第参章 裏切りの鳳雛


 校庭は、異常な気配に包まれていた。今日の授業の一つ、体育である。普段は楽しいはずの授業風景が、緊張感に包まれている。
 今日は弘羅のクラスの体育教師が休みで、あるはずの無い2クラス合同授業が行われる事になった。しかも、男子の競技はサッカー、チーム分けは面倒だからと言う理由で各クラスごと。
 ここまで来れば、両者の間に緊張感がみなぎるのはほぼ当然とも言える。クラスメートが対抗意識を燃やしている中、弘羅はサッカーのルールブックを眺めていた。

「ふむ、蹴球か……。要するに蹴鞠の一種……」

 合っているような合っていないような、微妙な事を呟く弘羅。すでに何人かでポジションの事を話し合っている最中なのを見て取り、そこに近寄って行く。

「あのサッカー部の奴をマークし続けてれば……」
「いや、そうしたら今度はこっちが……。ああ、作戦がきまらねえ……」

 もはや作戦の事に話題が飛んでいるらしい。弘羅は主張するのも気の毒と諦めて、さっさと整列場に行く事にする。

「お願いしまーすっ!」

 頭を下げる両者の声には、どうしようも無いほどの気合がこもっていた。


 試合開始直後は、中盤でのボールの奪い合いになっていた。次から次へとめまぐるしく動くボールを観察しながら、少しづつ学習する弘羅。

(ふむ……。これが蹴球か。激しい競技なのだな……)

 一応反則行為の方は覚えていたが、具体的にどう動けば良いかまでは分かっていない弘羅だった。元々、集団で行う競技など初めての経験である。
 そこのところを踏まえて、弘羅は後方に下がっていた。右方向を守るディフェンダーの位置に立ち、行動を逐一観察していた。

(なるほど。要は敵から球を奪い取り、前に蹴り出せば良いのだな……)

 そのうちに、とうとう敵が攻め上がって来る。右ライン際を走ってくる生徒に向け、弘羅はゆっくりと動き始めた。


 ほとんど選手のいない相手側サイドを、サッカー部の山本は走っていた。
 中盤では選手の多さに圧倒されたものの、一度抜き出てしまえば後はこっちのものだ。何しろ、自分は部内でも一、ニを争うドリブラーである。走ってしまえばこっちのものだ。
 そう思っていた矢先、突然左側から影が現れた。待機していた相手のディフェンダーだろうか?

(一人で俺が止められると思ってるのか?)

 山本はそう思いながらスピードを上げるも、ディフェンダーは影のようにしっかりと食らい付いてくる。右に逃げればラインオーバー、左側にはマークがある以上、彼はもう前に走るしか選択肢が残されていなかった。後ろに下がるのは、ドリブラーとしてのプライドが許さない。

(こいつっ……。いいかげんにしやがれっ!)

 ボールを奪いに来る訳ではないが、行動を完全に制限してくるしつこいマークにいいかげん嫌気がさした頃、ペナルティエリア内に味方が走り込んでいるのが目に止まる。後は彼にパスを出せば、自分はお役御免だ。そう思い、大きくボールを蹴り出す。
 しかし、そのボールは飛ばなかった。


 少々普通より速い程度の速度で、弘羅はボールを持った男子生徒の道をふさいでいた。
 移動する方向に気を配り、必要最低限の体力消費で相手に併走する闇広野独特の移動手段を存分に活用しながら、相手の行動範囲を狭めて行く。
 そのうちに、男がボールを蹴り出した。併走されるのに嫌気が差したのだろうかと思ってちょっと横を見ると、ゴール際に入っている敵の生徒が目に止まる。

(後はあやつに任せようと言う腹か……。そうはさせん!)

