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ドクター・クリーム
Dr. Thomas Neill Cream (イギリス)



ドクター・クリーム


ストリキニーネの瓶が並ぶ医療カバン

 おいしそうな名前だが食べてはいけない。この男は史上稀にみる凶悪な毒殺魔なのだ。理由もなく人を殺し、そのことを自慢したがっていた。その自己顕示欲は今日の連続殺人犯、例えばゾディアックやBTKの先駆けである。

 1850年5月27日、グラスゴーで生まれたトーマス・クリームは、両親と共にカナダに移住後、モントリオールのマクギル大学医学部に入学した。卒業する頃、恋人のフローラ・ブルックスが妊娠し、クリームの中絶手術で死にかけた。激怒したフローラの父親は、娘と結婚して責任を取るように迫った。結婚式の翌日、クリームはトンズラして故郷に逃げ延び、そこで医師の免許を取得した。

 やがてアメリカに渡ったクリームは、シカゴで中絶医院を開業して荒稼ぎした。何人か殺したようだが、それはうまくバレずに済んだ。やがて事業拡大を図って癲癇治療薬の販売も始めた。インチキであることは云うに及ばず。さほど害はなかったが、効きもしなかったようだ。

 1881年6月14日、患者のダニエル・スコットが苦悶の末に死亡した。死因は癲癇の発作として片づけられたが、クリームは何を思ったのか、検視官にスコットを墓から掘り出して解剖すべき旨の手紙を出した。解剖の結果、ストリキニーネが検出された。クリームは逮捕され、終身刑を宣告された。
 ところが、刑務所での模範的態度が評価されたクリームは僅か10年で釈放されてしまう。そして、カナダに立ち寄り1万6千ドルの遺産を受け取るとロンドンに渡った。1891年10月7日のことである。切り裂きジャックの騒動が治まったばかりのロンドンに、新たな殺人鬼が舞い降りたのである。

 10月13日、売春婦のエレン・ダンワースが客引きをしている最中に路上に崩れ落ちた。そして「シルクハットを被り口髭を生やした斜視の男に白い液体を飲まされた」と云い残して死亡した。死因はストリキニーネ中毒だった。
 10月20日、売春婦のマチルダ・クローヴァーが同様に死亡した。
 明けて1892年4月12日、2人の売春婦アリス・マーシュエマ・シュリヴェルが死亡した。いずれもストリキニーネ中毒だった。

 以上の4件の殺人に前後してクリームは、愛人と呑気にカナダ旅行に出掛けたりもしていたが、隣人の親に対して「お前の息子が毒殺魔であることの証拠を握っている」などと恐喝したり、検視官に「30万ポンドと引き換えに毒殺魔の正体を教えてやる」などと手紙を書き送ったり、「私は一連の殺人事件の全貌を知っている」などと誰彼なく吹聴したりと、とち狂ったとしか思えない自己顕示欲を発揮する。そして、当然の如く逮捕されて有罪となり、1892年11月15日に処刑された。

 なお、彼が首を吊られた時に 「私がジャック…(I am Jack…)」と云いかけて死んだことから、クリームこそが「切り裂きジャック」の正体だとする説がある。しかし「切り裂きジャック」の犯行時に彼はシカゴで服役しており、この説は成り立たない。おそらく自己顕示欲が旺盛な彼は、有名な「切り裂きジャック」として死にたいがために嘘をついたのだろう。
 この点、「男性は首を吊られた瞬間に勃起する」という説を根拠に、クリームは実は「私は射精した(ejaculating)」と云いかけて死んだのだという珍説があることを最後に付記しておこう。


参考文献

『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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