モーサヤ14章に引用されているイザヤ53章は主の愛を感じる。
口語訳聖書のイザヤ書よりも、モーサヤ書のイザヤ書のほうが胸が熱くなる。
内容は同じなはずなのに、なぜだろう。
イ)は、口語訳聖書、モ)は、モーサヤ書
01)イ)だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。
主の腕は、だれにあらわれたか。
モ)だれがわたしたちの告げたことを信じたか。
主の腕はだれに現されたか。
02)イ)彼は主の前に若木のように、
かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
われわれの慕うべき美しさもない。
モ)彼は主の前に、か弱い苗木のように、
また乾いた土から出る根のように育つ。
彼には見目の良さもなく、華麗さもない。
わたしたちが彼を見るときに、彼を慕うような美しさも彼にはない。
03)イ)彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。
われわれも彼を尊ばなかった。
モ)人々から侮られて捨てられている彼は悲しみの人で、悲哀を知っている。
そこでわたしたちは、彼から顔を背けるかのように振る舞った。
彼は侮られ、わたしたちは彼を尊ばなかった。
04)イ)まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
モ)まことに彼はわたしたちの悲哀を負い、
わたしたちの悲しみを担った。
ところがわたしたちは彼のことを、
打たれ、神に罰せられ、苦しめられているのだと受け止めた。
05)イ)しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
モ)しかし彼は、わたしたちの背きのために刺し貫かれ、
わたしたちの罪悪のために傷つけられた。
わたしたちの平安のために、懲らしめが彼に及んだ。
彼の鞭の打ち傷によって、わたしたちは癒されている。
06)イ)われわれはみな羊のように迷って、
おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、
彼の上におかれた。
モ)わたしたちは皆、羊のように迷って、
各々自分の道に向かって行った。
主はわたしたちすべての者の罪悪を彼に負わせられた。
07)イ)彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
口を開かなかった。
ほふり場にひかれて行く小羊のように、
また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
口を開かなかった。
モ)彼は虐げられ、苦しめられたが、
口を開かなかった。
彼は小羊のようにほふり場に引かれて行く。
毛を刈る者の前の物を言わない羊のように、
彼は口を開かなかった。
08)イ)彼は暴虐なさばきによって取り去られた。
その代の人のうち、だれが思ったであろうか、
彼はわが民のとがのために打たれて、
生けるものの地から断たれたのだと。
モ)彼は獄から連れ去られ、裁きから取り去られたが、
だれが彼の子孫であると名乗るだろうか。
なぜなら、彼は生きている者の地から絶たれたからである。
また、わたしの民の背きのために、彼は打たれたからである。
09)イ)彼は暴虐を行わず、
その口には偽りがなかったけれども、
その墓は悪しき者と共に設けられ、
その塚は悪をなす者と共にあった。
モ)また彼は、悪人とともにその墓を設け、
死んでは富裕な者とともにあった。
なぜなら、彼は決して悪を行わず、
その口には少しの欺きもなかったからである。
10)イ)しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、
主は彼を悩まされた。
彼が自分を、とがの供え物となすとき、
その子孫を見ることができ、
その命をながくすることができる。
かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
モ)それでも、彼を傷つけることは主の御心にかなっていた。
主は彼に苦痛を受けさせられた。
あなたが彼を罪のささげ物とするとき、
彼は自分の子孫を見てその命を延ばし、
主の御心は彼の手によって栄える。
11)イ)彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
モ)彼は自分自身の苦しみを知り、それに満足する。
彼の知識により、わたしの義にかなった僕は多くの者を義とするが、
それは、彼が彼らの罪悪を身に負うからである。
12)イ)それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした。
モ)それゆえ、わたしは彼に大いなる者とともに物を分かち取らせ、
得たものを強い者に分け与えよう。
彼が自分の魂を死に至るまで注いだからである。
彼は背く者たちとともに数えられ、
多くの者の罪を負い、
背く者たちのために執り成しをした。
私が特に気に入っているところは、次の所である。
4節 「まことに彼はわたしたちの悲哀を負い、わたしたちの悲しみを担った。
ところがわたしたちは彼のことを、打たれ、神に罰せられ、
苦しめられているのだと受け止めた。」
キリストの受難は、単に当時の権力者からの迫害だと、一般には
捉えられがちだが、実は、私達に対する主の贖いの御業であった。
11節 「彼は自分自身の苦しみを知り、それに満足する。」
キリストは苦しみを受けている最中も、それが全人類の幸福のために
なることを知って、喜びを感じていたということであろう。
日本語の場合は、間に翻訳が入っているので、かなり違って見えるが、
英語の場合は、大きな違いはないようである。違っている部分は次の通り。
9節 聖書のviolence(暴虐)は、モルモン書ではevil(悪)になっている。
11節 聖書のsee of the travail(苦しみにより見る)は、
モルモン書ではsee the travail(苦しみを知り)になっている。
参照「イザヤ書 英語版比較」
私が、モルモン書の方を気に入っているのは、日本語の翻訳によるところが
大きいようである。モルモン書の翻訳は、これがキリストの贖いについて、
書かれていることを前提として翻訳しているからであろう。
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