1910年12月16日深夜、ハウンズディッチを巡回していた巡査たちが不審な音を耳にした。宝石店に隣接する建物が怪しい。ドアをノックすると、いきなり銃声が鳴り響いた。予期せぬ銃撃戦である。3人の巡査が死亡、2人が重傷を負った。応援に駆けつけた警官たちを尻目に犯人たちは逐電。建物の内部には掘削道具が残されていた。彼らは壁に穴を開けて隣の宝石店に侵入しようとしていたのだ。
トッテナム事件の項でも触れたが、1905年にロシア第1革命が失敗に終わると、多くのアナーキストがロンドンの貧民窟、イーストエンドに逃げ延びた。彼らは活動資金を得るために強盗を繰り返し、そのために帝都の治安は悪化の一途を辿っていたのだ。おそらく本件も、その凶悪さからして彼らの仕業だろう。
ロンドン警視庁がかねてから行方を追っていたのがピーター・ピアトコフ、通称「ペンキ屋のピーター」と呼ばれるリーダー格の男だった。トッテナム事件も本件もこの男が主犯と思われた。
年が開けた1911年1月2日、スコットランド・ヤードに有力なタレ込みがあった。シドニー・ストリート100番地に「ペンキ屋のピーター」とその一味が潜伏しているというのだ。時の内務大臣、ウィンストン・チャーチルの大号令により近衛兵による特別部隊が組織され、翌日の一斉検挙に備えて付近一帯は包囲された。
1911年1月3日、ピーターへの降伏の呼び掛けは夜明けと共に開始された。これに対して一味は銃撃で答えるばかりだ。付近の住人は夜のうちに密かに保護されていたが、アジトの女家主だけはまだだった。一味は彼女を人質に取り、逃げ出さないようにスカートを脱がせた。ところが、これが大誤算。女主人は隙を見てズロース姿で飛び出した。これを合図に一斉攻撃が始まり、やがて建物からは炎が燃え上がった。
警察が建物内部に入った時には、一味の2人は黒焦げになっていた。フリッツ・スヴァースとウィリアム・スコロフである。ところが、肝心のピーターの姿はどこにもない。まんまと逃げられてしまったのだ。地団駄を踏むチャーチルだったが、この包囲戦を機にアナーキストたちは弱体化し、治安も徐々に回復していったのだから良しとしよう。
ちなみに、本件の背景にあるアジトの密偵劇をモチーフにして製作されたのが、アルフレッド・ヒッチコック監督の映画『暗殺者の家』(1934)である。後にハリウッド資本で『知りすぎていた男』(1956)としてリメイクされている。
(2007年1月21日/岸田裁月)
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