『南京事件の日々』 大月書店 ミニーボートリン日記
P18 (笠原教授が日記を要約した部分) 10月も末になると、上海戦域から鉄道で南京駅に送られてくる負傷兵の数がいよい よ増えるようになった。戦災で家を失った貧しい難民の群れが、簡単な寝具や生活 用品を背負ったり、食料をありったけ担いだりして、様々ないでたちで南京駅にたどり着 き、下関に作られた難民キャンプに収容された。多い日には1000人を超える難民が避 難してきた。
解 説 上海戦域からの難民は、10月末頃にはすでに南京に到着しているようです。つまり、 11月23日の中国側資料における「南京市の人口50万」には、上海方面からの難民 がすでに含まれていると考えてよいでしょう。
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ミニーボートリン日記 P33 12月4日 ユナイテッド・プレス(UP)[ アソシエイティド・プレス(AP)の誤り ]特派員のマクダニエル氏によれば、市の東側では数多くの美しい樹木が、砲撃の邪魔になるという理由で切り倒されてしまったそうだ。東門から湯山に至る間ははどこも無人村になっている。村人全員が立ち退きを強制され、いたるところで軍が防備を固めているのだ。
解 説 中国軍の焦土作戦が、南京城周辺だけではなく、主要道路沿いにおいても行われていたという資料になります。
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ミニーボートリン日記 P36 12月6日 UP特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、きのう句容にへ行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村人を一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ。まったくの焦土作戦だ。農民たちは城内に連れてこられるか、そうでなければ浦口経由で北方に追いやられている。
解 説 中国軍は焼き払う前に住民を避難させていたようです。当該地域の農民たちの大部分は、揚子江を渡るか、難民となって南京城内の安全区に留まるかしたようです。
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ミニーボートリン日記 P38 12月7日 城内にはいろいろな噂が飛び交っている。何千人という人々が南門から安全区に入ってきた。彼らの話によれば、五時までに立ち退くように警察から命令されており、それにしたがわなければ家は焼き払われ、スパイとみなされるというのであった。
解 説 これも焦土作戦により発生した難民です。何千人と言う表現からかなりの大規模であったと考えられます。南門付近は南京城攻防戦における激戦地になることが予想された地域で(実際に激戦だったが)、予め中国軍が住民を避難させていたということから、南京陥落時この区域に民間人はほとんど存在しなかったと考えてよいでしょう。
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ミニーボートリン日記 P40 12月8日 フランシス陳さんと楊師傳が校門の前に立って、避難民を世帯ごとにまとめて校内に誘導することになっている。地域住民は寄宿舎に入ってもらい、無錫などの都市からの避難民は中央棟に収容することにしている。地域住民の世帯には隣保館で生活することを許可しており、そこはもうすでにかなりいっぱいになっている。 きょうは遠くで砲声が聞こえるが、どうやら南の方角からのようだ。日本軍が南京に入るまであとどのくらいかかるのか予想がつかない。中国軍がここに封じ込められるのではないかと心配だ。 今夜は、初めての避難民を受け入れている。彼女たちが聞かせてくれる話は、なんと心の痛む話だろう。中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。避難民の多くは南門付近や市の南東部の人たちだ。
解 説 金陵女史文理学院の避難民受け入れは、12月8日からということでしょう。「隣保館」というのがどういう施設かはいまのところわかりません。文脈から考えると、大学構内ではなく隣接する施設のことだと思われますが確証はありません。
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ミニーボートリン日記 P41 12月9日 今夜は南京市の南西隅の空全体を火炎が照らしている。午後はほとんど、北西以外の全ての方角から濛々と煙が立ち昇っていた。中国軍のねらいは、すべての障害物、たとえば銃撃の邪魔になる物や、日本兵が待ち伏せしたり身を守るのに役立つ物を取り除くことなのだ。AP特派員のマクダニエルは、中国兵が灯油をかけて家に火をつけているところを目撃したと言っている。この二日間に大挙して城内に避難してきたのは、これら焼け出された人たちである。こうした作戦が仮に日本軍の入城を半日か一日遅らせるとしても、人々にこれほどの苦痛を与えてまでもする価値があるのか疑問だ。 〜中略〜 今夜はおそらく300人の避難民がキャンパスにいるものと思う。無錫からやってきた人もいれば、城外からの人、さらには近隣の人もいる。1500人がすでに聖経師資培訓学校[ 聖書講師養成学校 ]に避難している。 一時のラジオは、南京が攻略されたあとに平和が訪れる兆候について報じていた。わたしは、[ 日本軍から ]どんな要求が出されるものかと心配だ。 避難民の話は心が痛むものだ。今日、ある女性が、さめざめと泣きながら私のところへやってきた。話を聞くと、用事があって南京にきたのだが、彼女の12歳の娘は城門を通してもらえず、彼女のほうも、城門の外にいる娘のところへ行かせてもらえない、というのだ。娘は戦闘が最も激しく行われている光華門のあたりにいる。
解 説 ≪彼女の12歳の娘は城門を通してもらえず、彼女のほうも、城門の外にいる娘のところへ行かせてもらえない、というのだ。娘は戦闘が最も激しく行われている光華門のあたりにいる。≫ ■事情はともかく「城門が閉鎖」され通行ができなかったという事でしょう。
これらの資料から安全区に避難した住民の大部分が、もともと南京市の人口に含まれていた城内市民、城外区・郷区に住む南京市民だったことが分かります。
1、南京城の城門は12月9日以降は閉鎖されいる。 2、つまり、12月9日以降、城外からの避難民が大量に流入する事はありえない。 3、12月9日の段階で「300人収容」であるが、金陵女史文理学院は「最大で1万人程度」の難民を収容した。つまり大部分が、城門が閉鎖された後に安全区に非難してきたことになり、もともと南京城内に住んでいた市民だったいうことになる。
(『南京事件の日々』P38 ≪後日、実際には六つの建物に1万人以上を収容した≫とボートリンは記している)
つまり、上海方面から流入した難民は、数十万という数ではなく、多めに見積もっても数万程度と考えられます。
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