第５部 乙丑(いっちゅう)の獄

十一代福岡藩主黒田長溥（福岡市博物館蔵）

五卿に拝謁
　福岡藩内の尊攘派は、三条実美(さんじょうさねとみ)ら五卿（三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌）の筑前下向を支持して、各方面に働きかけた。まずは、実質長州藩内に囚われの身である五卿とその後ろ盾である長州藩主に賛意を求めることである。月形洗蔵ら尊攘派は、長州の萩や湯田まで出向いて関係先の説得にあたった。彼らの行動は功を奏して、5人の公卿は五つの藩（福岡・薩摩・肥後・佐賀・久留米）が分担して預かることに決まった。そして五卿の落ち着き先は、太宰府の延寿王院(えんじゅおういん)ということになった。延寿王院とは、安楽寺天満宮（現太宰府天満宮）の宿坊のことである。

太宰府の延寿王院

　五卿が長州を発って太宰府に到着したのが、慶応元年（1865年）1月であった。五つの藩が分担して警備する中、五卿は王政復古の日までこの地で暮らすことになったのである。
　尊攘派の動きを嫌う幕府は、福岡藩主黒田長溥ら5藩の藩主に対して、直ちに五卿を江戸に送れと命じてきた。命令を受けた五つの藩は、たまたま筑前入りしていた薩摩の西郷吉之助（隆盛）を交えて協議した。結果、幕府の命令をきっぱり拒否することになった。
　望東尼は、念願であった公卿への面会を実現すべく、延寿王院に出かけた。五卿が太宰府に入った2ヶ月後の3月25日である。
　延寿王院は、天満宮の大鳥居を潜ってすぐのところ。恐る恐る門番に来意を告げると、間もなく館内に案内された。奥の間で待つことしばし、現れたのは三条実美であった。世が世なら、福岡藩士の後家ごときが面会できる立場ではない。
　正面に座った三条公は、お眉墨もお歯黒もない簡素な袴姿であった。聞き及んでいた公家の身繕いとはほど遠いものである。
「よう来はりましたな」との挨拶だけで、多くを語らない。望東尼にとって、直接三条公に声をかけてもらっただけで十分である。天にも昇る感動を覚えたまま門外に出た。後日三条実美からは、扇子と手紙が贈られてきた。尊皇派を自認する望東尼にとって、これ以上の名誉はない。早速差し出した礼状には、
空蝉（現世の人間）の世の障りがちにて心に得まかせ侍らず
の句を添えた。
「もし…」
　三条公と別れて延寿王院の門外に出たとき、後から見知らぬ武士に声をかけられた。
「どちらさまで？」と伺うと、男は丁寧に頭を下げた。
「小田村文助と申す長州藩士でござる。先頃は、我が藩の高杉晋作が大変お世話になり申した。もしかしてと、失礼ながら声をかけた次第」
　小田村文助とは、後に望東尼が深く関わることになる、後の楫取素彦(かじとりもとひこ)のことである。小田村は、先頃枡木屋の牢獄を脱走した中村円太らを、対馬藩の飛び地である田代藩邸（現鳥栖市田代）に匿った人物であった。
「この度は、天神さまにお詣りでしょうか？」
「いえ、公卿さまにご挨拶を」と言うなり、小田村は延寿王院の門の中に消えていった。

旧陶山一貫宅三条実美手植えの松

　望東尼はその足で、通古賀(とおのこが)に住む陶山一貫を訪ねた。陶山は、当地で開業する医者である。一方陶山は、尊皇攘夷運動の熱心な活動家でもあった。陶山は、延寿王院に謫居中の五卿を訪ねては、みやこのことや同士の活動など近況を報告している。五卿を政治の世界と結びつかせる貴重な尊皇派の連絡係であった。陶山一貫の屋敷跡には、現在も三条実美手植えの松（途中植え替えがなされている）が保存されている。

藩主の決断
　高杉晋作の平尾山荘逗留を境にして、尊皇攘夷派志士らの山荘への出入りが頻繁になった。出入りする者、福岡藩士とは限らない。領内での正義派と俗論派の対立から逃れてきた対馬藩の重役なども。中には、脱藩した他藩の浪士や英彦山の僧までも混じっていた。

