死霊の盆踊り 米 1965年 92分 |
87年に我が国で突如として上映されて、話題になった問題作。いったいどうしてこんな下らない映画を上映することになったのか?。その経緯については、仕掛人である江戸木純氏の著書『地獄のシネバトル』(洋泉社刊)に詳しい。 《まず最大の疑問は、何であんなつまらない映画の権利を買ったか、だろう。 ライノとは『死霊の盆踊り』の発売元だ。往年のキッチュな音楽や映画の再発を主な事業にしている。私も昔からお世話になっている奇特な会社だ。 |
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そんなわけで、当時映画配給業務に従事していた江戸木氏は、ライノの巧みな戦略を我が国にも導入することを思いついた。しかし、その道のりは、決して楽なものではなかった。 《私はいくつかの雑誌でライノの作品を紹介してもらい、ホールを借りて上映イベントなども企画したが、1日の動員10人程度の惨澹たる結果で終わってしまった。その後も約半年間、私は手製の資料を作りセールスして回ったが、それらを販売しようとするメーカーは存在しなかった。 |
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《だが、世の中はそんなに甘くない。当選確実と言われていた正式参加は土壇場で、映画祭で上映するにはあまりに品格に欠けるという理由であえなく拒否されてしまった。しかし、我々はくじけなかった。というよりも、もはや後に引ける状況ではなかった。我々の連絡を監督のA・C・スティーブンは決定事項だと信じ込み、上映用のプリントもオーダーしてしまった。その上、映画祭上映を条件に、その後のビデオ発売はもちろん劇場公開までがとんとん拍子に決まってしまったばかりか、監督から直接、絶対に来日すると意気込んだレターが届いていたのだった。 こうしたゲリラ的宣伝活動が奏功して、『死霊の盆踊り』はこの規模の映画にしては大成功を収めた。宣伝にかかった経費は信じられないことに、監督の接待費まで含めても50万円にも満たなかったという。 《監督は気分を良くして帰国し、今でも『死霊の盆踊り』が映画祭正式参加作品であったと信じている。帰国後すぐ、彼は一冊のシナリオを送ってきた。その名も『死霊の盆踊りパート2』。まったく情けないほど同じプロット、同じコンセプトで、音楽だけが現代風にロックになっている。日本で投資家を探してくれというのだ。いかにバブル全盛期の日本といえどもそんな映画にお金を出すおめでたい人間などいなかったのはいうまでもない。彼は今でもこの件に関してときどき問い合わせをしてきて、私を悩ませてくれる》 なお、本作の原作&脚本は、かのエドワード・D・ウッド・Jr.であり、その方面からも語り草になっている。 |
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