作だと言う。高杉といえば、先頃、四国(英・仏・米・欄)連合艦隊による下関攻めの後、和解交渉の長州藩正使となった人物ではないか。
 翌日山荘に現れた高杉晋作は、想像した豪傑風とは似ても似つかぬ優男であった。たわし風の髭面もない。
 望東尼は、初対面の男の顔と仕種を見て強烈な衝撃を受けた。5年前にこの世を去った夫新三郎貞貫と似ている。そんなはずはないと自身に言い聞かせながら、改めて高杉晋作と向き合った後、投宿を承知した。
「このような破れ小屋でよかったら」


高杉晋作

高杉晋作が平尾山荘にたどり着くまでのいきさつを、少しばかり補足したい。

 文久3(1863)年3月。高杉は、藩主から下関防御の役を任されたことがある。高杉はその機を逃さず、下関界隈に建つ功山寺で騎兵隊を結成した。その後、藩の許可を得ずに藩を飛び出して京に上ったため、脱藩の罪で野山獄に閉じ込められた。イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四カ国連合艦隊が長州を攻めにかかったそのときであった。


功山寺

※奇兵隊:長州藩の非正規軍隊。門閥に関係なく、農商人を編入して実力主義をとったことで知られる。
※下関砲撃事件:1863年~64年。幕末、長州藩の攘夷実行に報復する英・米・仏・蘭4国連合艦隊が下関を砲撃した事件。長州藩は、降伏後の交渉で四国艦隊と講和を結ぶべく、高杉を牢からだして、長州藩正使に抜擢した。
※野山獄(のやまごく):江戸時代、長州藩萩に造られた獄屋敷のこと。

「勝手なものですね、お上のなさることは。気に食わなければ牢に入れ、場面が変われば、外国との交渉大役を担わせるのですから」
 望東尼が、深くため息をついた。四国連合との交渉が一段落すると、長州藩内ではまたまた正義派と俗論派の論戦が始まった。幕府に対して抗戦を主張するのが「正義派」。幕府に恭順であるべきと主張するのが「俗論派」に分かれた。正義派をリードしたのが高杉晋作である。
 長引く論争に嫌気がさした高杉は、地元の萩に引き下がった。それでも俗論派の攻撃は高杉を攻め立てた。たまらず萩を抜け出して下関の豪商・白石正一郎の屋敷に身を潜めた。そのとき白石邸にとどまっていた福岡藩の中村円太から、筑前行きを勧められたのであった。
 高杉は、馬関(関門)海峡を渡って門司の港に着いた後、月形らの助けを借りて肥前国の田代宿に到着した。田代は対馬藩の飛び地であり、攘夷派の勢いが強い土地柄である。田代代官所に滞在中、佐嘉の鍋島など九州諸藩の大名に尊皇攘夷論を説いて、倒幕の戦いに加わるよう説得を試みた。だがそれもうまくいかず、逆に高杉の身が危険にさらされることになる。
「それで、当平尾山荘に隠れようと…」
 話はそこで途切れて、しばし沈黙の時間が過ぎていった。その間望東尼は、目の前の男の表情を見つめたままであった。
「貴方には奥さまは?」
 考えた末の質問ではなかった。
「萩に置いたままです」
 この話も、次には進まなかった。狭い山荘で他藩の男と同居することは、望東尼自身辛いことであった。そこで、自分は立益町の野村家に寝泊まりしながら、山荘に通うことにした。野村家から山荘までの距離は半里に満たない。女の足で通うにも、それほどきついことではなかった。山荘での高杉の世話は、瀬口三兵衛に任せた。
 その頃長州藩内では、俗論派の勢いがますます増幅していた。正義派3人の家老が、禁門の変を引き起こした責任で切腹するに及んだ。それだけでは済まない。俗論派は、更に4人の参謀に打ち首の刑を処した。このままでは、藩内の正義派は決定的に追い込まれることになる。

※禁門の変:幕末(1864年)。長州藩兵による兵乱。蛤御門の変・元治の変ともいう。前年の八月十八日の変で失墜した勢力を回復するため、尊皇攘夷派志士が長州藩を動かして京都に出兵。御所を護る薩摩と会津・桑名諸藩兵と、蛤御門周辺で戦って敗走。京都は大火となり、長州藩は朝敵とされて、長州征伐が起こるきっかけとなった。


蛤御門

 平尾山荘に隠れている高杉は、藩の同士からの連絡を受けて衝撃を受けた。一時も早く長州に戻らなければならないと、気ばかりが急く。
「今帰藩したら、待ち伏せしている俗論派の餌食になるだけですぞ」
 止める月形洗蔵の声も高杉の耳には届かなかった。
「悲しいね、せっかく世の中のことを学ばせていただいていたところだったのに・・・」
 望東尼は、高杉の滞在が10日足らずでは、もの足りないと悔しがった。高杉が去った後まで自分のことを記憶に止めてくれる証を差し出したいと考えた末に、夜通しで旅衣を縫った。両袖の裏地には、自身が身につける襦袢の袖を切り取って縫い付けた。翌朝、旅立つ高杉に手渡すときのときめきの感情である。

谷梅ぬしの故郷に帰り給いける形見として夜もすがら旅衣を縫いて贈りける

 ここでいう「谷」とは、高杉晋作の別称である。高杉もまた、山荘を去る際に漢詩を書き残した。その中の一首である。

山荘留我更多情 山荘我を留めて更に多情
  賦呈
            東洋一狂生東行拝具(高杉晋作の署名)
望東君

 突然舞い込んできた危険人物を、嫌がりもせず受け入れてくれた恩は終生忘れまいと誓った高杉晋作の句である。そして平尾山荘を去って行った。このときの高杉晋作との切ない別れは、望東尼の記憶から遠ざかることはなかった。
 山荘を後にする高杉晋作は、月形洗蔵らの身を挺しての援護で、無事長州藩に戻っていったのであった。

つづく

 

筑紫次郎の世界表紙へ

望東尼伝目次へ

お便りはこちら