当時の平尾山荘

　いかに周辺に人家が少ないとはいえ、近隣住民の話題にならないわけがない。いつしか、山荘が浮浪の輩の巣になっているとの噂まで広まった。尊攘派の動きに神経をとがらせる藩主も、尋常ではいられなくなった。
　筑前国福岡藩の十一代藩主黒田長溥(くろだながひろ)といえば、薩摩藩から婿養子で黒田家に入り、蘭癖(らんぺき)大名と呼ばれるほどに西洋文化に憧れ、取り入れてきた大名である。藩校修猷館を復興させるなど数々の成果を上げて、名君とも呼ばれた。
　第一次長州征討結果に不満を持つ幕府が、いよいよ次なる征討に動いた時期である。時勢との関わりが、福岡藩の立場をますます窮地に追い詰めていく。尊攘派による老重臣の暗殺、中村円太の牢破り、五卿の受け入れなど、尊攘派による意に反する出来事が続き、その上、平尾山荘への不逞の輩出入りの噂まで広まったのだから、藩主の堪忍袋も限界に達したのだろう。
　そんな折も折、望東尼にとって怖れていたことが現実となってしまった。京都大文字屋の手代馬場文英が、京都所司代により拘束されたとの情報が届いたからだ。
　馬場は、平野国臣と同じ六角の獄に入れられた。望東尼と馬場の連絡ルートは完全に断ち切られることになる。
「ここも、無事ではいられませんよ」
　家督を継いだ孫の助作が、望東尼に耳打ちした。尊攘派の志士たちを勇気づけている尊攘派家老の加藤司書だって、無事ではいられまい。

家老の加藤司書

　藩庁から睨まれている志士たちではあるが、どの者も、国を憂い、運動してきた若者である。もし、藩庁から尋問を受けることがあれば、正々堂々と自分らの正義の考えを述べれば済むこと。例え尊攘派に理解を示さない役人であっても、そのうちに分かってくれるはず。望東尼は、そう信じ、必要以上に怖れることはないと、助作に言い聞かせた。時代は維新前夜の慶応年間（１８６５年～）に入った。

濡れ衣
　望東尼の気持ちは落ち込むばかりであった。気晴らしに曾孫と戯れようと、野村本家に出かけた。季節はやがて夏を迎えようとしている。
　近くの神社でひとしきり遊んだ頃、玉垣の向こうから野村家の女中が駆け込んできた。何事かと問うても、口もとを震わせるばかりで、はっきりしたことを言わない。とりあえず、幼子を女中に預けて家に戻った。
　帰るなり、嫁から一通の書状を見せられた。それは本家を継いでいる助作に対する藩庁からの召し文（呼出状）であった。「戒めがある故出頭せよ」とだけ書いてある。座敷に入ると、助作が既に身支度を済ませて望東尼を待っていた。召し文に書かれている「戒め」の意味が分からないと、助作はぼやいている。助作は、実家の跡取りである浦野吉之助と連れだって出かけていった。
　大詰めを迎えた歌集『向陵集』の編纂も気になるが、ここは当主助作の祖母として野村家を護らなければならない。親類の者が続々集まってくる中で、ひたすら孫の帰りを待った。
　夜中になって吉之助一人が戻ってきた。右手に藩庁から渡されたという仰せ文を握っている。中身は何かと、開いてびっくり。宛先は、助作ではなく望東尼宛てであった。
「疑いの義あり。次なる沙汰があるまで、親族の家で謹慎するように」とのこと。その間、望東尼を身内の者がしっかり見張るようにとのお達しであった。仰天する望東尼は、このときの心境を日記「夢かぞえ」に書き記している。

　世を捨てし身にさへかかるうき草の濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)、墨の衣に引き重ねつる事ども、いと畏(かしこ)しとも思ひわきがたし

