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第3部 上方京都編
物見遊山
比喜多五三郎の邸宅は(かみだちうり)、現在の上京区上立売町に建つ大文字屋本店と隣り合わせにあった。上陸した伏見宿から上立売まで、距離にして3里余り。陽が落ちているせいもあって、どこをどう進んだのか見当もつかない。
「御所はすぐそこだす。反対方向に歩くと間もなく金閣寺…」
主人一行を出迎えた番頭が、客人の望東尼に説明した。翌朝知らせを受けて、福岡藩京屋敷に勤める藪幸三郎がやってきた。大文字屋は、福岡藩京屋敷の目と鼻の先に暖簾を張っている。
京都を案内すると言う藪に、淀みなく御所へ連れて行ってくれるよう頼んだ。大文字屋を出ると、すぐに今出川通である。番頭が言うように、京都御所は歩いてすぐのところであった。

京都御所
この塀の向こうには、大君(おおきみ=天皇)や公卿さまなど、雲の上の方々が大勢お住まいになっておられる。そう考えるだけで、身震いするほどの感動を覚えるのだった。遙か彼方まで続く玉砂利を踏みしめながら、手入れされた黒松の列を伝うようにして進んだ。
ふるさとを出立して1ヶ月が経った大晦日。夜中になると、八方から除夜の鐘がもの悲しく伝わってくる。明けると、望東尼にとって運命的な文久二年が待っている。明治維新から遡ること6年前である。彼女にとっては57歳の新春であった。
せっかくの京都滞在である。この機会に、一カ所でも多くの名所を巡り、和歌つくりの糧にしなければと思う。まさしく田舎者の物見遊山であった。
元日の朝。京風のお雑煮をいただいた後は、散歩コースにもなっている御所の前に出た。この日案内してくれたのは、主人の五三郎夫妻である。途中すれ違う鳥帽子姿の朝廷人を見る度、興奮を抑えきれない。1月3日は下鴨神社に足を踏み入れる。この日から、案内役は手代の馬場文英に替わった。4日は上賀茂神社へ。5日には大文字屋主人の手回しで、特別に御所内に入ることが許された。
御所内では、新年を祝う千秋(せんず)万歳(まんざい)や猿楽(さるがく)が賑やかに催されていた。千秋万歳とは、中世期に存在した民俗芸能のことで、大道芸の一種である。猿楽は、能と狂言で構成される能楽の一種。子供の頃からの願望であった、みやこ人との触れ合いが現実のものとなった。
大蔵谷回駕
文久2年4月15日。大文字屋の主人に誘われて伏見に出かけた。福岡藩主の黒田長溥(くろだながひろ)、参勤交代の途中京都に立ち寄ると聞きつけたからである。五三郎はこの際、親類筋にあたる女流歌人の望東尼を、藩主に引き合わせる魂胆であった。
「大坂から上ってきたときは、陽が落ちていて暗かったさかい。周囲がよう見えんじゃったから」
言われて眺めれば、宇治川からひかれた人工河川の周辺は、華やかな遊郭群がひしめいていた。
「ここは酒造りの本場じゃから…。酒のあるところに男の遊び場が集まるというさかい」

京都伏見の寺田屋
現在の京阪電鉄中書島駅から歩いてすぐの、伏見川港一帯である。
「あの建物は?」
望東尼が目を向けた建物の軒先には「船宿」の提灯が下がっている。
「寺田屋といいますねん。聞くところによると、薩摩などのお侍さんが、毎晩のようにお泊まりだそうな」
京都に着いて間もない望東尼である。それだけの説明では、この時代の政争の奥深さなどわかりようがない。世に知られる「寺田屋事件」は、望東尼が船宿の前に立ってから八日後に起きている。寺田屋事件とは、京都伏見の船宿寺田屋のことで、薩摩藩主の父島津久光の指示により、尊攘派志士が殺傷された事件のことをいう。
大文字屋五三郎と望東尼が待つ福岡藩主の行列は、いくら待っても現れなかった。やむを得ず上立売に戻った五三郎、藩主の遅れを福岡藩邸に問い質した。返ってきた答えは、不穏な人物の妨害により、参勤交代の行列を取りやめて、福岡に引き返したとのこと。
不穏な動きをする人物とは、福岡藩士の平野国臣(ひらのくにおみ)のことである。望東尼は、平野という人物の名前は聞いているが、未だ会ったことはない。この度の事件は、比較的平穏に過ごしてきた福岡藩を、「明治維新時の隠れた主役」に押し上げることになるのである。
望東尼のみやこ見物は、滞在期間が半年になってもなお続いた。このところの案内役は、手代の馬場文英と決っている。四月には上賀茂・下鴨神社で執り行われる葵祭へ。大人気なく、見物客の先頭に出てしまうほどに興奮する。その後も馬場は、奈良・吉野方面など、遠方へも進んで案内した。
