
福岡市内に定住して四十年。お粗末ながら、すぐ近くに保存されている貴重な「歴史遺産」を見過ごしてきました。福岡市中央区平尾五丁目に建つ平尾山荘のことです。尊皇攘夷派と佐幕派が激突した江戸末期、ここ平尾山荘も重要な舞台となっていたのです。
平尾山荘の住人野村望東尼(のむらぼうとうに)(得度以前の名前・野村モト)は、大田垣蓮月・中山三屋と並ぶ、江戸時代後期を代表する女流歌人でした。特に、野村望東尼と中山三屋は、勤王女流歌人として討幕運動にも貢献した人物です。執筆にあたり、改めて平尾山荘とその周辺を探索しました。復元された山荘は、西鉄電車の平尾駅と動・植物園で賑わう南公園の丁度中間地点にあたります。山荘の周辺でまず気がつくのは、坂道だらけの住宅街であること。城下に隣接した里山からなる農村地帯でしたから、当然のことではあります。
望東尼が過ごした当時の平尾村を、手元の郷土史で紐解いてみます。戸数は一五〇戸、人口六四三人、田五三町歩、畠一七町余とあります。
江戸末期、そんなのんびりした丘陵地帯に、藁葺きの一軒家が建ちました。家の広さは、六畳・三畳・二畳の三間で、厨房と土間を合わせても一〇坪に満たない。家の周りには松林が密集していて、外からでは中を伺うことも出来ません。それが、野村望東尼の平尾山荘だったのです。
明治維新直前、新しい世を築くために体を張って闘った女性・野村望東尼が、この福岡の地にいたことを、ぜひ皆さんに知ってもらいたいのです。
本編を執筆するにあたって、平尾山荘を守る平尾望東会と同会顧問で「野村望東尼」研究の第一人者である谷川佳枝子先生に、大変なご指導とご協力を頂きました。
古賀 勝

第1部 仏門に入る
第1部 仏門に入る
二十四歳で後妻に
望東尼の前半生を、少しだけ振り返っておきたい。結婚する前の名前は浦野モト。文化三年(1806年)、福岡藩士浦野重右衛門勝幸の三女として生を受けた。父親の石高は三百石であった。
産声を上げた場所は、福岡城の南門にあたる追廻(おいまわし)橋(ばし)を出てすぐの、御厨後(おうまやのうしろ)である。現在の住所でいえば、中央区赤坂三丁目。護国神社の東側一帯を指す。
近所には、御馬方や鷹匠など、二百石から五百石取りの中級武士が多く住んでいた。モトの父親も御馬方に組み入れられていたようだ。
モトは、生まれるとすぐから、父親が決めた道を進むことになる。幼くして習いごとや行儀見習いに追われ、十七歳で十五歳上の藩士と結婚させられることになった。だが、年齢の離れ過ぎた夫婦生活はうまくいかず、半年後には嫁入り先を出て実家に戻ってきた。
その後のモトは、幼い頃から習っていた和歌詠みに没頭した。近所の仲良しと通った二川塾(ふたがわじゅく)は、その後の歌人としての人生を形成する大きな踏み台になった。
モトの二度目の結婚は、二十四歳の時だった。夫婦とも再婚である。相手は、やはり福岡藩士で、四一三石とりの野村(のむら)新三郎(しんざぶろう)貞貫(さだつら)。年齢の差十二で、石高は実父よりかなり格上である。
モトの姓が、浦野から野村へと変わった。嫁いだ先は、城下の林毛町。現在の国体道路沿いにあたる。後妻としての嫁ぎ先には、先妻の男の子が三人いた。長男は早逝していて、次男の貞則、三男は貞一、四男は雄之助である。モトは、後妻として生きていくために、義理の子らに心遣いを惜しまなかった。時を経ると、世の習いとして、三男と四男は他家へ養子に出されることになる。次男の貞則だけが野村家に残って家督を継承することに。
夫貞貫は生来身体が弱く、その上藩内での出世争いを得意としない優しい性格の持ち主であった。結婚後十六年が経過した頃。貞貫は成長した貞則に早々と家督を譲り、隠棲することをモトに告げた。平尾村に隠居屋を建てて暮らすと言う。新しく建てる家は、実家の野村家から半里ほど南方の丘陵地帯にあった。
「ここなら、何かと気を使う武家屋敷から離れる故、気持ちも落ち着くだろう。それに、子供や孫に会いたければ、気軽に行き来出来る近さだし」
モトにも言い返したいことはあったが、黙って従うことにした。
ヤマ暮らし
「わしも、モトに負けないように、大隈先生のもとで和歌づくりに励みたい」
平尾山荘に家移りしてしばらく経つと、貞貫が言い出した。大隈先生とは、夫婦共通の和歌の師匠である大隈言道(おおくまことみち)のこと。
夫婦は、揃って今泉(現警固神社近く)に構える大隈言道の塾に通うようになった。その頃に詠んだ望東尼の歌が残っている。
ほどもなき寛の水のしたたりもたりあまりたる谷の一つ家
師の大隈言道は、モトの才能を見込んで歌集をつくるよう誘った。その後は、大隈言道の指導を受けながら、「歌集向陵集」の編集に没頭することになった。「向陵」とは、平尾村一帯の地名から名付けたもの。