　頭を丸め、仏門に入った我が身に、思いもよらぬ濡れ衣が掛けられようとは。それも、彼女が頼りとする福岡藩からのお達しである。とても、畏まって承服出来ることではない。怒りは心頭に達した。その後助作を待つ時間の長かったこと。たったの半日が、一年にも思えた。
　親類一同が続々と野村家に集まってきた。当主助作にどのような処分が下るのか、集まってくるみんなの顔は曇るばかり。その上、長老格でもある望東尼にまで嫌疑がかけられたのである。藩庁からは、望東尼の見張りは家族でやれとまで指示されている。慣れないこととはいえ、誰がどのような任務を担うべきか、右往左往するばかりであった。
　そこに、外から異様な音が聞こえてきた。隣人といえば、福岡藩の祐筆用係中頭取という肩書きを持つ喜多岡勇平の屋敷である。喜多岡は、若いながら家老の久野一角から絶大な信頼を得て、藩中・藩外を駆け巡る毎日を送っている身である。先日も家老に命じられて、京都まで出かけ、帰ってきたばかりであった。だが、彼が何の目的でどんなところに出かけているのか、留守を預かる妻にすら何一つ教えられていないと言う。
　妻は知らなくても、望東尼の耳には聞こえることがあった。喜多岡が、平野国臣と昵懇(じっこん)の仲にあり、尊攘派の運動にも理解を示していることなど。
　ただ事ではない物音が気になって、玄関先に出た。そこへ喜多岡家の女中が駆け込んで来た。
「旦那さまが、旦那さまが」と叫ぶが、言葉にはなっていない。様子を見に行った家の者が、やはり口もとを震わせている。
「喜多岡さまが殺されました」と叫ぶなり、その場にへたり込んでしまった。この時の事件、望東尼にとっても、その後の運命を左右する出来事であった。
　役人による喜多岡家の調べが終わる頃、助作が戻ってきた。東の空が白みかけている。助作は、祖母への謹慎言い渡しを知らされていないらしく、まずは自らの今後について語った。自身にも謹慎を言い渡されたと言う。助作は現役の藩士であるため、見張りも公の守人がつくとも。
「謹慎を受けるのは、そなたと私だけではなかろう」
　祖母の問いには答えず、助作はそのまま寝間に入っていった。

座敷牢
　夜が明けると、望東尼は実家の浦野家に移動させられた。久しぶりの実家なのだが、懐かしさや故人となっている両親への思い出など感傷は湧いてこない。実家の跡取りである浦野吉之助が見張り役となって、二人とも複雑な面持ちで向き合った。
「疑いのかかる者を甥っこに見晴らせるなんて、情けない藩庁だね。もし私が何かしでかしたら、身内の者に責任を取らせるって魂胆だろう」
　望東尼は、藩への恨みを吐き出した。今回、厳しい「戒め」を受けるのは、名前を挙げるだけでも半端な人数ではなかった。勤王派の中心的な志士の名をあげるだけでも、空恐ろしくなるほどである。
　月形洗蔵、筑紫衛、鷹取養巴、森安平、万代安之丞、江上栄之進、伊熊茂次郎、海津亦八、伊丹真一郎、今中作兵衛、真藤善八、尾崎逸蔵など。
　この日、拘束された武士は、望東尼と助作を加えて総勢十四名に上った。その他にも、足軽などを含めると三九名が「戒め」を受けることになった。
　悲しいことに、望東尼を頼って和歌の弟子入りをした瀬口三兵衛まで含まれている。三兵衛は、今朝も、山荘の庭に咲く草花を届けてくれたばかりであった。
「どうして？　なぜなの？」
　自分の周囲にいた者が、ことごとく罰を受けると聞く度に、望東尼の頭は真っ白になり、ただ座敷に額を付けて呻くばかりであった。
　嫁入り前まで暮らした家であるのに、勝手に外出することすら許されない。広い座敷で、見張り役の吉之助と二人が睨めっこしているばかりである。
「伯母上･･･」
　退屈そうな伯母に、吉之助が語りかける。
「どこにどのような目があるやも知れぬ」と、望東尼が小声で遮った。
「吉之助よ、たまには外に出て、弓射場(ゆみいば)でも覗いてみたいの」
　今度は、伯母の方から話しかけた。するとすぐに、吉之助が身構える。
「駄目ですよ。伯母上が変な気でも起こしたら、浦野家はたちどころに取り潰しですからね。しばらくの辛抱です、我慢しましょう」
「分かっていますよ。ただ、おまえの名前を呼んでみたかっただけ」
　それだけの会話を交わすのにも、気を遣わなければならない自宅謹慎であった。
　謹慎中も、藩庁から取り調べの達しが届く。場所は、お城の反対側、内堀の先へ行く。体力に自信がない望東尼は、駕籠に揺られるだけですぐに疲れてしまう。