 弘羅は意を決すると、パスを出すために少し蹴り出されたボールを右足ですくうようにして奪い取った。きょとんとしている男子生徒を尻目に、味方生徒を探す。すぐに、相手のゴールに向かっているような生徒の姿が目に止まった。

「……行くぞっ!」

 すくいあげたボールを、弘羅はボレーシュートの要領で前に蹴り出す。見た目的にはただのクリアだが、普通の人と彼とでは脚力が少々違った。
 ボレーシュートのように見える中段回し蹴りを受けたボールは、ハーフウェイラインまで地面と平行に飛び、ゴールキーパーの元まで到達する。
 常識を超越した脚力を目の当たりにし、敵はおろか味方さえも呆然としてしまっていた。すんでのところでボールはラインを割り、ゴールキックになる。

「……すまない。失敗してしまった」

 青い顔をして駆け寄ってきた生徒に謝る弘羅だったが、彼は弘羅の手をぐっと掴み、

「いや、もうここは良いから、前に出てくれ。その脚力なら得点できる」

 と、どこか希望に満ちた声で言った。

「……攻撃に回るのだな? 分かった」

 弘羅はどこか釈然としない顔でそう答えると、男と変わって前線に出て行く。ややあって、後方からボールが回ってきた。

(確か、これを足で保持しながら走って……)

 弘羅は先ほど読んだルールを思い出しながら、力強く一歩を踏み出す。始めての行為にも、体の方はしっかりとついていっている。

「うわっ!? 何だあいつ……。早いっ!?」

 後方から聞こえる、男子生徒の慌てた声。
 弘羅の足はさほど速くない。陸上競技を志しているわけではなかったため、直線的な速度はほとんど求めなかったのである。しかし、最高速に到達するまでの速度が尋常では無い。
 他の人々がまだ6分の力でしか走れない距離でも、すでに弘羅は最高速が出せるように訓練している。同時に走り出せば、まともな者が相手であればほぼ追いつけない。

(妨害を避けながら走るのが『どりぶる』と言うのであったな……。なら、この手を使うか!)

 目前に立ちふさがるディフェンダーたちと向かい合い、弘羅は少し考えてから行動に出た。前から突っ込んでくる一人目のディフェンダーの横をすり抜け、ボールを空中に蹴り上げて二人目のスライディングを防御する。そのまま落ちてきたボールを、弘羅は膝と足で保持し始めた。

「リフティング……? なめやがって!」

 弘羅の行動を余裕と解釈し、一斉に突っかかってくるディフェンダー三人。そのまま突き出された一人目の足の上をボールが逃げるように飛び、二人目のボディチェックを避けた弘羅の胸に当たる。
 胸に当たって跳ね返ったボールは三人目の顔のすぐ脇を通り過ぎ、振り返った瞬間にはもうそれを保持する弘羅の背中があった。

「……り、リフティングで抜かれた……」

 どうしようもない現実を悟り、三人が一斉にうなだれる。すぐに気を取りなおして追いかけるも、弘羅との距離はあまりに遠い。

(案外、ぶっつけでも上手くいくな……。昔取った杵柄とでもいう所か)

 後方から来る足音を聞きながら、弘羅は上手く行ったことに安堵の息を吐いていた。確かに、弘羅はサッカーの経験はない。しかし、小さな頃は山林の中で同い年ぐらいの子供たちとよく蹴鞠をして遊んでいたのである。
 少々の違いはあれど、蹴鞠とサッカーには似ている部分や、応用出来る技術も多い。かつて蹴鞠の上足と呼ばれた経歴が、今の弘羅のプレイを支えていた。
 三人がかりで止まらなかったものが、一人でどうにか出来るはずもない。次から次へと蹴鞠の技術で防御を切り崩し、もはや弘羅の前にはキーパーのみ。

(確か、最後は蹴り込まないと反則になるのだったな……。よし!)

 弘羅は意を決すると、踵を使ってボールを高く蹴り上げる。思わず飛び出してしまったキーパーをすり抜け、腰程度の高さにあるボールを思いっきり蹴った。もはや止める者のいないボールは、当然のようにネットに吸い込まれる。
 リフティングからのボレーシュートと言う実に見せ場を心得た技(実際は蹴鞠の応用で、やぶれかぶれなのだが)での得点に、思わず沸き上がる味方陣営。

(あれほどまでに盛りあがって……。蹴球とは、気苦労の多い競技だ。まさかこれほどまで蹴鞠の業を使うとは……)

