第9部 三田尻にて

勝坂峠
 夜明け前に吉田屋を出て、萩往還沿いに出る頃には陽も昇り、道端の川底から吹き上げる風が冷たかった。六十歳を超えた望東尼には、山坂を越える6里の一人旅は辛すぎる。
 萩往還は、日本海側の萩城を起点として、瀬戸内海の三田尻まで、ほぼ直線的に結ばれている。この道は、大名行列だけではなく、一般庶民にとっても、「陰陽連絡道」として重要な役割を果たしてきた。
 往還を行き交う人々も、商人風であったり武士であったり、百姓や遊び人風まで様々である。一里塚や茶店などもそれなりに整備されている。
 3里ほど歩くと、景勝地の鳴滝に着いた。そこで疲れをとっている間も、日暮れが気になる。途中いくつかの峠道を越えるときなど、足が重くて道ばたに座り込むこともしばしば。座り込んでいるところを、通りがかりの百姓が、荷車に乗せてくれた。
 百姓と別れた後は、また一人旅になる。ここで立ち止まったのでは、天満宮まで行き着くことなどおぼつかない。気持ちを高めて、また歩き出した。


萩往還案内図(防府天満宮前)

 水分が欲しいのだが、次の茶店がなかなか近づかない。そんな時は、道端を流れる小川の水がありがたかった。老体を心配してくれて、道中の話し相手をしてくれる娘に手を取ってもらうこともあった。
 次の峠道にさしかかったときなど、追い越してくる屈強な男に「大丈夫かい」と声をかけられた。「松崎の天神さま(防府天満宮)まであとどのくらい?」。力ない声で尋ねると、「三里ほどかな」。男は、「俺は、もとは侍だったが、今は浪人」だと断りながら、手を引いてくれた。
「あんたはお坊さんらしいが、その言葉だと地のもんじゃないね」と、男が問うた。「筑前の出ですよ。生業は歌を詠むことですがね。見ての通り、仏に仕える身ながら、なかなか俗世とも縁が切れなくて…」
 男との会話も長くは続かず、分かれ道が来たところで、別の方に走り去った。再び一人旅に戻ると、両の足が絡まって先に進まなくなった。泣きたくなってしゃがみ込んだ途端、目の前が霞んでしまった。そんな時、なぜか福岡城下の街並みや平尾山荘が目に浮かんだ。「今頃、野村本家は取り潰しになったのだろうか。早く帰って、私がなんとかしなければ」と、気持ちが空回りする。考えることは、幼い頃の兄弟喧嘩や塾の師に叱られたことなど、遠い昔のことばかりである。

天神詣で


防府天満宮

「気がつかれましたか?」
 優しい女の声で目が覚めた。だが、声をかけた人が誰だか見当がつかない。
「荒瀬百合子ですよ。楫取さまからお知らせを受けて、お迎えに参りました」
「ここは…」
「松崎の天神(防府天満宮)さまです」
 三日前だったか、楫取素彦夫人のヒサが吉田屋を訪ねてきた際、防府天満宮にお参りする旨を伝えておいた。その後、歌人の荒瀬百合子女史宅を訪ねるとも。楫取夫人が早速、連絡してくれたのだろう。
「どうして私がここに…」
 道中、勝坂峠にさしかかったところまでは覚えている。そのあとのことは、幻の世界であった。
「峠道で気を失われた貴女を、迎えに行った店の男衆が見つけて、天神さままでお連れしたのですよ」
 荒瀬百合子が、勝坂峠からここまでのことをつぶさに教えてくれた。
 起き上がった望東尼は、挨拶を済ますとすぐ拝殿に向かった。吉田屋を出る際、心に決めていた「七日詣で」の初日分を実行するためである。
 本日9月25日から七日間、欠かさず天神さまに「戦勝祈願」を行い、和歌を一首ずつ奉納することを決めていたのである。


奉納和歌七首短冊

① 物のふのあだにかつ坂かけつつもいのるねぎごと受させたまえ
② こぞめなすますほのすすきほにいでてまねくになびけちくさ八千ぐさ
③ みよを思う矢竹心のひとすぢもゆみとるかずにいらぬかひなき
④ あづさゆみ引数(ひくかず)ならぬ身ながらも思ひいる矢はただに一すぢ
⑤ みちも無(なく)みだれあひたるなにはえ(難波江)のよしあしわくるときやこの時
⑥ ただなぬか(七日)わが日まうでもはてなくにとも神無月(かみなづき)成(なり)にけるかな
⑦ ここのへに八重居るくもやはれむとて冬たつそらもはるめきぬらん