福岡城一の丸御殿跡

　付き添いの吉之助にねだって、海の見える日陰で一休みすることにした。現在の長浜公園あたりだろうか。湾からの風が気持ちよく、いつまでもここにいたいと駄々をこねたくもなる。
　取り調べは、部屋の中で淡々と進められた。
「今回取り調べを受けている者は、いずれも素直に答えておる。貴僧も、お仲間を思う心があるのなら包み隠さず答えられよ」
「何をお訊きになりたいのです？」と応じたところで、役人の声色がますます優しさを増した。
「貴僧の山荘に、出入りしておった者の名前を聞かせてくれまいか。それから、中村円太の枡木屋脱走について、知っていることがあれば教えてほしい」
「申し上げたら、いま処分を受けている者を、皆自由の身にしてくれますか」と、念を押した。
「貴僧の願いを叶えてくれるよう、御奉行に申し伝える故」
　そこで望東尼は、平尾山荘に出入りしていた若者の名前を連ねた。そのことが、後の大弾圧に直結する誘導尋問であろうとは微塵も考えず、知りうることをすべて申し立てた。尊攘派が勢いを増す長州藩を取り締まるべく、幕府が第二次長州征討に打って出た時期と符合する。幕府の征討に呼応して藩主の黒田長溥も、謹慎中の志士たちの処分を早めるよう言い渡した。世に言う乙丑(いっちゅう)の獄(ごく)本番の始まりである。

流罪牢居言い渡し
　尊攘派が頼りにする家老の加藤司書には切腹、月形洗蔵ら二十一名に切腹及び斬罪が言い渡された。その他、併せて百名を超える志士への処分が断行された。
10月23日の夕刻であった。切腹を言い渡された家老の加藤司書は、中老隅田清左衛門の屋敷にお預けとなった。隅田家は、急遽設えた座敷牢に司書を迎えた。屋敷の周辺には、数多くの警備の役人が配備された。
　二日後、切腹決行の夜である。墨田家では、最大級の馳走を用意して司書に与えた。その夜遅く大目付がやってきて、「天福寺にて切腹」の君命を言い渡した。

加藤司書切腹の図（福岡市博物館蔵）

　加藤司書は、墨田清左衛門に対して深々と頭を下げた後、護送用の網駕籠に乗せられ、死出の旅路についたのである。
　望東尼の孫・野村助作には、流罪の判決が言い渡された。流される島は宗像沖の大島だと、吉之助に聞かされた。
　そして望東尼には、「姫島流罪牢居」の刑が告げられた。望東尼は、判決文を聞かされて涙が止まらなかった。取り調べの際に、あれほど同士に対する罪はないことにして欲しいと頼んだのに。正直に事実を述べれば、許してくれると信じていたのに。全身全霊を傾けての訴えも、黒田のお殿さまにまでは届かなかったのか。他の同志に比べて、自分への罪が死罪でないのは何故なのか。島流しということでほっとするどころではない。恥ずべきことだとも思えた。
　そしてもう一つ驚いたのは、流される先が筑前の姫島だということであった。福岡藩は、罪状として設けた「流罪」の先として、姫島・玄界島・大島・小呂島など、近郊の離島に牢獄を設えた。姫島には自身一度だけ、足を踏み入れたことがある。今は亡き実弟桑野嘉右衛門が、かつて姫島の定番(じょうばん)役として勤めていた時のことだ。その弟に誘われて姫島に渡った。島への伴は、和歌の師大隈言道であった。
　玄界灘に浮かぶ姫島は、岐志港から２里足らずの西に浮かぶ離島である。周囲3.8㌔、面積0.75平方キロの小さな島である。あの時望東尼と言道は、愛宕神社下の海岸を、語り合いながら旅であった。海が荒れていて船を出せないという船頭に従って、岐志港近くの庄屋の屋敷に泊めてもらうことになった。望東尼はそのとき、心境を詠んでいる。