 弘羅が使っていたのは、彼らが私的に楽しんでいた蹴鞠の中でも規約違反に属する技である。そんな物を連続して使わなければいけない気苦労に、弘羅は内心ため息をついた。


「なあ悠久山、バスケでもやりに行かないか?」
「篭球か……。分かった、すぐに行く」

 昼休みの教室。守りの護符を渡せないならと対策を講じた弘羅は、最近他の男子生徒たちと遊んでいる事が多い。本来なら常にみのりを護衛しなければいけない立場だが、

「お前は人の目から見れば一生徒だ。一人の人間を構い過ぎるのは良く無い。他人とも付き合え」

 と言う凌鬼のアドバイスから、そこそこ男子生徒陣とも話したり、昼休みに体を動かしたりしている。中々新鮮な行動だけに、最近は学校に来る事自体が楽しくなってきていた。もっとも、相変わらず英語には拒否反応が出ているが。

(まあ、さすがにあの連中ももう学校では仕掛けて来ないだろう。俺が守っている事を知っているし……)

 今まで数えるのも面倒なほどに刺客を退けている以上、今度は相手も趣向を凝らさなくてはみのりを手に入れられないと言う事を把握したはずである。弘羅がそこまで遊ぶ事が出来るのには、そんな事情もあった。もっとも、不安が無いわけでは無い。

(瑞鳳め……。何を考えている?)

 今のところ、一番彼を悩ませているのは同じ闇広野の仲間、瑞鳳の事だった。一体何故かは知らないが、彼は自分に恨みを持っている。任務中であるにもかかわらず、みずちをけしかけてきたのだ。友好的であるはずがない。

(元々、あいつは心根に疚しい所があったからな……。凄まじき技が泣いている。しかし、それが敵に回るとなれば……)

 男子生徒を追いかけながらそう思う弘羅の背筋に、一筋冷たい汗が流れ落ちる。馴染み深いが慣れもしないこの感覚に、弘羅は思わず肩をすくめた。

「悠久山! 早く行こうぜ!」

 もう少しこの異常な気配の正体を探っていたかったが、彼をせかすように男子生徒の声がかかる。

「分かっている! 少し待っていてくれ!」

 弘羅はそういうと、足早に教室を後にした。その反対側で、何も言わずにみのりが校庭を見ている。

「……どうしたの、ぼーっとして?」

 貴子が尋ねると、みのりははっと顔を回して、

「えっ? 私、ぼーっとしてた?」

 と、茫然自失状態から今まさに帰ってきたような表情で尋ね返す。そんな調子は今でこそさほど珍しくはないものの、過去の彼女を知っている人からすれば信じられないものであった。そういう行動は普通にあるだけに、気がつきにくい些細な変化である。

「そんな風にちょっと考え込むようになったのって、新学期始まってからだよね……」

 もはや処置無しとでも言うかのようにため息をつきながら肩をすくめ、貴子が言う。彼女が少々変わったのは、たしかにその辺りからだ。

「そうかな? 別に普通だと思うんだけど……」

 そう答えるみのりの表情は、すでにいつものものだ。見ている限り確かに普通通りだが、何かが違う。何かがほんの少しづつみのりを、いやこのクラス全体を変えている。
 悠久山慈護目。この変革の中心に、あの転校生がいるのはもはや明らかだ。

(よくよく考えてみれば、おかしな話よね。何であんな非常識な人が、ここにこれたんだろ……)

 貴子は当然の如く沸きあがり、なおかつ答えの出ない疑問に首を捻っていた。


(今日一日何も無し、か。しかし、ここまで静かなのは何故だ……?)

 授業をつつがなく終え、帰り支度をしながら考える弘羅。ここ最近の一週間、宗教団体が一度も攻めてきていない。たとえ弘羅が守りに入っていたとしても、それは奇妙極まりない。
 みのりは彼らにとって、いわば自らの神を現臨させるための器なのである。そんな喉から手が出そうなほどに欲しい物件を、すっぱりと諦められるはずがない。だとすれば、考えられる事は一つ。それぞれが、作戦を練っている。

(しかし、明日も無事と言う保証はない。気を引き締めねば……)

 だからこそ、弘羅の辞書に油断の二字はない。むしろ、この長い時間を利用して色々な防護手段を考えるに至っていた。生真面目が過ぎると言えばそれまでだが、それこそが弘羅の持ち味なのである。
 そして最後の仏教哲学書を鞄にしまい込み、立ち上がろうとして再び座り込む。そんな彼の頭の上を、黒いものが通り過ぎた。

