中世騎士文学/パルチヴァール-Parzival

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「パルチヴァール」と「ニーベルンゲンの歌」について


パルチヴァール【Parzival】

成立 12世紀末〜13世紀初頭(1200年以前から執筆開始〜1210年ごろ完成)
作者;ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハ(PN)

アーサー王伝説を模した騎士文学。「ニーベルンゲンの歌」を遥かに上回る量の写本が残されており、
今日、最も研究書の多いドイツ文学と言われている。

タイトルどおり、主人公は、のちのマロリー版で「パーシヴァル」と呼ばれている円卓の騎士の一人。フランスの叙事詩作家、クレティアン・ド・トロワの作品「ペレスヴォ」が元になっている。


以上が、作品の大まかなデータになる。

* * * * *

まずは、この物語について大まかなところを説明しておこう。
「パルチヴァール」は、「ニーベルンゲンの歌」とほぼ同時代に書かれた中世騎士文学だ。作者はヴォルフラムという人物。物語は、この作者による語りという形式を取って進められる。

同時代に書かれているとはいえ、この物語は「ニーベルンゲンの歌」のような北欧神話に関係した物語とはあまり関係がない。物語中に登場するアルトゥース王はアーサー王のことを指すし、主人公パルチヴァールは英語読みでパーシヴァル。さらに、ガーヴァーンは、アーサー王の甥ガラハッドに当たる。円卓の騎士たちも、もちろんグラール(聖杯)だって出てくる。つまりケルト神話やアーサー王伝説に属する物語なのだ。

ストーリーは、パルチヴァルの父ガハムレトの代から始まり、少年パルチヴァルの旅立ちと成長、迷走、そして聖杯探求の旅へと続く。途中から副主人公へ話が移り、ガーヴァーンによる聖杯探求も行われる。
いちばん最初に書いたとおり、この物語は「ドイツで最も研究されている文学」なので、このあたり、解釈や解説はかなり膨大な量になる。(と、いうことは、もちろんドイツでは知名度が高いはず。)

この物語は何も知らず単体で読んでも面白いのだが、先に「ニーベルンゲンの歌」を読んでから手にすると、その比較がなお一層面白い。当時の騎士たちの暮らしぶり、「ニーベルンゲン」では語られなかった「騎士たちの心構え・奉仕」といったもの、階級についてetc...が、とても詳しく出てくる。
それはつまり、「パルチヴァール」とほぼ同時期につくられた「ニーベルンゲンの歌」もまた、同じ時代背景や社会構造の下に書かれたということを意味している。なのに、後者には、ほとんどキリスト教の影響が見られない。
「ニーベルンゲンの歌」の登場人物たちは、「ただ争うために教会に行き」(Byゲーテ)、決して神には祈らず、おのが力のみにおいて運命を切り開こうとする。神の祝福を受けた者はただひとり、クライマックスでクリエムヒルトを誅殺するヒルデブラントだけだと言われている。
ここに、「ニーベルンゲンの歌」が「異教的」であると言われる理由がある。パルチヴァールは、純粋なキリスト教世界では認められない存在…妖精族の血を引くとされながら、神のご満悦によって創られた存在であり、運命の導かれるままに聖杯探求の旅に出る。その運命とは、誰が定めたものか? 古代北欧の女神ノルニルではない。他ならぬ、創造主たる神ご自身だ。

時代は同じでありながら、全く異なる世界に属する2つの物語。
著者ヴォルフラムは荒っぽいゴート族の血を引くフランケンの出身。そして下級とはいえ、彼もまた、騎士の一人であった。
少なくとも、騎士たちの闘争本能はゲルマン的であるはずなのだが…。もしもあなたがその時代に逆戻りするなら、人々の内なる荒ぶるゲルマンの血と、表なる穏やかなキリストの血と、一体どちらを見出すだろう?


なお、18世紀にワーグナーによって作られ、上演されたオペラ「パルジファル」は、この「パルチヴァール」のストーリーを、かなり端折って作ったものである。


ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハについて


自分で言うのもおかしいが、私は真面目な感想文がたいへん不得意だ。
小学校の時でも、読書感想文なるもので先生に誉められたためしがない。マジメに書くと他人行儀すぎ、正直に感想を書くと個人的すぎるといわれる。
だが、書くことは当時から大好きだ。だから今、こうして誰かに頼まれたわけでもないのに文章を作っている。ホメられたことがないくせに書きたがるのだから、私は真の意味で物書きという種族なのだろう。だから、叙事詩作家たちとも分かり合える。時代を越えて、彼らと私の心は常にひとつだ。そう、彼らは過去の私であり、私は、未来の彼らなのである。…