4月も終わりの頃、望東尼は、公家の千種有文を訪ねた。千種には、編纂中の歌集に序文を書いてもらうつもりであった。千種有文といえば、孝明天皇の妹和宮を徳川家茂に嫁がせる、所謂公武合体論に熱心な公家である。望東尼が訪れた4ヶ月後には、公武合体派の千種有文は閉居の身となっている。結局、依頼した序文が、望東尼の許に届くことはなかった。
平野国臣
望東尼は、嵐山見物の帰り道、頭から離れないことを馬場文英にぶっつけた。
「どうして、薩摩の島津さまは、身内のご家来衆をお斬りになったのでしょう?」
「千種有文さまが、糾弾されなければならないわけは?」
みやこ見物で心が浮つきがちだった望東尼が、目の前で見せつけられた「事件」の意味を理解したかったからである。馬場文英は、望東尼からの問いに、しばし目を閉じて考え込んだ。次に見開いた目は、みやこ案内時に見せるにこやかさが一変していた。ギラギラ光る眼が彼女の表情をも固まらせた。
「貴女が考えているほど、今の世の中は平穏ではありませんよ」
「どういうことなの? 平穏じゃないって」
望東尼もつい大きな声で聞き直した。
「いつ京都で戦いが始まるかわからないということです。これ即ち、幕府の力が日に日に落ちてきて、公武合体論が力を増してきたからです」
公武合体論とは、公家(朝廷)と武家(幕府)が提携して、政局を安定させようとする主張のことである。
「もう一つ、お尋ねしてもよろしいか?」
「どうぞ」
「先日大文字屋のご主人と伏見までご一緒した際のことです。黒田のお殿さまを乗せた駕籠が、伏見宿においでにならなかった本当の理由(わけ)を教えてください。回駕の原因となったとされる平野国臣とはいったい…」
「平野さまは、尊王攘夷論を世の中に広げているお方です。黒田のお殿さまも、行列を妨害した者が誰かくらいはわかってらっしゃったはずです。しかし藩内には、尊皇攘夷派のお方もたくさんおられるし…」
馬場が彼女に伝えた大蔵谷回駕の顛末は、次のようなものであった。
望東尼らが伏見で待った4月15日より2日前、福岡藩主の黒田長溥公を乗せた行列が、播州大蔵谷宿に到着した。その時、本陣に男が入ってきて、藩主への面会を申し出た。応対した者が断ると、男は「京都滞在中の島津久光公からの書状でござる」と言って、懐から取り出した書状を手渡してすぐに立ち去った。
あとで書状を確かめた藩主が驚いた。薩摩の島津久光公からとは真っ赤な偽りであり、黒田長溥公宛て「平野国臣」名義の建白書であった。内容は、「我ら尊皇攘夷派の同士とともに、倒幕の戦いにご賛同いただきたい」というものであった。
黒田長溥公は、平野国臣からの書状を見て、急ぎ参勤の方向を福岡に逆転させた。これが、後の世まで伝わる「大蔵谷回駕」と呼ばれる事件である。
「それで、平野さまはどうなされたのですか、その後」
「帰国途中、福岡藩の役人に捕まったそうです。それ以上は私にもわかりません」
公武合体論を振りかざす公家と武家、武家社会を死守しようとする佐幕派との対立は、抜き差しならぬところまで進んでいると馬場文英は言う。
「それでも、この国には天皇さまがおいでです。かけがえのない、崇拝すべき…」
「私の考えも、貴女と同じです。いかに世の中が変わろうとも、天皇さまの立場は変わってはいけないのです」
それならば、公武合体を持論とする千種有文さまの立場はどうなるのか。望東尼の考えは、それ以上先に進めなくなった。馬場の話を聞いて望東尼は、京都で物見遊山に呆けている自分が情けなく思えてきた。
賀茂の競べ馬
京都滞在も半年が過ぎた頃、望東尼は心境を詠んでいる。
ふるさとも菖蒲葺(あやめふくかと競馬(くらべうま)見るうちさへも思ひやられし
間もなく京都を後にしようとする5月、すっかり馴染みとなった、上賀茂神社で観た競馬の感想である。競馬とは、天下太平と五穀豊穣を祈って行われてきた神事のこと。
半年の間、ふるさと福岡の地を離れて、すっかり都の風に酔いしれていた。もの珍しさと、我が身の400石取りの立場の有利さに甘えた旅でもあった。京都を離れる際には、馬場に大坂まで送ってもらった。馬場文英とは、福岡に戻った後も連絡を保ちたかったからである。
浪速潟(内我が田)なごりの波にこぎわかれ君のたよりをふるさとに待つ
馬場に対する惜別の念を詠めば、馬場文英も
浪速潟なごりの海はへだつともよせくる波に音づれやせむ
と返して、将来の再会と今後の交流を誓った。 大阪に立ち寄った望東尼は、名残惜しさも手伝って、再び大隈言道の家を訪ねた。だが大隈は、遠方に出かけているということで留守だった。わざわざ九州から出向いてきたのは、大隈言道に叱咤激励を受けるためではなかったか。悔しさと切なさを重ね合わせながら、大型帆船の弁財船に乗り込んだ。(第4部に続く)
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