 朱に染められた松崎天満宮の本殿は、太宰府や北野天満宮とはひと味趣を異にしている。拝殿に上がると、今にも目の前に天神さまが現れそう。本殿から見下ろす向こうには、町のシンボルである桑山(くわのやま)が居座っている。更にその向こうに広がる海が、三田尻の港であろう。
 望東尼は、駕籠に乗って半里先の荒瀬宅に向かった。百合子の夫はかつて商人だったが、先に亡くなっている。残された夫人は五十八歳。
 百合子は、客人に不自由なく過ごしてもらえるよう、離れの間を提供した。翌朝望東尼は、疲れをとる間も惜しんで、天満宮に向かった。境内の手水鉢で身を清めた後、拝殿に上がり精神を統一して二日目の和歌を奉納する。
 薩長盟約によれば、薩摩兵を乗せた船は、9月25日か26日までに、三田尻の港に到着する予定である。だが、いくら港を望んでも、それらしき船影は見えなかった。荒瀬家の離れで知らせを待つ気持ちも落ち着かなかい。


防府駅から桑山望む

待ち惚け
 湯田温泉郷から遙々三田尻までやってきたのに、激励すべき長州兵が、いつ戦場に赴くのか見当もつかない。望東尼は、若くて力持ちの使用人友三を案内役に付けてもらった。港を見渡せる、桑山(くわのやま)(標高107㍍)への登り降りを手伝ってもらうためである。
「あちらに見えるのが三田尻の港で、その向こう側が中之関です」
「それで、佐賀関は? 九州と四国の間の…」
 友三の指先を頼りに、視界を巡らせていく。港の向こうが向島。いくつかの小島を飛ばして、更にその向こうに見えるのが四国の佐多岬である。目を細めて眺めるが、薩摩兵を乗せた軍船らしいものは見当たらなかった。
「やっぱり駄目だね」
深いため息をつくのだが、薩長盟約のことなど知らされていない友三には、彼女の気持ちを察することなど出来ない。

  ちぎりおきて帆かげも見えぬ薩摩舟またうき波や立ちかへるらむ

 楫取素彦が、長州軍の総指揮官を務める山田市之丞と連れだって、荒瀬宅にやってきた。彼らも三田尻に居を移して、薩摩兵の到着を待っているのだと言う。
「遅いですね、薩摩のお方たち」
 出迎えた望東尼が呟くと、楫取は「そんなこともあるさ」と、焦っている風には見えない。「八月十八日の変」以来、長州藩内に漂う「薩摩不審」が、頭をもたげたのかも知れない。訪問者は、和歌の詠みあいなどした後帰っていった。それから六日経った夕刻、友三が駆け込んできた。
「薩摩の船が中之関に入ったらしいです」と。慌てて身支度を済ますと、再び荷車に乗せられて桑山山頂へ。
「あれが、待ちに待った薩摩船ですか」


現在の三田尻港

 桑山の頂上から眼下に見える小田港(こだこう)に碇を下ろした薩摩軍船に魅入った。足下が不安定になるほどに気が抜けたと自覚する。見下ろした向こうに見える船には、薩摩兵四百人が乗っている。
 望東尼は、桑山山頂より薩摩軍船の姿を見届けたあと荒瀬宅に戻ってきた。いかに友三の助けがあっても、六十二歳という年齢からくる体力には限界がある。床につくと、間もなく始まる新しい世への期待も薄れて眠りこけた。
「どうしましたか、嬉しいはずなのに」
 百合子が部屋に入ってきて声をかけた。眠っているわけでもないのに、すぐには返事が出来ないでいる。


  みよひらくたよりや菊の花ならんあきつむしさへゆたにやどれり

 天皇の御代が始まるという知らせを聞くのは、菊の花であろうか、あきつむし(とんぼ)さえゆったりと止っているのに。
 客人の異常を感じ取った百合子が、望東尼の肩を揺すった。
「頑張ってくださいよ、貴女が命をかけて戦い取ろうとする新しい世が、すぐそこまで来ているのですから」
と、叱るような口調で望東尼を抱き起こした。
 間もなく藩が指名した開業医師三人が、交代で枕元に付き添うようになった。
「まだまだ、そんなに早くは逝きませんから…」
 この期に及んで、望東尼は強がりを忘れてはいなかった。

