分子と形態のコンフリクト
03.02.23 系統学から新しいコンテンツとして分離整理
系統学には二つの大きな分野があります。2つの学問、分岐学と分子系統学は、生物の系統、つまり生物の血縁関係を推定するための材料がまったく違います。分岐学では生物の形態、つまり形を手がかりとしていますし、一方、分子生物学ではDNAのように遺伝子そのものの変化を直接比較して系統を推定しています。
より正確にいうと、分岐学は遺伝子も材料にできます。実際、分子系統学で用いられる最節約法は原理的には分岐学とまったく同じものです。形態を扱う場合、使えると広く認められている方法は分岐学、つまり最節約法だけですが、分子系統学ではそうではありません。分子系統学には最節約法(≒分岐学)以外に近隣結合法や最尤法、ベイズ法などがあります。しかし、これらの方法論は形態を扱うことが出来ない、あるいは不向きであると考えらています。
このコンテンツでは形態も扱える分岐学と分子から様々な方法論で系統を推定する分子系統学を対置して話を進めます。
これら二つの分野のどちらがすぐれているのかは容易に判断できることではありません。そもそも、手がかりとしているものが遺伝子と形態という異なるものだからです。
確かに形態も遺伝子の変化が大きく関与しているから、形態を見ることはかなりな程度、間接的に遺伝子の変化を見ていることになるのでしょう。しかし、手がかりとなる形態を選びだしたり、比較した生物の形態が同じものである、そう判断するのはしばしば人間の主観ですから、”研究者の主観”が解析に入り込んでいると指摘されることがあります。
それに引き換え分子にそんな問題はありません。遺伝子を構成する塩基対のアデニンはアデニンです。グアニンはグアニン、どれとどれが同じものなのか?。それを悩むことはありません。
また、遺伝子ならあっというまに大量のデーターを集めることができます。例えばあなたが何種類かの昆虫を比較し、解剖までして昆虫の身体のあちこちから100ぐらいの形態の特徴を集めたとしましょう。ですが、あなたの同僚の分子系統学者はあっというまに数百、あるいは数千の塩基対を集めているはずです。
遺伝子を扱う研究者は形態を扱う系統学者よりも多いように見えますけど、それは当然ですよね。
ここで注意を。これだけ聞くとまるで分子系統学がお手軽な学問のようですけど、そんなことはありません。遺伝子を抽出して塩基配列を決定するのは地道で苦労の多い作業です。
遺伝子はお手軽でいいよなあ、とぼやくあなた。やり手の解剖学者に
そんなグチを言っているヒマがあるなら手を動かして論文さっさと書け!!
と言われないようにね^^)
しかし、その一方で
”遺伝子さえあれば問題は解決できる”
という誤解が一般に広まっているようです。これは安易な考えで問題はそう簡単ではありません。分子系統学といえども解析に使ったデーターや解析手段などが妥当かどうか検討しないまま、論文の結論だけを鵜のみにすることは出来ません(というかそれはそもそも科学の態度ではないですね)。
一方、これは北村自身が受けた質問ですが、以下のような誤解もあります。
”化石生物の系統関係を最終的に解決するには化石からDNAを回収するしかないのではないか?”
これは根本的に間違った考えです。化石からDNAを回収できても、たとえタイムマシンがあって過去にいって恐竜のDNAを回収しても、それは系統関係を解決する最終手段になるわけではありません。それはある時点に生きていた生物から遺伝子の資料を採取しただけで、歴史を直接観察したわけではないのです。現在の生物のことを考えてください。たとえ目の前に資料があっても現在の生物の系統関係を正確に再現したなどと断言できません。
系統学は現在ある手持ちの証拠から過去を再現する学問です。再現された過去は推定です。それは仮説であって真実ではありません。
ですから、DNAを回収すれば万事オッケー、という考えはまるで的外れなものです。
ここでまたまた注意を。以上のような話をすると、DNAにせよ、形態にせよ、それらから推論された過去の歴史(ここでは進化の歴史、生物の系統関係のこと)は単なる仮説であっていい加減なものである。こういう風に誤解する人が多いようです。
これは間違いです。なぜならこの考え方は
”すべての仮説は同じ程度の価値しかもたない。どれも同じだ”
と言っているだけだからです。では、安全装置なしの高層ビルからの落下とバンジージャンプは同じですか?。違いますよね。仮説だからどれも同じだ、というのは単なる詭弁です。
また、もしもあなたが、「過去を推定することしかできないなんて系統学とは推論ばかりしている信用できない学問だ」そう感じたなら考えてみてください。あなたの過去は実体として存在しますか?。もちろん、あなたの過去はもう存在しません。あなたの過去は現在から推論できるだけのものでしかないのです。「系統学は推論だけしている信用ならない学問である」、この主張は単に「私の人生も過去も、私の記憶も、また私に関する記録もすべて過去そのものではない。それらはあてにならないデタラメなものである」そう言っているだけではないでしょうか?。