私はかつてリチャード・チェイスの項でこのように書いた。
「この事件は教訓である。キチガイを野放しにしてはならない。社会のためにも、そして、彼のためにも」
チャールズ・ハッチャーの事件もまた、そんな教訓の一つである。彼は明らかに精神異常だったにも拘らず、繰り返し釈放されて、そのたびに人を殺めていたのだ。殺しの衝動を抑えることが出来なかったのだ。それは被害者にとっても、加害者にとっても不幸な出来事であった。
チャールズ・ハッチャーは1929年7月16日、ミズーリ州マウンド・シティに生まれた。父親はアルコール中毒の前科者だという。当然のことながら彼は虐待されて育った。そして、18歳の時に自動車泥棒で逮捕されて以来、ムショとシャバを行き来する生活が続いた。
ハッチャーが初めて人を殺めたのは1961年7月2日のことである。囚人仲間のジェリー・リー・サリントンを獄中のキッチンで強姦した後、刺し殺したのだ。しかし、十分な証拠がなかったために、その責任を問うことは出来なかった。
なお、この事件の後、ハッチャーは刑務所の精神科医に、自分には精神治療が必要である旨を申し出ている。ところが、医師は戯言として受け入れなかった。ハッチャーはこれまでに度々脱獄を企てていたので、信用されていなかったのだ。
かくして、人を殺めているにも拘らずお咎めなし、精神治療も受けることなく、ハッチャーは1963年4月に釈放された。
6年後の1969年8月29日、ハッチャーはサンフランシスコで6歳の少年を誘拐し、強姦した容疑で逮捕された。実は彼は既に7人ほど殺害していたのだが、そのことが発覚したのは後のことだ。この時点では誘拐及び強姦の容疑でのみ裁かれて、数々の精神鑑定により精神異常と診断された結果、その筋の施設に収容された。しかし、そこでも脱走や暴行を繰り返し、他の患者に危害が及ぶとしてサン・クエンティン州立刑務所に移送された。とにかく、手に負えない男だったようだ。
1972年には再び法廷に引き立てられて、翌4月には1年から終身の不定期刑が云い渡された。
「1年から終身」て。アバウトな。精神科医の裁量次第でどうにでもなる刑である。そして、実際にその通りになった。ハッチャーは「妄想型統合失調症」と診断されていたにも拘らず、1977年5月20に釈放されてしまうのだ。完治したとのお見立てがあったわけだが、それは大きな間違いだった。
1978年5月26日、ミズーリ州セントジョセフで4歳のエリック・クリスジェンが行方不明になり、数日後にミズーリ川沿いで遺体となって発見される事件が発生した。翌2月にメルヴィン・レイノルズという知的障害者が容疑者として逮捕され、終身刑を云い渡されたわけだが、実はこの件もハッチャーの仕業だった。彼の有罪が確定した翌日にレイノルズは釈放されている。
同年9月4日にハッチャーはネブラスカ州オマハで、16歳の少年に猥褻行為を強要したかどで逮捕され、翌年1月には早くも釈放されている。
その4ケ月後の1979年5月3日には7歳の少年の殺害未遂の容疑で逮捕され、精神病院に収容されるも、1年後には釈放されている。
その5ケ月後の1980年10月9日にはネブラスカ州リンカーンで、19歳の少年を強姦したかどで逮捕され、精神病院に収容されて、僅か21日で釈放されている。
このようにハッチャーは繰り返し野放しにされて、そのたびに社会は脅威に晒されて来たのである。私が云わんとしていることがお判りだろう。真に責めを負うべきなのはハッチャーではない。彼が抱える問題を軽視し続けた司法と精神科医たちなのだ。
1982年
7月29日、ミズーリ州セントジョセフで11歳のミッシェル・スティールの遺体が発見された。彼女は強姦された挙げ句に絞殺されていた。この件でようやくハッチャーが殺人容疑で逮捕され、1969年から続いた一連の殺人、計16件を自供したのである。
53歳にして初めて殺人容疑で裁かれたハッチャーは、死刑判決を望んでいたという。もう己れにうんざりしていたのだろう。ところが、実際の判決は終身刑だった。この期に及んでも司法は野獣を擁護したのだ。
かくなる上は自ら手を打つしかない。1984年12月7日、ハッチャーは独房内で首を吊ることによって、その因果な生涯にピリオドを打った。誰も止めてくれなかったのだ。思うに、彼もまた被害者だったのかも知れない。
(2009年4月24日/岸田裁月) |