「誰だ、こんな悪質ないたずらを……」

 まだHRの途中だった若い教師は、そう言って弘羅の方へと近寄ってくる。そして彼の足元でうごめく物を見た瞬間、温和そうな顔に恐怖が張りつけられた。

「へ、蛇?」

 素っ頓狂な声を上げる教師につられ、周囲の生徒たちも慌ててそちらを見る。たしかに、彼の足元には墨を塗ったかのように真っ黒い蛇がのたくっていた。とたんに、教室の中に悲鳴が満ちる。
 女生徒が金切り声を上げる中、弘羅は自分の足元にいるそれをじっと眺めていた。黒一色で構成された、まるで影のような蛇。
 その姿を目の当たりにして、弘羅は瞬時にこれが誰の仕業であるかを悟った。

「……瑞鳳っ!」

 声を荒げ、勢い良く立ち上がる。右足に霊力をまとわせて踏み付けると、蛇は小さなものが弾けるような音を立てて消えうせる。蛇が自然のものではなく、霊力によって生み出された証拠だ。

「さすがは山育ちだよな。あの蛇を平然と……」

 みずちの正体が式神、つまりは霊力による不確かな存在だとは露知らぬ男子生徒は、平然と蛇を踏みつけた弘羅を賞賛する。

「……瑞鳳?」

 弘羅の口をついて出た聞き慣れない単語に、みのりは首を傾げていた。


 教室を飛び出した弘羅は、各教室の様子に耳を済ませる。悲鳴のようなものが聞こえる事から、どうやら全ての教室でみずちを暴れさせたようだ。

(あいつめ……。何を考えている?) 

 内心苛立ちを感じながら、廊下を駆ける。廊下にぽつぽつとみずちが配置されていたが、攻撃を仕掛けてこない以上気にする必要もない。

(むしろ、誘い込もうとしているのか……? 上等だ!)

 道しるべの如く置かれたみずちの指し示す通りに学校を駆け、屋上へと上がる。いつもは黒一色の服装に身を包んだ凌鬼が待つ場所には、紫紺の法衣をまとった筋肉質の影が立っている。

「遅かったな、弘羅。もう少しかかるようであればみずちを解き放っていたところだ」

 僧侶然とした男はそう言うと、手にした錫杖を足下に打ち付ける。付けられた金属の輪が、涼やかな音色を立てた。

「瑞鳳……。仕努僧(しどそう)たるお前が、何故此処にいる? 任を受け下界に降りるのは、達行僧のみと知っての狼藉か」

 弘羅はそう言って、目の前の男に冷ややかな視線を送る。両手はすでに開いており、いつでも化を呼び出せる構え。

「そう、確かに俺は仕努僧だ……。霊力を操り、神仏の御心を知ろうと努力を重ねてきた」

 瑞鳳はそう言って、錫杖を構える。絶えず細やかな音が聞こえるのは、その手が怒りに震えるせいか。

「だが! 俺が十数年かけて努力してきた所を、お前は何の苦労もなしに上ってきた! 本来ならば、俺が武家集に上がってしかるべきなのに!」

 嘘偽りなどかけらもない、本気の怒号。弘羅はそれを、冷ややかな目で見つめている。

「だから、証明してやるのさ。寄り代の者は、俺が護衛するのがふさわしい。貴様ごとき新参の若造が、守れる代物ではないということをなっ!」

 瑞鳳の声は、もはや正常な響きを持っていなかった。そこから聞き取れるのは、明確な怒りと殺意だけ。それを見て取り、弘羅は深いため息一つ。

「結局の所、逆恨みと向上欲か……。いいだろう! その業、この俺が払ってやる!」

 言い捨てて、両手を組み合わせる弘羅。瑞鳳も動き出し、錫杖を振りかざす。直線的な一撃を難なく避け、距離を開ける。

「封!」

 空気を切り裂く、裂帛の呼気。弘羅の一声は周囲に波紋のような力を広げ、やがてそれは学校を覆い尽くし、平面から立体的に立ち上がった。

「結界か……。いつの間に仕込んだ?」

 錫杖を弄びながら尋ねる瑞鳳に、弘羅はにこりともせず、

「守護の護符を渡せないなら、この学校を要塞化するほか方法はない。凌鬼先輩に手伝ってもらって四日前から配置済みだ」

 と言いつつ、両手で結んだ印をめまぐるしく変えてゆく。瑞鳳はそれを見て取るや、地面に錫杖を打ち付けた。

「みずち!」

 呼び声に答え、瑞鳳の影から無数の黒蛇が踊る。来る間に召還されていた物すべてを集めたのだろう。それに噛まれれば、まず助からない。一匹でも難儀な代物が、四方八方から弘羅に襲いかかった。
 にやりと笑った瑞鳳の笑みが、瞬時に怪訝な物へと変わる。群がっていたみずちが、白い何かにはたき落とされて次々に消えてゆく。