…いきなり何を言い出すんだこの人は、自分語りとかウザい。そう思っただろうか。
まあ落ち着いてほしい。

何を隠そう、実はこれ、「パルチヴァール」の作者、エッシェンバハ氏の真似ごとなのだ。彼は、自己顕示欲のやたらと強いお人で、物語の中の随所随所に自分の個性をアピールしたがる。物語の中で突然、冒頭の語りのような話をし始める人なのだ。単に語り手としてではなく、その物語を見渡す「視点」として。 →関連:ヴォルフラム迷言集

彼は、どこまでも、作品を「自分のうちなる世界よりの使者」として扱おうとする。

彼につきあって話を聞いていると(本を読んでいると)、こっちまでつられて饒舌になってきてしまうかもしれない。ストーリーが盛り上がってきて、「次はどうなるんだッ?!」ってときに、「…まぁ、私ならこのような場合は、こうこうして、ああで、こうなんだが」なんて個人的な語りが入ると、ガクっと来てしまうかもしれない。「ああ、もう! そんなんいいから、とっとと次行って、次! んで? その遠征の結果は、どうだったのよ。」「おお、そうそう。そしてその時、彼等はかくも雄雄しく…」
こんな具合で、読みながら作者と心の会話をしつつ話が進んでいき、気がつけば、こっちまで話の中にひきずりこまれてしまう。逆に言うならば作者と気が合わなければこの作品は全く評価できないものになる可能性がある。

ヴォルフラムはひねくれ者で、目立ちたがりやで、話は長いが面白い。それが、彼…「ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハ」という私の新しい友人だ。話長いけど、基本は気のいいオッサンなので、ちょっと相手をしてやってほしい。(笑)



二人の主人公、パルチヴァールとガーヴァーンについて



もちろん、この二人については沢山語るべきことがある。だが、詳しくは人物紹介のほうにまわすとしよう。
この二人は、どちらも円卓の騎士であり、前半と後半の主人公でもある。と言っても、パルチヴァールは円卓に加わってすぐにそこを去っているので、彼らが深く友情を持つようなことは無かった。

一言で比べるなら、真の主人公であるパルチヴァールは不安定で、幼く、前半から後半にかけて少しずつ成長していく愛すべき人物である。対して、ガーヴァーンははじめから完成されており、終始「彼らしく」振舞いながら話を進めてゆく、理想の人物と言える。物語は、この二人の対比によって織り成されていく。
パルチヴァールは、その未完成がゆえに過ちを犯し、無知であるがゆえに人々をひきつけ、忠実であるがゆえに消えない罪を背負う。彼の罪は、人々の罪である、と解説者は言う。彼の背負う十字架は人々の持つものでもある、と。
しかし、私はクリスチャンではないし、磔の男にも興味は無い。むしろ、彼が妖精族の血を引くという一点が気にかかる。

そうなのだ、彼の家系は妖精の家系なのだ! 妖精の血を引く者たちは、美しく、一途で、ロマンチストで、力強く不安定だ。「ディートリッヒ伝説」のヴィテゲもそうだった。だから、いい意味でも悪い意味でも、平穏な人生は送れない。つねにドラマティックな展開が彼らに約束されている。当然、恋人になった女性は、たいへん苦労する。妖精を城の中につなぎとめておくのは至難の業だからだ。

ガーヴァーンは安定しているぶん、面白みは無いが騎士らしく物語を進めていく。
神を呪い、自らの罪を消すために聖杯探求の旅に出てしまったパルチヴァールの後をついで読み手の視界に現われてくるこの人物は、運命のもと、結局はパルチヴァールと同じ道をゆくことになる。

さらに後半は、パルチヴァールの、一度も会ったことのない腹違いの兄フェイレフィースも登場して、若者たちの運命が交錯する。盛り上がり最高潮。果たして聖杯城は見つかるのか? それを手にすることは、主人公にとって何を意味するのか?



口元に得意げな笑みを浮かべた我が友人ヴォルフラムは、望めばあなたがたにもこの物語を語ってくれるだろう。さあ、本を手にとりたまえ。彼は夜もすがら語り続ける準備を整えて、そこで待っているだろうから。



○邦訳:「パルチヴァール」 郁文堂出版(1974初版)
  今のところ廉価な文庫版は出ていないので、図書館ででも探してください(^^

※全訳本が出版される以前の資料では「パルチファル」だったり「パルチヴァル」だったりと登場人物の名前も違っているのだが、全訳本が出されて以後は統一されているようなので、このサイトでは、登場人物・地名はすべて、郁文堂版の表記に従った。




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