姫島港全景

獄舎暮らし
　慶応元（１８６５）年11月15日早朝。望東尼を護送する舟が、姫島の漁港に接岸した。夜が明けて間もないというのに、数人の島民が籐丸籠を取り巻いている。先にこの島を訪れた際に知り合った、女房や娘の顔もあった。
　上陸するとすぐ、浜定番屋敷(はまじょうばんやしき)に連れて行かれた。船酔いが治まらないため、出された冷や飯も喉を通りそうにない。昼過ぎからは、裏庭の白州に連れ出された。
しばらく待つと、上方からかすれ声が降ってきた。「面(おもて)を上げい」と叫んでいる。見下ろしているのは、かつて実弟の桑野嘉右衛門と同僚だった小島源五右衛門である。小島は一瞬、望東尼に挨拶をしたいような眼差しを向けた。だが、すぐに険しい顔に戻り、形式的に「流刑囚の心得」を読みあげた後、さっさと奥に引っ込んだ。
　小役人に両脇を支えられて連れて行かれた先は、山の中腹に建てられた獄舎である。南方に目を向けると、眼下に白波の立つ海が見える。玄界灘である。陽は唐津の海に落ちかけるところで、やがて来る恐怖の夜を覚悟しなければならない。

　獄舎は、屋根に粗末な瓦が置いてあるだけの小屋である。縦一間半、横二間の広さに、寝起きするための畳一枚と敷板が置かれている。そのすぐ隣に雪隠(せっちん)があり、またその隣が警護室になっている。
　浜定番の役人が、望東尼の身辺を念入りに調べた。自殺の恐れのある刃物や、火災のもとになりそうなろうそくなど持参していないか点検する。望東尼を獄に閉じ込めた後は外から頑丈な錠前をかけて、すぐに立ち去った。役人が警固室に寝泊まりしないことを知り、安堵した。
　陽が落ちると、月明かりが格子の隙間から差し込んでくる。表の草むらで、もの悲しく鳴く虫の音や、天井から聞こえる梟の鳴き声が気になって、眠気も遠のくばかりである。寒さを凌ぐため、与えられた薄い布団と周囲の茣蓙を重ね合わせて身にまとう。一睡も出来ない夜が過ぎていった。

姫島獄舎内の図（福岡市博物館蔵）

　夜が明けると村の中年男がやってきて、外側からはめ込んだ板戸をはずした。彼方に見える波頭が目に飛び込んできて、眩しい。村民との接触は、役所が委嘱している食事を運ぶ女が二人だけ。それも、無用な会話は許されていないらしく、女は用を済ますとさっさと獄舎を離れていった。格子戸から眺める対岸は、福吉あたりか。その奥に見えるは、浮嶽(８０５㍍）か。
周囲に点在する家屋から聞こえてくる、牛や雄鶏の鳴き声が煩い。

島民との交流
　いかに役人が村人との間に戸を立てようと、過ぎていく時間が囚人との距離を縮めるもの。島の女たちは、魚の天日干しなど、仕事の合間に獄舎の前庭に集まって来る。そこでは、獄舎の中のことなど気にする様子もなく、子供のことや亭主の稼ぎについて自慢し合っている。武家屋敷では、おおよそ聞かなかった下世話の話まで飛び出して、大口開けて笑い合う女たち。しばらく経つと、朝晩食事を運ぶフジとも、会話を交わすようになった。最近顔色が良くなったと言って嬉しそうに語りかける。フジに頼んで筆立てを用意してもらった。姫島での日記を書くためである。
　入牢してしばらく経った頃、望東尼が獄中の柱に書き記した歌が残っている。

　　またここに住みなむ人よ堪へがたくうしと思ふは二十日ばかりぞ

　次にこの獄舎に入る人よ、耐えがたく辛いと思うのは最初の二十日間だけのことですよ、といとも前向きな歌である。野村本家からの差し入れも、手許に届くようになった。
「これ、ババには甘すぎて駄目だから、近所のお子たちに食べさせて」
　朝食を運んでくる際、差し入れの駄菓子をフジに差し出した。ある時、交代で朝飯を運んでくるウメが、桑野喜右衛門という役人さんを覚えていると、言い出した。

姫島の漁村風景

「その者はこの尼の三つ違いの弟だよ」と応えると、「あらまあ」の連発。後は、以前からの知り合いでもあるように、口が軽くなった。「書き物に必要だろうから」と、こっそり布団の下にろうそくをしのばせたりもした。暗くなってそのろうそくに火を灯すと、獄舎の中は、世界が変わったかのように明るくなった。人との繋がりの大切さを、仏の光に見立てて詠んだ歌である。

　　暗きよの人やに得たるともし火はまこと仏の光なりけり

　獄中での時間が過ぎていく。狭いながらもここが自分の住処のように感じることもある。フジやウメに限らず、寄ってくる主婦や娘たちとも、格子越しに会話を交わすようになった。一日に一度の役人の見回りさえ気をつけておけば、彼女らとの間に、獄舎の格子などあってないようなものになっている。
　ある日、別の獄舎に繋がれている囚人が、二人連れでやってきた。脱獄の恐れの少ない囚人に対しては、監視も緩やかになっているらしい。顔中を無精髭が覆う男は、望東尼が旧友ででもあるように、親しげに話しかけてきた。島を囲む海は、何にも増して頑丈な監獄塀の役目を担っているのだ。
　ある時は、島の漁師が来て、釣り船の進水を祝った歌を詠んでくれとねだった。
望東尼は、新しい舟の航海の安全と豊漁を祈念して歌を贈った。島内には、望東尼が有名な歌人であることが知れ渡っているらしい。