平尾村に転居してから十年が経った頃、夫の身体が痩せ細っていった。医者に診てもらうが、はっきりしたことを言ってくれない。いよいよ、最悪の時がきた。夫は、山荘に駆けつけた跡取りの貞則や孫の助作などが見守る中、黄泉の国へと旅立ったのである。安政六年七月二十八日の早朝であった。貞貫、享年六十六歳。
夫が残した子供や孫たちの行く末を、すべて後妻の自分が見なければならないことを考えると、行く末が心配で仕方がなかった。僧侶の読経の間、微笑んでいるようにさえ見える夫の顔が、恨めしくもなった。そのとき浮かんだ感情を詠んだ句である。
うち群れて庵(いお)はいづれど君ひとり帰らぬ旅となるぞ悲しき
山荘に一人取り残されたモトは、ありったけの声をあげて泣いた。山荘が松林に囲まれているため、誰一人彼女の叫びを気にかける者はいなかった。
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野村望東尼の生前墓(左端)
貞貫の初七日が過ぎて、モトは野村家の菩提寺である呉服町の明光寺を訪ねた。(現在の明光寺は、吉塚に移転している)。住職に得度(出家すること)を願い出るためである。住職は、仏門に入る心得の遵守を条件に承知した。
「そなたの名はモトであったな」
住職は、一枚の紙にモトに与える法名を書いた。「招月望東禅尼(しょうげつぼうとうぜんに)」が、これから先のそなたの名である」
この世に生を受けて以来五十四年、慣れ親しんできたモトの名と決別するときであった。
「ご住職さま、もう一つお願いがございます」
モトは頂いた自分の名前にたじろぎながら、次なる願いを申し出た。
「野村家の墓の傍に、もう一つ私の墓を建てとうございます。私も、夫の傍で眠りたいのです」
聞いて驚いたのは、住職である。
「この墓は、亡くなられたお方が眠る場所ぞ。現にそなたはそこに生きているではないか。ご遺体と同居出来るわけはなかろう」
「わかっております」
望東尼が言うのは、生きている自分の墓を建てる「生前墓」のことである。「生前墓」なら、生きている者の長生きのお呪いとして、仏も許されるだろう。間もなくして、望東尼は夫が眠る墓の脇に小さな墓を建てた。墓標には、「望東禅尼墓」と彫った。そして墓室に、住職に剃り落として貰った自らの頭髪を納めた。
夫に取り残された気持ちの望東尼が、武家の妻女として、家族や一族に対するせめてもの主張であったのかもしれない。
庭の池で泳ぐ鯉にうつろな目を向けながら、モトの目頭は濡れたままであった。残された人生を、これから女一人でどのようにして過ごせばよいものか。
孫の成長
大隈言道に勧められて始めた歌集「向陵集」の編纂も、なかなか先に進まない。こんな折には、師匠からの叱咤激励が必要なのだが、その人は大坂に去っていて、今は福岡にはいない。すぐにでも師匠に会いたいと、胸が締め付けられる。
そんな折、杉土手の本家から孫の助作が訪ねてきた。助作は二十二歳になっている。元服も済ませていて、月代(さかやき)の青さがなんとも初々しい。
「おばば上、何をしているのですか」と近づいてくる。わざと知らぬふりをしていると、「ぼんやりしていると、池に落ちて鯉にかじられますよ」と孫が大声で注意した。慌てて縁側に座り直すと、助作も温もりが伝わる隣に座り込んだ。
「おばば上は、元気で歌を詠んでいるかと、みんな心配しております」
助作は、実家との連絡役を担っているようだ。そこに瀬口三兵衛がやって来て会話に加わった。三兵衛は助作より七歳上の藩士で、助作のよき指南役でもある。務めの傍ら、山荘にきては望東尼に和歌づくりを教わっている。お城の内情や城下のことなど、事細かに情報を伝えてくれるのも三兵衛であった。

当時の平尾山荘(山荘資料館)
望東尼は、丸めたばかりの自分の頭を撫でながら、助作と三兵衛の会話を楽しそうに聞き入っていた。山荘にやって来る若き藩士たちは、望東尼のことを「ハハウエ」と呼ぶ。
「おハハウエ、江戸では大変な騒ぎが続いているそうですよ。長州の吉田松陰先生が、江戸まで連れて行かれて、伝馬町の獄舎で打ち首に遭われたとか。最近では、幕府の大老さま(井伊直弼)が、江戸城を出られたところで襲われたそうです」(桜田門外の変)。
「それは大変だ。天皇さまや公卿さまたちが、無事であればよいが」
近い将来幕府による取り締まりが、我が身にまで及ぼうとは、このとき考えも及ばないことであった。毎日やってくる瀬口三兵衛から、お城の中のことや藩内の出来事などを聞くのが、山荘外との唯一の繋がりにもなっている。(第2部に続く)