「この程度で、俺を止められると思ったか?」

 にこりともせずにそう告げる弘羅の肩には、甲殻状の棘を生やしたイタチ――風化の姿があった。

「霊力によって自らの体に憑依させた妖怪を操る化術……。確かに、なかなかの切れ味。だが!」

 瑞鳳の声と共に、その錫杖から奇怪な影が走る。肩の風化をけしかける弘羅。意に従い弾丸となって突き進む風化が、影にあっさりと絡め取られた。

「闇撫(やみなで)?」

 弘羅の声に、初めて驚きの感情が交じる。飼い慣らすことはできないとされる、何もかもを食らいつくす口だけの存在。

「たとえ風だろうと、こいつには勝てまい! これでおまえの力は通じなくなったな」

 勝ち誇ったように言う瑞鳳。闇撫に絡め取られて動けない風化と、その上でまた獲物を求め弘羅へと近寄る闇撫。

「……そうかな?」

 しかし、弘羅の表情にはまだ余裕があった。屋上の手すりを飛び越え、何を思ったかそのまま校庭の方へと身を躍らせる。

「血迷ったかあっ!」

 予想外の行動に声を荒げる瑞鳳。空中で印を結び、弘羅は壁を蹴って方向を変える。
 その先にあるのは――もうすぐ使う予定でもあるのか、きれいな水の張られたプール。

「風化退き異界に眠る。手を代わりて来たれ! 水化、潤(すいけ じゅん)!」

 声に合わせ、水面が盛り上がった。意志を持ったかのように飛び上がった水の流れが、弘羅を受け止め自分の領地――プールの方へと導く。
 闇撫がそれを阻もうとするも、それを押さえるかのように飛び出した水の槍が黒い霞のような体にめり込み、消滅させる。

「闇撫は、影に潜むもの……。光を跳ね返し、影を造らぬ水の内には、存在する事も出来まい」

 にこりともせずに言う弘羅の左足には、二股に分かれた尻尾を生やした蛙がしがみついている。そのまま水に乗って屋上に到着し、何十本もの水激を瑞鳳に向けて放つ。
 瑞鳳はその様子を見て取るや、持っていた錫杖を振り回して水雷を受け止める。

「我が身に宿り、かの地に降り、その力振りいて敵を滅せよ! 汝が御名、毘沙門天!」

 同時に唱えていた口結の内容に、弘羅の顔色が変わった。慌てて残りの水をぶちまけ、屋上に立つ。
 先程までの物に数倍するその一撃を、瑞鳳は錫杖の一撃で粉砕する。その全身から立ち上る霊力こそ消耗しているように見えるが、代わりに異質な力が彼の体を覆っていた。

「まさか、これほどまでに素早く神降ろしを行うとは……」

 耐えがたい恐怖を隠しつつ、呟く弘羅。
 式神と並んで闇広野の人間が得意とする呪法の神降ろしは、霊力によって一時的に神を現世に招き、その力を持って様々な事を行うと言うものだ。
 比類なき力を得られるものと思われがちだが、神としての力が強ければ強いほど、その消耗も早まる。要は諸刃の剣なのだ。

「毘沙門天を降臨出来るのは、俺の体でも3分が限界……。しかし、それだけあれば十分!」

 瑞鳳はそう言うと、凄まじい勢いで突っ込んできた。先ほどまでとは比べ物にならない、まるで風のような移動。突き出された錫杖の一撃を慌てて避ける弘羅。

「水化退き異界に眠る。手を代わりて……」

 次々に繰り出される錫杖の連激を避けながら、必死に口結を唱える弘羅。水化は水がなければその実力を発揮できないのだ。

「切替える暇は与えん! このまま砕け散るが良い!」

 しかし、それは瑞鳳も分かっているようだった。次々と錫杖を繰り出すのは、弘羅に口結を唱えさせないため。

「……ちっ! 水化っ!」

 弘羅は意を決し、左足を僅かに前に出す。つんのめったような体勢になり、当然瑞鳳の錫杖もそこを狙う。
 しかし、弘羅はその体勢から引っ張られるかのような急加速を見せた。瑞鳳の脇をすり抜け、屋上を滑る。
 その左足には、僅かな水溜りを次々に飛び回る水化の姿があった。

