展覧会の紹介

朝鮮王朝の美 2001年7月14日〜8月26日
道立近代美術館(中央区北1西17)
同9月19日〜11月11日
道立函館美術館(五稜郭町)
2002年2月19日〜3月31日
広島県立美術館
同4月9日〜5月19日
岐阜県美術館

 なんだか、すごくタイミング的に遅いような気もするけど、どうしても気になることがあるので、忘れないうちに書いておきたい。
 もちろん、個々の作品についてではない。そんなのは筆者の能力に余る。
 ただ、展覧会の組織の仕方などで、疑問というか、いくつか欠落があるように感じられて仕方なかったのだ。
 この展覧会をキュレーションした人は、筆者もよく知っているので、いささかやりづらいんだけど…。
 
 1.展覧会タイトル
 まず、朝鮮ではなく、フランスやイタリアだったりした場合のことを考えてみる。
 そうすると、或る国の14世紀から20世紀初頭までの美術、それも絵画から工芸までを一緒くたに紹介するということ自体が、かなり異例のことのように思えてくる。
 中世のタペストリーとロココと後期印象派とマイセン陶磁器とロダンが一緒に並んでいるような展覧会は、ちょっと想像できないだろう。
 しかし、これは、美術の世界においてはあまりなじみのない地域の紹介であるから、啓蒙的な意図があるということでやむをえまい。
 それよりもタイトルである。
 筆者は、てっきり両班(ヤンパン)と呼ばれた支配者たちの書などが集められているのだと思った。
 しかし、李氏朝鮮の美術をになっていたのは、どうもその一段下の士大夫と呼ばれる階級だったようである。
 もし、これが「フランス王朝の美」だったら、ベルサイユ宮殿とかルイ16世とかが想像されるだろう。決して百科全書派とか庶民向けの版画などではないだろう。
 だとしたら、当初函館美術館の日程表にあった「朝鮮王朝時代の美」のほうが、はるかに正確に展覧会の内容を伝えていたことになる。
 ただ、これではタイトルとして間延びした印象があるので、主催者が縮めたのではないだろうか。

 2.時代の変遷
 なによりも驚いたのは、説明パネルなどに時代感覚みたいなものがぜんぜん感じられないことであった。
 500年以上におよぶ長い時代である。最初から最後まで、絵画や陶器の様式がまったく同じであったということは考えられない。もし、変遷がなかったらなかったで、これまた特筆すべきことである。しかし、そうした、様式の変遷などにふれた文章はなかった。年表も、だれそれが死んだとか、そんなのばかりである。
 しかし、実際の展示品はほとんどが18世紀以降の新しいものなのである。
 これはたとえていえば、「江戸時代の美術」展で文化・文政以降のものばかり見せられているようなものだが、この事情も、単に古いものだからあまり残っていないのか(というほど古い時代でもないと思うんだが)、韓国側が貴重品ゆえに貸してくれなかったのか、あるいは秀吉の侵略で壊されてしまったのか、そこらへんの事情はとんとわからない。

 3.国際的背景
 これは図録にいくらか述べられているが、地理的条件からいって中国の圧倒的影響があったことは想像に難くないのに、この展覧会だけみていると、まるでまったく自律的に芸術が発達したかのようにすら感じられる。
 また、螺鈿の工芸品などは、日本からの影響があるようにしか筆者には見えないが、韓国人はそういうことは認めたくないのだろうな、たぶん。

 4.分野
 出品されたのは、白磁や文具、衣服を中心とする工芸品がなんと9割近くを占めている。残りが絵画と書であり、彫刻と版画は1点もない。これは、美術展としてはじつに異例のことであるが、そのことについての言及も筆者の目には入らなかった。
 たんに今回の展覧会にないだけなのか、それともこの時代に彫刻や版画が不振だったのか。
 日本でも彫刻は鎌倉時代を最後に長い不振の時代に入るとされている。ただ、それは「彫刻」という西洋流の範疇をなんとなく日本にあてはめた結果であって、人形などは地道につくられていた。また、江戸時代には円空や木喰らの活躍もあった。また朝鮮は仏教より儒教のほうが盛んであり、仏像彫刻が日本ほど行われなかったというのはなんとなく想像はできる。
 しかし、版画は日本では18世紀から興隆を迎えるのであって、どうして同時代の朝鮮の美術展に1点もないのか、そのあたりはよくわからない。 

 5.漢字の表記
 これには相当びっくりさせられた。いままで挙げてきたことは、あるいは筆者のないものねだりかもしれないのだが、この項では間違いを指摘します。
 ようするに、漢字の表記がまったくいいかげんなのだ。
 展示パネルの所蔵先の表記がみな
大韓民國●●蔵
 となっている。なぜ「国」をわざわざ古い漢字(以下、正字体とする)にして、「蔵」が新しいままなのか、理解に苦しむ。
 これだけではなく、「大學校」と「美術館」が同じ行にある例もいっぱいあった。「術」の正字体を知らないのだろうか。
 所蔵先は正字体だらけなのに、作品名はほとんどが新しい漢字である。しかし「靈壁園図」などというみっともない表記がある。「圖」という字を知らないのだろう。いや「靈」を「霊」と書くべきなのを忘れたのか。
 作者名はおおむね正字体。ただし「李繼〓(しめすへんに「古」)」の次が「柳徳章」となっている。
 ただし、これはこの展覧会に限ったことではなく、日本の美術界に通じる問題のような気がしないでもない。
 たとえば田中日佐夫著「日本の戦争画」は、第2次世界大戦中に描かれた戦争画の問題を追求した好著である。ただ、日本語の表記についていえば目も当てられない。新旧の漢字がごちゃまぜなのだ。
 もちろん、最近の美術関係の本でも、窪島誠一郎「無言館ノオト」や、保田與重郎文庫のように、漢字、仮名遣いともに正確な本もあるにはあるが…。
 文学や日本史の学術書では、正字体はすべて戦後の新字体にあらためるのが通例となっている。たとえば、志賀直哉の小説を引用する場合にいちいち正字体にはしない。もちろん仮名遣いも口語文なら新しいものにする。それどころか、近年出た夏目漱石の全集などは最初から新字体になっている。全集は文庫本などと違って研究者向きの面が強いから、そんなことしていいのか、と思うのだが、どだい今の日本人の大多数が読めないのである。くわえて、今のパソコンでは、出てこない正字体が多すぎる。
 美術業界の人も、きちんと読み書きできないのなら、漢字は原則新字体でいったほうがいいのではないか。それがいやなら、正字体で通せばいい。混在ははなはだ見苦しい。
 ―などと考えながら、展示室を出て図録を買ったら、レシートに
「チョウセンオオチョウノビ」
と印字されていた。おいおい、しっかりしてくれよー、ほんとに(^_^;)。

(2002年1月6日記す)

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