ニネヴェ図書館の科学史漫画その5(後編)
プトレマイオスによる三角関数の完成
ピタゴラスが教団のシンボルとした五角形と五芒星。五角形の頂点をそれぞれつなげると内部に五芒星が現れる。それは同じ三角だけで構成された図形であり、その三角もまた、いくら分割しても同じ三角が現れる黄金分割可能な図形。すなわち、黄金三角であった。五芒星を研究した古代ギリシャの人々はこの黄金三角が二次方程式で記述できることに気がついた。これが「幾何原論」第4巻命題10の内容である。二次方程式の解き方は「幾何原論」第2巻命題11を用いれば良い。以上を応用してプトレマイオスは五角形の作図法を編み出し、五角形の辺を求めることに成功した。あとはプトレマイオスの定理を用いて五角形から六角形を引き算し、それを分割して3度の比を求めれば良い。これを達成したプトレマイオスの手によって、ついに人類は三角関数を獲得し、分度器を作り、自在に角度を測れるようになった。そしてその使用目的とは星占い。教団のシンボル研究を応用し、占術使用を目的として編み出された。詰まるところ三角関数とは、魔法の魔法による魔法のための数学だったのである。
プトレマイオスは五角形の作図にあたって「幾何原論」4巻命題10で把握された黄金三角の特徴を、2巻命題11を用いて二次方程式として解いた。しかしこれで算出できるのは十角形の値である。そこで「幾何原論」第13巻命題10、すなわち”十角形の辺と六角形の辺は五角形の辺と直角三角を作る”を用いる。こうして五角形の辺を導くことが可能だ。これを幾何学で表すと漫画のようになるのだが、作図はあくまでも幾何証明であり、プトレマイオスが行ったのは計算であった。
ちなみに以上の内容は漫画にすると40ページあまりになるが、プトレマイオスの著作「アルマゲスト」の中では第1巻第9章の冒頭わずか1ページ程度の記述にすぎない。この時、プトレマイオスは証明に用いる定理について「幾何原論」の第何巻命題いくつであるとはまったく説明していない。「アルマゲスト」を読むほどの読者なら、「幾何原論」の内容を全て精通、暗記していることは当然のこととされていたらしい。その一方で彼が五角形の作図術をいちいち説明して証明していることを考えると、五角形の作図術は「幾何原論」に精通している読者ですら知らないような知識であったように思われる。多分、五角形の作図術を編み出したのはプトレマイオスが初めてだったのだろう。
なお、プトレマイオス以外にも五芒星/五角形の作図術を編み出したとされる人もいる。例えば幕末日本の和算家、平野喜房がそうであった。ただし彼の作図はプトレマイオスの作図からヒントを得ているらしき話があって、完全に独立した発見だったのかはわからない。幕末の日本は西欧数学に触れていたので、ヒントを得たということは当然ありうる話であった。
あるいはこれは俗説だが、五芒星をシンボルとする平安時代の陰陽師、安倍晴明が五芒星を作図した、という話もネットには散見される。これは漫画「陰陽師」において安倍晴明がコンパスで五芒星を作図したことが由来であった。しかしこの作図術は見た限り平野喜房のものであった。つまりこれは創作。締め切りに追われる中、五芒星の作図を漫画という視覚媒体で効果的に見せる/魅せることに成功した漫画家さんの努力の成果であり、素晴らしい。とはいえ、この描写はあくまで史実ではないので注意が必要ではある。鵜呑みにしている人もいるようなので一応、この旨、付記する。
プトレマイオスの定理はしばしばトレミーの定理として知られている。というか、むしろこの名前で覚えている人が多い。これは英語読みが定着したことが原因。英語圏の人はプトレマイオスをトレミーと読む。つまるところトレミーとはプトレマイオスの英語なまり。
プトレマイオスの英語表記はPtlemyだが、英語では冒頭のpの後にnやsあるいはtが続くと冒頭のpを発音しないことがある。Ptolemyもpの後にtが続くので、pを抜いた読みtlemy(トレミー)となる。pの後に子音が続くとpが発音されないという意見も見たが、これはどうも違う。Plasticはpの後に子音のlが続くが、語頭のpを発音してプラスチックと読むから。
表記されているのに読まない文字を黙字と呼ぶ。日本語で黙字の例としてよくあげられるのが和泉。この場合、発音が”いずみ”なのに書き言葉は和泉で和が発音されていない。英語だとナイフ(knife)がそうで、冒頭のkが発音されていない。言葉は時代と共に変わるが、綴りが昔のままだと、読みと綴りが解離する。Ptolemyと書いているのに読みがトレミーになっているのもそういうことが原因かもしれない、ただし、pの後にtなどが続くとpを発音しない。この習慣はもう定着しているらしい。例えば翼竜のPteranodonを日本人は素直に(正しく)プテラノドンと読むが、英語圏の人は冒頭のpを発音せずにテラノドンと読む。プテラノドンが造語されたのは比較的近代なので、これはもう語頭がptである時、そのpは発音しないという習慣が反映された結果に思われる。
なお「幾何原論」を書いたエウクレイデス(英語表記 Eukleides)も本来からかけ離れたユークリッドの呼び名で知られている。あまりにこの呼称が一般化したので、この漫画でもユークリッドで表記させてもらっているのだが、本来の読みはエウクレイデス。ユークリッドは英語なまり。英語圏の人はeuをユーと読むのでこういうなまりが生じた。日本人のアルファベット読みはラテン語に基づいているのでむしろ本来の読みであって、英語読みは日本人から見てもローマ帝国の人から見てもいささか異様である。ラテン語読みではeuは普通にエウと読む。
参考文献
アルマゲスト 恒星社
世界の名著9 ギリシャの科学 エウクレイデス 原論
ギリシャ数学史 T.L.ヒース 共立出版
古代の数学 A.アーボー 河出書房
[A Mathematical History of the Golden Number] Roger Herz-Fischler pp65