残す言葉
 望東尼が体調を崩して寝込んでいるその瞬間も、日本はすさまじい勢いで動いていた。まさしく地殻変動である。
 朝廷より長州藩主父子に下されていた、官位剥奪の処分が取り消された。10月13日、将軍德川慶喜は京都の二条城にあって、上洛中の諸大名に大政奉還についての意見を訊いた。そして翌日には、朝廷に対して大政奉還の上表を提出したのである。
 世の動きは、年でもなければ月でもない。日・時刻単位で急変していく。それは、望東尼の寿命との駆け比べの如くであった。薩摩と土佐藩が盟約を結んだ後、土佐藩主の山内豊信(容堂)が、大政奉還の建白書を幕府に提出した。間を置かずして10月15日、朝廷は幕府からの大政奉還の上表を受理する。ここに、権力機構としての江戸幕府の使命は、実質的に終了するのである。
 望東尼が死ぬ間際まで気をもんでいた、「倒幕」と「天皇による治世」の実現は、黄泉の世界に旅立つわずか十日前に実現したのであった。
望東尼は、息を引き取る寸前まで、和歌を詠むことにこだわった。次が、彼女人生最期の歌である。

  冬籠り怺えこらへてひとときに花咲きみてる春は来るらし


望東尼辞世の句碑(防府市桑山)

 冬籠もりをして、こらえにこらえていた花が一斉に咲き満ちる春の到来です。
 息せき切って、下関から駆けつけた藤 四郎の手を握り締めながら、声を絞り出すようにして訴えた。
「死ぬ間際に、四郎に言い残したいことがあります」
 そこまで言って、咳き込んでしまった。藤 四郎は、辛抱強く次なる言葉を待った。
「私の骨は、三田尻の桑山の麓に埋めておくれ。これは、お世話になった長州への、せめてもの私の気持ちです」
「私は、お世話になった高杉さまや長州の皆さま方に、そのご恩を忘れませんから」と言いたかったのだろう。
「それから…もう一つ。・・・叶うものなら、死ぬ前に一度、海の向こう(九州)の私の国に戻りたかった。あの平尾山荘の畳の上で死にたかった。喧しいほどの小鳥たちの鳴き声を聞きながら・・・。これだけは、同郷の四郎にだけ言い残しておきたかったことです」
 そこでまた、望東尼の声が止った。
「ハハウエには、もうしばらく生きていて欲しいです。貴女の願った夜明けは、すぐそこまで来ているのですから」
 小刻みに震える手を握り締めながら、藤 四郎が呟いた。

 そこに百合子が入ってきて、話は途切れた。二人だけの会話は、福岡藩で育った者にしか通じない情感であったろう。姫島の牢獄から救い出され、長州に来てからは、一挙に天国に昇ったような待遇をいただいた。こちらの皆さまに、これ以上の贅沢を言える立場などあろうはずもない。でも本音は、死ぬときくらい、生まれ故郷で、身内の者たちに囲まれていたかった。それが偽りのない気持ちでもあった。
「必ず、必ず、私が海峡の向こうまでお連れしますから。その間、あまり遠くへ行かないで、待っていてください」
 藤 四郎は、向かい側に座っている百合子に気づかれないよう、耳元で望東尼に話しかけた。
 荒瀬百合子の献身的看護もあって、望東尼の容態は奇跡的に快復したかに見えた。だがすぐ危篤に陥る。その繰り返しが幾度も続いた。そして、周囲の者の問いかけにも反応しなくなる。
 望東尼の枕元には、藤 四郎と澄川洗蔵が寄り添った。澄川は、姫島から下関へ逃れる途中、宗像大島の牢獄から救い出された志士の一人である。望東尼にとって澄川は、可愛い孫助作の身代わりのように思えている。


居住した荒瀬宅離れの間

 慶応3(1867)年11月6日夜の五つ半(午後九時頃)。つきっきりの医者が、首を横に二度振った。

野村望東尼、六十二歳にして天国への旅立ちであった。

(第10部に続く)

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