伝説紀行 大人形と大提灯 みやま市(瀬高町) 古賀 勝作


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作:古賀 勝

第338話 2008年08月03日版
再編:2018.07.01

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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢(とし)居所(いばしょ)なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。

ウウ人形の股くぐり

みやま市瀬高町


柳川藩史

 

 瀬高(現みやま市)の八坂神社では、毎年8月24日から25日にかけて“ウウ人形の股くぐり”の神事が執り行われる。地元の方言では「大きい」ことを「ウウ」と言うことから、「ウウにんぎょうのまたくぐり」となる。人形の股を潜ると無病息災が叶えられるとのこと。
 人形は2体で、向かって右側が八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)(源義家)、左には安倍貞任(あべのさだとう)(1年交代で宗任)が飾られる。義家は平安時代に武家社会の基礎を築いた人物で、源頼朝・義経兄弟の先祖としても知られる。一方の安倍貞任・宗任兄弟は、陸奥国(むつのくに)の豪族で、「前九年の役」で義家に滅ぼされた武者である。
 敵味方であったはずの両者が、1000年の時を経て、筑後の瀬高荘(せたかのしょう)上庄(かみのしょう)で仲良く並ぶのはどういうことか。祭りの由来を、当番の若衆に訊いてみた。

“大提灯”の由来

 時は平安時代(1150年頃)。上庄(かみのしょう)の矢部川縁に、三郎兵衛という男が住んでいた。ある日、庄の(おさ)の遣いがやってきて、修験者2人の世話をせよと言いつけた。家族が雑魚寝同然の狭い家に、更に男2人は無理だと思ったが断ることはできない。
 やってきたのは、身の丈6尺(180a)もありそうな男が2人、年齢のころなら30歳半ばか。
「我れは藤原中次と申す。これなるは弟の重国である。よろしく頼む」と口上を述べただけで、すぐに横になって(いびき)をかき始めた。弟も負けじと目を(つむ)った。


写真は、瀬高の八坂神社

 夜になって三郎兵衛が尋ねた。
「背負ってこられたあれなる(おい)には、いったい何が?」
 兄の中次が答えた。
「この頃の都は、えろう平家さんが強うなりましてな。私ら藤原族は肩身の狭いことばかりだす。しかも私ら兄弟にはあらぬ疑いまでかけられてしもうて。兄弟して都を脱することにしましたのや。だが心配なんは祇園さん(八坂神社)のこと。願い出ましてご分神をいただくことにしました。(おい)の中におらしゃるは、もったいなくも、祇園の宮さんであられます」
 
流暢な京言葉であった。


写真は、京都の八坂神社正面

「してまたどうして、こげん遠か上庄までおいでなさったので?」
「上庄は、太宰少弐藤原俊忠さんの家領ですやろ。ここなら平家の追討もままなるまいと踏んだわけだす。迷惑でっしゃろが、しばらくの間匿ってくだされ」

 しばらくのつもりが、いつしか兄弟は上庄に居付いてしまった。彼らが命より大切だと崇める祇園宮は、川岸に祠を建ててお祭りすることになった。
 1年たって梅雨の頃、矢部川上流に激しい雨が降り、堤防は決壊し、村中が水浸しになった。
「大変だ、祇園さまが!」
 重国が、体に似合わず泣きべそをかきながら駆け込んできた。岸辺の祠に安置された祇園さまが、祠ごと大水に流されたというのだ。既に陽は西に傾きつつある。
 三郎兵衛は、雨傘1本と提灯を持って川岸を走った。3キロ行ったところ(現三橋町棚町)で、流木に引っかかっている祠を見つけた。陽が落ちて水嵩もはっきりしないなか、提灯の灯りを頼りに傘の柄で祠を引き寄せた。中の御神体は無事であり、追いかけてきた兄弟も涙を流して喜んだ。
 村人は、三郎兵衛が祠を引き揚げる際に破れてしまった提灯を因んで、年に1度の祇園祭時期に張り替えて玄関先に吊るし、神さまの“お旅”をお迎えするようになったんだと。写真は、清水山から望む瀬高町の全貌。
 大提灯の編み目は三郎兵衛の提灯の破れを表し、提灯の上部の短冊は破れ傘をイメージしたもの。なお、2008年度の大提灯の絵柄は、太田道灌(おおたどうかん)でした。提灯の高さは2b。

荘園:奈良時代から室町時代にわたる土地の私有制。平安時代地方豪族は、私領を中央の権門勢家に名義上寄進して、その保護を受けた。
瀬高荘:領域が瀬高町・大和町・三橋町にまたがる大荘園で、大治6(1131)年、矢部川を挟んで上庄・下庄に分割された。
笈(おい):修験者などが仏具・衣服・食器などを入れて背負う箱。