　　旅ごろも香月の浦にいつまでか立うらぶれん波もわがみも

　思い出が詰まった姫島に、また来るときは囚人となって海を渡ることになろうとは･･･。

唐丸籠護送
　慶応元年（１８６５年）十一月十四日の夕刻であった。浦野家門前に唐丸籠が運び込まれた。籠に乗るのは望東尼。唐丸籠とは、囚人を乗せて護送するための籠のこと。「籐丸籠」とも書く。闘鶏用のシャモを飼うために籐を編んだ籠に似ているところから付けられた名前だとか。

籐丸籠

赤坂御馬屋後(おうまやのうしろ)の実家から岐志の港までの八里（30㌔強）を、夜を通して護送することになる。

室見川（福岡市西区）

　岐志到着後は、離島の姫島まで船で運ぶことに。籠の舁き手は前後に一人ずつ、それに役人と守人が二人。囚人は、最初から最後まで籠の中。排便も籠の底に開けられた小穴を大小共通で使うことに。周囲が好奇心で見つめる目もお構いなし。これ以上ない惨めな晒しものである。気位の高い四百石取りの奥方には残酷過ぎる。顔から火が出るような羞恥心もお構いなく、籠は西方に向かって歩き出した。
「せめて港まででも…」見送りたいと訴える者には、「後の祟りが恐ろしいから」と、吉之助が押しとどめた。結局、身内から五人が、籠の後を着いていくことになった。小さな提灯の灯りを先頭に、唐人町から唐津街道に出た。
　室見川を渡って振り返ると、川向こうに城下の灯が見える。生まれてこの方馴染んできたお城や福岡の街とも、今生のお別れになるかも知れぬ。多くの志を持つ若者らと出合った平尾山荘を、これからは誰が面倒見てくれるものやら。月形洗蔵や平野国臣など、山荘に足を止めた面々が脳裏を駆け巡る。夫貞貫と、「ここでのんびり和歌を詠もう」と誓った山小屋である。夫の幻影が浮かんだ途端、もう一人の男が顔を出した。僅か十日間ではあったが、匿った高杉晋作の優男ながら眼光の鋭い姿であった。
　籠は彼女の感傷も知らぬげに、海岸通りから愛宕下へ。更に生の松原(いきのまつばら)を経て糸島半島の可也山（別名・糸島富士）下へと進んでいった。
　岐志の港に着いた時刻、見上げると、大きな星が休みなく瞬いていた。一行は、船乗り場からほど近い庄屋の家で、しばし休息をとることになった。以前姫島に渡った折、立寄った屋敷である。そのとき庄屋に乞われて、歌を贈ったことを思い出した。
　役人は、守人に厳重な警護を言い渡すと、さっさと眠りこけた。後ろから付いてくる身内も、ここで再び今来た道を戻っていった。
　疲れ切っている守人らの隙を見て、庄屋が筆と紙を差し出した。「今のお気持ちを」詠んでいただきたいとの願いである。

　　舟出するきしの浦波立かへりまたこの家にやどるよもがな

　目を覚ました役人が、守人の頭を叩いた。「凪いでいる間に船を出すぞ」と声をかけ、接岸している舟に望東尼を押し込んだ。桟橋まで見送ってきた庄屋とその家族が「お身体をお大事に」と、涙声で手を振っている。
　桟橋を出るときは静かだった引津湾だが、玄界灘に出た途端、飛沫が飛び交う荒海と化した。
「大丈夫だって、こんくれえの波じゃひっくり返ることはなかけん」
　艪を漕ぐ船頭は、荒波に揺さぶられる様を楽しんでいる風にも見える。船酔いがひどい望東尼は、船縁に顔を押しつけたまま忍ぶしかなかった。
「夜が明けますぜ」と、船頭が叫んだ。
　姫島の真ん中に座る鎮山が、目に飛び込んできた。これから先の困苦を予告する島影であった。(第6部に続く）