| 最終章 大願成就
大号令
望東尼の死後七日が経過した11月13日。藩主島津忠義率いる薩摩軍の本隊が、西郷隆盛以下三千人の藩兵を従えてお国を出立した。四日後の17日、三田尻港に着岸して、先着の軍兵と合流する。六日後の11月23日には、大阪港に入港した後、錦の御旗をおっ立てて京都に向けて進軍したのである。
薩長同盟成立を仲立ちした坂本龍馬と中岡慎太郎が、京都河原町の近江屋で暗殺されたのは、少し以前の慶応3年11月15日であった。
一方長州藩の軍兵は、千二百人を乗せて三田尻港を出港した後、西宮に留まって陣を構えた。続いて安芸藩も、三百人の軍兵が京都に入っている。
そして運命の12月9日。十五代将軍德川慶喜が、朝廷に対して政権を返上する歴史的な日になった。御前会議を開いて王政復古の大号令を発布したのである。
ここに、江戸幕府の消滅と明治維新新政の第一段階が始まった。望東尼が死去して、一ヶ月後のことである。
幕府による政権返上のその内容とは、
幕府将軍職の辞職
京都守護職の廃止
摂生・関白の廃止
総裁・議定・参与の設置
というものである。
望東尼は、浄土への道すがら、どのあたりで、「大号令」を聞いたのであろうか。
そしてもう一つ。望東尼が心から気にしていた、三条実美以下五卿の行方は。慶応3年12月27日に、すべての罪が許されて、太宰府を発ち、京都に帰還したのであった。
向陵望東大姉
日本の政治態勢が大きく変動する中、望東尼の葬儀は、桑山(くわのやま)麓の正福寺(禅寺)で厳かに執り行われた。
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桑山裾野に立つ望東尼の墓標
故人に付けられた戒名は、「始本院向陵望東大姉」。棺は多くの長州藩士や関係者に見守られて、山麓の墓所へと向かった。ご遺体は、遺言通りに埋葬された。葬儀のすべては、長州藩の仕切りで進み、費用も長州藩主の毛利家が負担したとのこと。
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現在の門司港桟橋
その後、桑山大楽寺境内に、「正五位野村望東尼之墓」と刻した豪奢な墓碑が建てられた。死去した後も、高杉晋作の危機を救ってくれた望東尼への恩を忘れない、長州人の心意気が込められていたのである。
時は、明治維新から数年経過した頃。四十歳くらいの男が、人待ち顔で門司港桟橋際に立っている。澄川洗蔵である。澄川洗蔵は、藤 四郎とともに望東尼の最期を看取った元福岡藩士のこと。下関上陸後は奇兵隊に入り、倒幕のために働いてきた男である。
「待たせたな、澄川君」
桟橋から出てきた山高帽の紳士が、澄川の肩を叩いた。男は防府の三田尻港から下関を経て門司港にやってきた藤 四郎である。藤 四郎の首には、真っ白の布に包まれた小箱が吊されている。二人は、港が一望できる公園の置き石に座った。
「ハハウエが亡くなったのは六十二歳であったな。普通のお年寄りと違って、ハハウエは、最後まで元気だった」
藤 四郎が呟いた。
「若かったのですよ、ハハウエは。年齢(とし)を重ねても、気持ちはいつまでも若者だったのです」
二人の男の会話はそこで途切れた。二人が見つめる海峡の向こう岸には、赤間宮の赤い社(やしろ)がはっきり見える。
「澄川君、後は頼むぞ」
藤 四郎が立ち上がると、首から吊した小箱を澄川の手に渡した。箱に入っているものは、桑山山麓から採取した望東尼墓所の土と、短冊に記された辞世の歌である。
冬籠り怺えこらえてひとときに花咲きみてる春は来るらし
「畏まりました。必ず、必ず、博多の明光寺さまにお届け致します」
澄川の役目は、藤 四郎が三田尻から携えてきた土と和歌を、野村家の菩提寺まで届けることであった。
藤 四郎は、望東尼と最期に交わした、「必ず、海峡の向こうまでお連れしますから」の約束を、ともに維新の荒波を乗り越えてきた澄川洗蔵に託したのである。維新後の藤
四郎は京都大属となり、壱岐県の大参事に抜擢されて竹島の開発にあたっている。
藤 四郎、澄川が捧げ持つ望東尼の霊に向かって、直立不動の姿勢で最敬礼した。
「これより澄川君が、ハハウエを博多の明光寺までご案内いたします。その後は、長らく待ってなさったご主人さまと、歌を詠み合うなどして、平尾山荘のお庭を散策してくださいませ」
顔を上げると、維新前のあの緊張した海峡の姿は消え、波穏やかな海上を貨物船がゆったりと、東から西へ進んでいた。(おわり)
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