伝説 弘法大師 えつとおぼうさん 久留米市(城島)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第007話 2001年05月13日版
再編:2008.06.22 2017.05.13
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

斉魚(えつ)をくれたお坊さん
福岡県久留米市(旧城島町)


斉魚を持ったお大師さま

 5月にはいると筑後川の下流は、斉魚漁(えつりょう)で大賑わい。川岸の「エツあります」の看板につられて入った食堂の女将さんが、にこにこ顔で迎えてくれた。


エツ料理のコース

「エツはくさいの(ですね)、ほんなこつ(本当に)、ちっごがわん(筑後川の)ここんにき(ここらあたり)でしか獲れん珍しか魚ですもんの」だって。なるほど運搬手段が発達した今日でも、すぐ近くの大都市・福岡市ですら見かけることはない。鞘から抜いた刀のようにスマートな形をしていて、鱗が銀色に光っている。小骨が多いので、小さく刻んで刺身や煮つけにして食する。
 この魚、カタクチイワシ科で、毎年5月から7月にかけて産卵のために筑後川を上って来るところを捕獲する。そんなに珍しい魚だから、起源についてもいろいろな説がありそうだ。

親切な漁師

 時は1200年も前の平安時代。ある晴れた日の夕暮れ時だった。筑紫の国の青木島(現城島町)から対岸に渡る漁船に、このあたりではついぞ見かけない30歳くらいのお坊さんが乗っている。(写真は、獲れたてのエツ)
「今日はどげんしたこつか、小魚の1匹も獲れんかった」
 頭に捻り鉢巻の若い漁師が、舟の前方に乗っている旅の僧に愚痴をこぼした。
「そうでしたか、魚は獲れなかったですか。その上文無しの坊主まで運んだのでは、踏んだり蹴ったりですね」
 僧は、すまなさそうに若者に詫びた。
「そげなこつはなかですよ。俺がいらんこつば言うたけん、お坊さんに気ばつかわせてしもうて」
 川面での二人の会話は、初夏の川風のように爽やかだった。

 このお坊さんが青木の渡し場にやってきたのは昼過ぎだった。
「今日中に向こう岸の嶺(現佐賀県三根町)まで行かなければなりません。すまないが舟に乗せてくれまいか」
 お坊さんが頭を下げるが、船頭は身なりを見ただけで黙って向こうに行ってしまった。


エツ船(久留米市城島町)

「あのう、お坊さん。俺のボロ舟でよかったら、乗ってもよかよ」
 声をかけたのは、(おか)に上がったばかりの若い漁師だった。
「有り難い。だが、拙僧は銭を持っておらん」
「そんなの要らんよ。俺は渡し舟の船頭じゃなかけん」
 若者は、泊まり綱をはずすと手を差し伸べて、お坊さんを舟に乗せた。
「さあ行きますばい。少しばっか波がでてきたけん、しっかり掴まっておいてくださいよ」
 対岸まで10分ほどの行程である。
「ところで、お坊さんはどこの人?」
「ギィーコ、ギーコ」、若者は櫓をこぎながら、曰くありそうな僧に尋ねた。
「はい、拙僧は四国の讃岐(香川県)生まれで空海と申します。仏の教えを学ぶために唐の国(中国)に渡り、昨日日本に帰ってきたところです」
「それはご苦労なこつでしたね。それでこれからどちらまで?」
「はい、唐で学んだことを一刻も早く都で待っている弟子たちに伝えなければなりません。大宰府に立ち寄った後、すぐ京に向かいます」

葦の葉が魚に…

 間もなく舟が対岸の渡し場に着く頃、お坊さんが若者に声をかけた。
「助かりました」
「なあに、どうってことはなかですよ」
 若者が高笑いをすると、お坊さんも気が楽になったのか一緒になって笑った。
「親切なあなたに珍しい魚を呼んで進ぜよう」
「???」
 お坊さんは、いぶかる若者にお尻を向けて、葦の葉を5枚引き抜き膝に乗せた。そして何やら経を唱えた。しばらくして、今度は葦の葉を勢いよく大川に投げ入れ、さらに大きな声で経を唱えた。すると、葦の葉は体長20センチほどの銀色の魚に変身し、水中深く潜っていった。(写真は、筑後川の城島あたり)
「きれいな魚だったなあ。お坊さん、俺はあげな魚ば見たこつがなかですよ。何ちいう名前だ?」
「あれは、斉魚(えつ)といいます。拙僧が唐の国で修行しているとき、長江という大川の河口で見たもんのじゃが。やはり葦の葉が繁る頃、卵を産むために大勢の仲間と一緒に海から上ってきたんじゃ。今の魚も、今年は5匹じゃったが、来年はもっとたくさんの仲間を連れてここに戻ってくるじゃろう。不漁の時は、それを獲って暮らしの足しになさるがよかろう」
 舟から降り立ったお坊さんは、そのまま夕暮れ迫る北の山に向かって去って行った。(完)

 空海(弘法大師)が親切な若者の舟に乗せてもらった青木の渡しは、記念碑だけを残してすっかり姿を消した。漁船の掃除をしている年配の漁師さんに話しかけた。
「最近は、川でも海でも魚が獲れんごとなった。それに皆がゴミを捨てていくけん汚うて」。なるほど、葦林の中は空き缶やペットボトルが散乱している。これじゃ魚も住みにくかろう。
 青木中津大橋近くのお堂には、深々と編み笠を被った空海さんが、身の丈より長い錫杖を持ち、片手には斉魚を下げて立っておられる。最近では、筑後川も有明海も人間の勝手で魚が棲めなくなったとか。むかしの偉いお坊さんが恵んでくださった魚を、これ以上勝手に滅ぼす奴には今度は仏罰を覚悟してもらうからな。


大師堂

 改めて青木島の大師堂を訪ねたが、もぬけの殻だった。近くの交番で訊いたら、5年前に移転されたとか。中津大橋から南に下った四郎丸の交差点そばに、りっぱな大師堂が建っていた。借家住まいから解放された空海さん(弘法大師)の行脚姿が、少しばかり誇らしげに見えた。ここなら駐車場も立派だし、近くに来たらまた寄りますけん」と挨拶。「そうかいそうかい」と満足げなお大師さまでありました。(2011年7月16日)

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