股くぐりの由来

 時代は一挙に500年ほど下って。所は同じ筑後の上庄である。関ヶ原の戦い(1600年)で、藩主立花宗茂が西軍に味方したことから、領民の運命まで変えられれることになった。徳川家康によって領地は召し上げられ軟禁の身に。代わりに筑後国藩主に任じられた田中吉政も、20年後には世継ぎ消滅ということで再び立花宗茂が藩主の座に着いた。しかし、2度目の領土は矢部川以南の半分だけに削られた。


大人形の股くぐり

「又左衛門はおるか」 宗茂が再び柳川城に入った翌年、上庄の大庄屋屋敷に郡奉行のだみ声が響いた。慌てて出迎えた又左衛門に、「実はな、殿から重大なことを仰せつかって参った」と。
「・・・・・・」
「殿は、荒れ果てた当地の祇園社を再興せよと・・・」
「どうしてまた?お城から遠い場所の神さんのことまで」

 奉行の話だと、宗茂が流された奥州棚倉で悶々としている頃、不思議な夢をみた。いつの間にか自分が八幡太郎義家になり代わり、合戦の相手が陸奥国の安倍貞任なのだ。よくよく相手を観察すると、貞任であるはずの相手が徳川家康のようでもある。徳川の大軍の前に絶体絶命の義家軍だった。そんな時、仲裁に入ったのが、柳川で信仰していた上庄の祇園大明神であった。
「ありがたや、祇園の神よ」
 宗茂は、恩を忘れまいと心に刻んで、柳川城に帰ってきた。そして翌年には、郡奉行に命じての祇園社復興にかかったのである。こうして、現在の八坂神社の形が出来上がった。
「祇園社の祭りの主人公は、八幡太郎と安部貞任(の人形)でなければならぬ。2体の人形の間には、殿の危機を救い賜うた祇園宮を据えよ」
 郡奉行は、藩主の意向だと称して、祭りの内容にまで口を出した。(完)

 この時からである、八坂神社の祭礼に八幡太郎と安倍貞任、その中間に祇園宮のお社が飾られるようになったのは。いつの頃からか、里人たちは、「二つのウウ(大)人形の股ばくぐると、藩主さまのごつ、よかこつがあるげな。病気ばせんごつなるかも」と、競って人形の股くぐりをするようになった。
 瀬高の八坂神社の祭礼(8月24日)に初めてでかけた。正面の小屋に置かれた、背丈が2bはあろうかと思えるウウ人形にまず圧倒される。「24日の深夜には、人形は小屋をでて、池の傍の高台に登り、そこでまた氏子たちの股くぐりが続きます」とは、例の説明役若衆。
 ウウ(大)提灯は、小屋の隣の展示室に飾ってあった。「祭りを演出する大提灯は、毎年張替え、絵柄も書き換えます。8月21日には、『提灯揃え』という献灯がなされ、灯りのついた絵模様の提灯を先頭に、村中を練り歩くのです。「見応えがありますからぜひ来年来てください」とも、若衆が言い足した。
 荘園時代の名称をそのまま現代に引き継ぐ
瀬高荘(せたかのしょう)上庄(かみのしょう)は、それ自体が貴重な文化遺産である。町村合併等で努々(ゆめゆめ)粗末にせぬよう祈るのみ。
 それにしても、上庄の祇園社(八坂神社)の生い立ちと、中興を果たした柳川藩主の祭りを、500年の時の隔て融合させた先人の企画力に脱帽させられた。

八幡太郎義家:平安後期の武将。源頼義の子。八幡太郎ともいう。“前九年の役”で父に従い活躍。後に、陸奥守兼鎮守府将軍となり、“後九年の役”を鎮定。東国に勢力を確立。
1098年、武士としてはじめて院に昇殿が許された。(武士社会の草創期)

安倍貞任(1019〜62):平安中期の陸奥の豪族。父頼時と前九年の役を起こしたが厨川柵(くりやがわのさく)の戦いに敗れ、斬首された。

安倍宗任(あべのむねとう):貞任の弟。前九年の役に加わったが降伏して伊豫国に配流。後に大宰府に移された間、源義家に仕えた。

祇園社:京都八坂神社のこと。上庄の祇園社はその分社。

前九年の役:(1051〜62)陸奥の強力な豪族安倍氏は、貞任・宗任兄弟を擁して頼義(頼信の子・義家の父)と戦う。頼義は義家とともに、出羽豪族清原氏の助けを得て安倍氏を滅ぼした。

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