暗闇の中で私達は長い親密な時間を過ごした。体調を壊したばかりの彼の体を気遣って、ゆっくりと私は触れていった。何もかもが初めてのことで、途中何回か困惑する所もあったが中断までは至らなかった。彼を抱きながら、私はこの行為を不思議に感じていた。彼と恋愛をするのは、飛び切り美しく知性の高い、心栄えの優れた女性だろうとずっと考えていたので。しかしまさに今、とりたてて美しくも賢くもなく、身分も高貴ではない、普通の人間ですらない、しかも男性の私が彼の体を自由にしている。
 普段から綺麗な形をしていると思っていた耳殻や襟足、額、指先、膝、頚動脈の匂いのする首筋、あちこちに口付けながら、もし途中で彼の気持ちが変わって止めてほしいと言われたらすぐに身を離さなければいけないと、私は一挙一動ごとに彼の様子を観察した。彼の気は変わらないようだった。
 シリウスは始終とても素直だった。手のひらに触れれば懸命に握り返し、腕も足も私の為すがままにされ、頬を紅潮させていた。尊敬するばかりだった彼を、初めて可愛らしいと思った。そして最後には誇り高い彼には決してとれないような姿勢をとり、私を受け入れた。善意ではなく、友情でもなく、彼は私を愛しているのだろうかと、半信半疑でそう考えた。
 幻のような時間が過ぎ去ったあと、しかし私の隣に裸で横たわるシリウスは消えなかった。これは現実のシリウスで、私達は肉体関係を持ったのだ。たった今。黒髪の冷たい感触の残る手のひらを眺めながら、私にとってこんな都合の良すぎる出来事が起こるなんて、変ではないかと自問自答をした。幻覚でもなければ夢でもない。では彼は操られているのではないかとすら考えた。ジョークではない。私はその時、真剣にそう考えたのだ。吸血鬼には、相手の判断力を低下させる能力がある。シリウスは不幸にして意志を曲げられたのではないか?と思いついて私は青ざめた。もしそうなら謝って済む問題ではない。
 行為の後でまだ荒い息をしているシリウスに私は思わずその旨を尋ねてしまった(彼はこのとき心の中でサンドバックを何十回もパンチしなければならなかったと後に語った)。
 彼は私に背を向けたまましばらく黙り、「それは、俺の意志が弱く、ちょっとした働きかけで男相手でも簡単に足を開くような人間だと言いたいのか」と低い声で尋ねた。
 彼の解釈は質問の意図と全く違ったので私は慌てた。彼の意志が弱いなどと、微塵も思ったことはない。いや、むしろシリウスは意志の人で、死のうがどうしようが全てをやり通してしまう、そんな人物だ。ともかく誤解を解かなければと色々言葉を並べてみるが、どれもしどろもどろになってしまう。
 しかし彼は何となく理解してくれたようで、「そうだとも。俺は自分の意志を証明できるぞ」と言った。私はリトマス紙のようなアイテムを想像した。そんなものでもなければ、自分の行動をまさしく自分の意志によるものであると証明するのは難しい。
 しかし予想とは違い、彼は単に私の上に乗り上げた。そして先程までの私のたどたどしさとは比べ物にならない、流れるような優雅な動作で私に触れた。私は仰天した。
 君のような、全裸で飾っておいてもそれなりに見応えのある体ならともかく、こんな枯れ木のような私の体に一体何をしているのかと聞きたかった。君は変態なのかと。
 しかし手はそっと丁寧に、同時に熱意を持って私の表面をすべる。悪ふざけや仕返しではなく、シリウスは真剣に私に触れている。それが分かった。くすぐったいような、または違う感覚のようなざわざわとしたものが背を這い登り、肩が震える。そこで彼が何をしようとしているのかに、漸く私は思い至った。しかし仮定の話としても俄かには信じ難い可能性だった。
 私の、この吸血鬼の体に触れたい人間などこの世にはいないと思っていた。たとえ誰であっても、シリウスであっても。しかし私がシリウスの肉体を欲したように、シリウスもまた私の体を抱きたいと思っていたなどという事がありえるだろうか?
 目を見開いた私に、彼は唇の片方を上げて笑った。久し振りに見る悪童の笑顔だ。
「これは?お前が望んで俺にやらせたかった事か?」
 違う。これまで考えた事もなかった。私が考えた事もないような行為を、人にさせるのは無理だろう。私は素直にそう述べた。シリウスは続けてもいいだろうかと尋ねた。
 勿論、シリウスの望みであるなら私の何もかもを自由にしていいと思うとか。君は趣味がいまひとつ良くないようであるとか。そういった言葉が胸に浮かんだ。しかしそれよりは圧倒的な驚きと、淡い喜びで私の頭の中は一杯だった。卒業すると同時にこの家に来て、一緒に住んでくれた君。満月の夜に血を飲ませてくれた君。あれは道義心や哀れみによるものではなかったと考えていいのだろうか。君は私を見てくれていたのだろうか。すべてに恵まれた君が?私は嬉しいけれど、君は変だよシリウス。
 混乱して、けれど幸福感もあって、私はどんな顔をしていいのか分からなくなった。だから「続きをどうぞ」というので精一杯だった。シリウスは笑って、私の喉に口付けた。
 そこからは記憶があやふやになってしまうのだが、シリウスの体がひどく温かかった事だけは覚えている。
 そう、その時間、私はまるで吸血鬼の天国にいるようだった。










食べ物はシリウス、友人もシリウス、恋人もシリウス。
吸血鬼の先生の人生はシリウスで完結してますね。
ところで、4と6は漫画にしたものを文章に起こしているのですが
これって絶対やってはいけない呪いの儀式ですね。
色々……無理が……。
2008.12.24


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