「始めから、それが狙いかっ!」

 瑞鳳は吼えるように言うと、一足飛びで彼に迫る。弘羅はそれを確認すると、右足で床を蹴った。左足一本で滑っていた関係上斜めに上昇し、そのまま金網を飛び越える。

「逃がさんっ!」

 瑞鳳は焦っていた。この場で捕まえなくては、時間が来てしまう。
 神降ろしの弱点は、術者の消耗が大き過ぎる事。故に、神が降りているうちに勝負をつけるのが慣用とされる。瑞鳳もその例に漏れず、弘羅の背中に向けて錫杖を突き出し、着ていた制服に輪を引っ掛ける。
 水化がもたらす僅かな水を足場変わりにして校舎を駆け下りる弘羅と、途中で振り飛ばされる瑞鳳。それでも二階部分に錫杖を打ち当て、そこで衝撃を吸収し着地する。

「止めだっ!」

 地面に足をつけるや、一気に間合いを詰める瑞鳳。弘羅もそれを読んでいたらしく、僅かに離れている間に印を結ぶ。

「水化退き異界に眠る。手を代わりて来たれ! 壁化、楯(へきけ、じゅん)!」

 早口でそう言って、胸を張る。胸の辺りから飛び出した黒いものが地面にしみ込み、見る間に土の壁を作り出した。

「土の性を得て具現化した霊力の壁かっ! だが、この程度でっ!」

 瑞鳳はそう言うと、次々に錫杖を振るう。神の力を加えたその破壊力は凄まじく、あっという間に土の壁は削り取られ、周囲に溶け消えた。

「もらった!」

 瑞鳳は声を上げ、無防備な弘羅の胸に錫杖を繰り出す。もはや抵抗する力の失せた弘羅が、その一撃を受けて絶命する様を脳裏に描く瑞鳳。
 しかし、異変はむしろ瑞鳳に起こった。どこからか生まれた銀色の何かが、胸を貫いている。
 それは、両手を会わせた弘羅の拳から生えた物だった。

「そ、それ……は……?」

 口から血の塊を吐きながら尋ねる瑞鳳。

「刃化、刹(じんけ、せつ)常日頃より身にまとう、我が切り札よ」

 にこりともせずに言う弘羅。止めを刺したと言うのに、その表情からは油断と言う物が見えない。

「瑞鳳。確かに、霊力の量や技では、俺よりお前の方が優れているだろう。だが、おまえは」

 そこまで言った所で、瑞鳳が手を出して遮る。もはや、その体からは毘沙門天の力も、霊力も感じられない。

「分かっている……。心の甘さが招く油断、そして驕り……。俺の心は、戦う者として持ち合わせてはいけない迷いを持っている。それが故に……。この様だ……」

 瑞鳳はそう言って、錫杖にすがった。もはやいつ死んでもおかしくない状況だが、それでも彼は倒れようとしなかった。

「気をつけよ……。寄り代の者は、我々が考えているよりも多くの門徒に狙われている……」

 そこまで言うと、瑞鳳は前方向に倒れた。うつぶせに倒れ、事切れた瑞鳳を仰向けにし、両目を閉じてやる。

「……眠るが良い、瑞鳳よ。願わくば、その魂が高天原にあらんことを……」

 弘羅はそう言うと、その横に静かに立った。

「壁化退き異界に眠る。手を代わりて来たれ……。炎化、轟」

 静かに口結を唱えると、右肩から炎が舞う。その炎が静かに瑞鳳を焼き尽くすまで、弘羅はじっとそこに佇んでいた。

(……さて……)

 瑞鳳の火葬を終え、もはや消えうせた結界の様子を確認すると、弘羅はきびずを返す。
 その背中に、見知った影があった。

「悠久山、君……?」

 二つの鞄を持ったみのりが、呆然と弘羅に向かって呟く。
 弘羅は何も言う事ができず、その場に佇むだけだった……。


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