第2部 上方なにわ編

旅立ち
 夫貞貫がこの世を去って二年が過ぎた。未だ山荘での一人暮らしが、身につかない望東尼である。
 諦めきれない望東尼は、師の大隈言道に会えないのなら、こちらから出向いていこうと決意した。実現すれば、頭を丸めて初めての遠出である。これには、野村家の当主となった貞和が猛反対した。義母の年齢は既に五十六歳に達している。齢(よわい)六十といえば、完全に老人の域に入る時代である。義理とはいえ、上方までの遠出を、見て見ぬふりなど出来るわけがない。それでも、望東尼は譲らなかった。
 この決断が、後の彼女の人生を決定づけることになる。望東尼にとって、生まれて初めての上方旅行だったが、旅の心細さは少なかった。大坂には、野村家の縁者も住んでいるからである。
親類や知人に見送られて福岡を発ったのが、文久元(1861)年十一月二十四日の早朝であった。旅をともにしてくれるのは、福岡藩京屋敷に出向くという野坂常興と、所用で上方に向かう親類筋の藩士高谷弥太夫であった。野坂は、大隈言道の和歌詠みの弟子でもある。
 出立する時期、江戸では佐幕派と勤王攘夷派の対立がますます激しさを増していた。だが、それらの事件が、望東尼の足を止める枷(かせ)にはならなかった。望東尼の旅が始まった。供をする野坂と高谷は結構気が合うらしく、終始賑やかな旅となった。赤間宿から六反田・黒崎を経て大里(門司)に通じる、唐津街道を徒歩で行く。門司で渡し船に乗り馬関(関門)海峡を渡って下関へ。福岡から馬関海峡にたどり着くまで七日間を要したことになる。下関を出航したのが十二月一日朝であり、乗り込んだ船は、大型帆船の弁才(べざい)船(せん)である。


関門海峡

 途中、三人は気ままに船を乗り降りしながら名所旧跡に足を踏み入れた。これも望東尼の当初からの目当てであった。多度津港を降りてからは金比羅宮に詣でる。象頭山の高い所に造られた金比羅さんを目指して七八五の石段を登り終え、達成感を味わう。降りてきた後は参道沿いの大きな旅籠に泊まり、船上での不安定な寝床からしばし解放される。


金比羅宮参道

 兵庫に着く頃、赤穂城を船上から望み、かつての赤穂浪士を偲んだ。六日目には、上陸して楠木正成の墓地を訪ねた。この墓には志士らも多数参拝していると聞いたことがある。
 大坂港に入ると、安治川を遡り中之島で下船した。七日間の船旅はここで終わった。

恩師との再会
 中之島で船を降りた望東尼らは、福岡藩の御用商人を努める津嶋屋の屋敷に草鞋を脱いだ。翌日は早速高谷と二人で、今橋に住む大隈言道の住まいを尋ねた。二人とも、師との再会は四年ぶりである。
「よう来たな、モトさん。ご主人が亡くなられて、さぞ辛かったろう」
 大隈は、夫婦ともに弟子であった望東尼を労った。改めて再会を喜ぶ間もなく、大隈は望東尼を連れ出した。途中船場あたりを通る際、忙しそうにすれ違う人の多さに酔ってしまいそうになる。


中之島の賑わい

 連れて行かれたところは、大坂で四大呉服商の一人と称される商人の屋敷であった。この家の主人も、大隈言道に和歌を習う弟子だと知らされた。屋敷内の庭や造りは贅を尽くしたものばかり。これまでに見たこともない置物が誇らしげに飾ってある。食事が出て、そのあとに雅な舞踊が座敷を更に盛りたてる。時の経つのを忘れる思いであった。
 次の日に大隈に連れて行かれたのは、鼈甲屋の邸宅であった。剪定された黒松を配した庭園を散策した後には、この日も宴会が待っていた。接待する豪商の妻は、大名の奥方気取りであり、調子を合わせるのに苦労した。それにしても、師匠の顔の広さには、舌を巻くばかりである。大隈言道に紹介される中には、福岡藩の大坂蔵屋敷に勤める者も多かった。
 望東尼は、宿泊所を津嶋屋から本町の旅籠に替えた。そこに、京都の呉服商大文字屋の番頭がやってきた。望東尼は番頭に連れられて、大隈とともに大文字屋の大坂店を訪ねた。店では主人の比喜多五三郎が待っていた。五三郎は、野村家の縁者である。
「ようこんな遠いとこまでおいでなさったな。わては京都の商売人だすが、たまたま大坂に来てましてな。あんさんにお会いでけて、ほんまに嬉しいわ」
 遠い九州から出て来た親戚筋の女流歌人を、上機嫌な面持ちで迎えた。そろそろお暇しようと大隈が目配せしたとき、五三郎が膝を乗り出した。
「わて、あした京に帰るさかい、ご一緒しまへんか」と誘った。
「それはよかですな、モトさん。いや、望東尼さんでしたな。せっかく大坂まで来やはったんやから、ゆっくりみやこ見物でもしてきたらよろしい」
 誘った五三郎より、大隈の方が熱心である。
「もっと、言道先生の傍にいたいから・・・」とも言えず、望東尼は京都行きを承知した。
「ほな、準備もありますやろから、ここらで・・・」
 五三郎も、京都までの道中が楽しみだと言って別れた。

三十石船
 望東尼は、大坂を離れるのが辛かった。大坂というより、四年ぶりに会った師匠の言道と別れるのが切なかったのである。
 翌朝、比喜多五三郎一行は、天満橋(てんまばし)袂の船着場で三十石船(さんじっこくぶね)に乗りこんだ。三十石船とは、土佐堀から大川を経て淀川へ。淀川から宇治川に入り、京都・伏見の港までを往復する三十人乗りの川船のこと。発着場には、言道の使いの少年が現れた。少年は、師からの手紙を手渡すとすぐに走り去った。どうして、ご本人が来てくれないの。言道のつれなさに、心に重いものを感じずにはいられなかった。

  生駒山あとに漕ぎゆく淀舟ののぼりたゆたふわが心かな

 上流に向かって滑り出した三十石船上では、五三郎が左右を指さしながら、得意げに名所旧跡を案内した。途中石(いわ)清水(しみず)八幡宮(はちまんぐう)を通過するときには、五三郎の声がますます大きくなった。淀川は上流に向かって、石清水八幡宮あたりで大きく三つに分岐する。奈良に向かう木津川と嵐山への桂川、そして望東尼らが向かう伏見方面への宇治川である。


復元なった二十石船(京都伏見区)

 伏見の船着き場は、宇治川の途中に設けられていた。
船着場が近づくと、やはり傍に言道の姿がないことが気になる望東尼であった。

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