　　わたつみの波も静かに舟うけていく千万(ちよろず)の魚かうるらむ

　望東尼が姫島に上陸した際、桟橋で見かけた女の子が、気安く話しかけてきた。望東尼のことを「おばあちゃん」と呼ぶので、本当の孫のように思えた。年が明けると島人たちは、海の幸・山の幸が入った雑煮を持ってきてくれた。
　獄舎には、いろいろな生き物が侵入してくる。ネズミ、ムカデ、クモ、アリなど。いちいち怖れていては、ここでは生きていけない。彼らも大切な仲間なのだと割り切って、安全な場所に逃がしてやったりもした。

島抜け
　入獄から半年ほどが過ぎた慶応2年6月。幕府軍十五万の軍勢が、第二次長州征討に打って出た。だがその時、既に薩長連合（同盟）が成立していて、幕府軍の一翼を担っているはずの薩摩軍の姿は幕府軍の中にはなかった。
　幕府軍は四方（小倉口・石州口・大島口・芸州口）から長州軍を攻めたてた。だが幕府軍の旧式装備では、七千の長州軍を負かすことは出来ない。そこで、将軍家茂の死去を機に、征討を中止することにしたのである。
　その年、慶応2年9月16日の夕刻。姫島の船着場に、帆掛け船が碇を下ろした。降り立ったのは男が五人。船には武士風の男一人と船頭が残った。
　男らは、志摩の中央に座る鎮山の急坂を、二手に分かれて駆け上がった。望東尼が閉じ込められている獄舎へは、小藤四郎と権藤幸助、それに泉三津蔵の三人が向かった。

現在の姫島漁港

　到着した小藤四郎が獄舎内に向かって、小さく声をかけた。
「おハハウエ、お迎えに上がりました。小藤四郎です」
　中から呻くような声が返ってきた。獄中に望東尼がいることを確かめた権藤幸助が、持参した木槌で錠前をたたき壊した。
　突然の侵入者に驚く望東尼。声をかけたのは、紛れもなく、かつて平尾山荘に出入りしていた小藤四郎である。
「高杉晋作どののお指図で、ハハウエをお迎えに上がりました。細かいことは後ほどゆっくりと…。荷物は最小限にして、さあ、参りますぞ」
　促されて望東尼、立ち上がろうとするが膝に力が入らない。
「おつかまりください、手前の肩に」と、権藤幸助。
　背中を向けた権藤には、かすかながら見覚えがある。いつしか志士らと連れだって平尾山荘にやってきた者である。その時、珍しい茶菓子を差し入れてくれたことを思い出した。
「して…、私をこれからどこに連れて行くのです？」と、小藤に訊く。
「長州の下関まで」と、小藤が答える。「長州」と聞かされても、そこがどんなに遠いところなのか、考えが及ばなかった。陽が唐津の海に落ちていく。近所の民家から漏れている灯りが道標(みちしるべ)である。
　背負われて船着場に向かう際、下から上ってくる女とすれ違った。獄舎に夕飯を運ぶフジである。
「あのう」、見知らぬ男に背負われている望東尼に、声をかけた。
「おフジさん、もうご飯はいらないよ。これから遠いところに行くけれど、心配ないからね。島のみなさんに、くれぐれもよろしゅう伝えて」
　事情を察したフジは、桟橋に急ぐ望東尼を、声を押し殺すようにして見送った。
　船を降りた一方の二人は、福岡藩を脱藩した藤 四郎と対馬藩を脱藩して長州領内の下関に居留する多田荘蔵である。二人は、獄舎から更に上ったところの岡定番屋敷(おかじょうばんやしき)に向かった。
「藩命により参上致した。この度、朝廷から、野村望東を釈放いたせとの命令が下った故、身柄を当方で預かる」
　藤 四郎が、わざと声を大にして相手を威嚇した。出てきた定番役の坂田嘉左衛門は、何事が起こったのかさえはっきりしない様子。
「そんなはずはない。囚人の管理は定番役の拙者の仕事。しばし待たれよ。当方より真偽のほどを確かめる故」
「何を申すか！この期に及んで…」
　藤 四郎の方は、押し問答しながらも一向に慌てる風がない。その時である。港の方から「ズドーン」と、銃砲の音が響き渡った。
「何事じゃ、あれは？」
　坂田が質すが、庭番も小首を傾げるばかりではっきりしない。

姫島から仏崎を望む

「困ったご仁じゃ」
　藤 四郎は、坂田嘉左衛門を睨み付けた後、多田を促して駆け下りていった。
「どうもおかしい。あの者らは、本当にお城の遣いなのだろうか。もう一度問い詰めなければ…」
　坂田が慌てふためいて小藤らを追いかけた。船着き場に駆けつけたとき。望東尼らを乗せた帆船は、暮れかかった彼方の仏崎岬の彼方まで遠ざかっていた。
「しまった、遅かったか！」
　地団駄踏む坂田嘉左衛門。こうして藤 四郎らによる望東尼救出作戦は成功した。鎮山の頂が見えなくなり、舳先で胸をなで下ろす藤 四郎と小藤四郎であった。(第7部に続く）