シリウス・ブラックには秘密があった。

 彼は恋人に(稀に古参の吸血鬼に)自分の血液を賛美され続けるうちにふと「本当に美味しいのだろうか?」という疑問を持つようになった。錯覚かもしくは社交辞令ではないかと。そうなると止まらないのがシリウスという男である。彼は定期的に自己採血を始め、それを冷凍野菜のラベルを張ったアルミパックに入れてフリーザーにこっそりと隠していた。いつか吸血鬼になった時に自分で味見をして納得するために。気恥ずかしいのでリーマスには内緒にしていた。

 しかし当然ながらリーマスはシリウス・ブラックの隠し事に気付いており、宝物を庭に埋める犬の姿を連想して微笑ましく思っていた。




 シリウスとリーマスが別居してから数箇月が過ぎていた。正式な処刑宣告がされたグレイバックは逃亡を図り、依然行方の分からないままだった。グレイバックの追跡に協力して夜毎同行しているリーマスは、滅多にシリウスの住居を訪れず、会いに来たとしても用心深く透明マントを身に付けていた。
 学生時代も合わせて考えると20年以上も共に過ごしてきた彼等には慣れない環境だったが、それなりに適応しつつあった。シリウスはマグルの携帯端末を購入し、リーマスに渡した。初めのうちは億劫がって手を出さなかった彼だったが、シリウスが犬の姿で自撮りをした写真を送り始めると、メールの返事も小まめに返すようになった。器用さには定評のあるシリウスだが、どのような器具を使って撮ったのか皆目分からないような尻尾だけの写真や、鼻先やあるいは前足を撮ったものなど、リーマスを夢中にさせるには十分だった。「お前も写真を送れ」と要求されて、鏡はもちろんのこと電子機器にも姿の映らないリーマスはかなり試行錯誤したが、やがて月明かりに浮かぶ影や、水盤の水に映る姿なら撮影が可能な事に気付いてその写真を添付送信した。彼等の携帯端末のメモリは、瞬く間に不思議な写真で埋め尽くされた。そんな2人を、ポッター親子は「遠恋だ」と噂するのだった。


 フェンリール・グレイバックは自分を子供好きで家庭的な男だと考えていた。
 彼は活発で気の強い子供が好きだった。「家族にする」子供は決まって少年だった。彼が理想とするのは、笑い声の絶えない居間と、元気よく遊ぶ少年たち、その少年たちからの尊敬を一身に受ける自分、そういったものだった。だから連れ帰ったリーマス・ルーピンを明りの下で最初に見た時は、失敗したとグレイバックは思った。その少年は細く白く小柄だった。血を吸われ、そして吸血鬼の血を飲まされた影響で昏倒していたが、そうでなくても病身めいて見えた。暗がりだったので、もっと健康そうに見えたのだが、まあいい、きっとすぐに死ぬだろう。グレイバックはそう考えた。
 彼の予想通り、リーマス・ルーピンは昼はもちろんのこと、日が沈んでも月が上っても、ともかくずっと眠っているような子供だった。言葉は「はい」と「いいえ」しか喋らなかった。すぐに死ぬ子供だからと特別に優しくしても、何を買い与えても、表情一つ変えなかった。そのことで怒鳴りつけても暴力を振るっても結果は同じ。やがてグレイバックはリーマスのことを忘れた。子供は他にもたくさんいたので。
 しかし連れてきた幾人かの子供たちが死んで、また新しい子供が増えて、その子供たちがいなくなって、それを何度か繰り返しても、リーマス・ルーピンはひっそりとその家で生きていた。怯えた目をしてグレイバックの話を聞いている子供たちの後ろで、ぼんやりと座っていた。その表情は木彫りの彫像のように全く変化がなかった。
 頭も体も病んでいる子供。そう思っていたリーマスに、ホグワーツからの手紙が届いた日のことを、グレイバックは思い出す。手紙には、保護者は子に教育を受けさせる義務がある旨と、リーマスが入学式に姿を見せないようであれば、学校から一度教職員が訪問するかもしれないというやんわりとした警告を記した別葉が添えられていた。
 その手紙を手にしたリーマスは、別人のように頬を紅潮させ、震えていた。家を出る事は絶対に許さないと脅しても、手をあげても、彼の様子は変わらず何も語らなかった。そしてある日グレイバックの家から姿を消してそれきり戻らなかった。
 一度卒業前にリーマスに会うためにホグワーツへ行ったことがあった。家に帰ってくるつもりがあるなら勿論迎える用意があるという、親らしい譲歩をしたつもりだった。しかしリーマスの返事は「次に顔を見せたら殺す」という礼儀知らずなものだった。学校が子供にどんな教育をしているかが知れるというものだった。たとえ顔立ちの整った生徒たち、金髪の或いは黒髪の少年達を見て多少放心していようとも、それは瑣末な事で、あそこまでの怒りに値するとはグレイバックには思えなかった。
 あれから随分長い年月が過ぎたが、グレイバックの育てた子供たちの中で成人できたのは、結局はリーマス・ルーピンただ1人だけだった。子供は弱い。どれだけ大切にしても、指からこぼれる砂のように小さなことで命を失ってしまう。グレイバックは涙を浮かべた。もう顔も名前も思い出せないが、少年たちとの様々な思い出はいまでも宝物だ、と彼は考えていた。
 しかし大切な息子である養い子リーマス・ルーピンとの2度目の再会はグレイバックを困惑させた。遠くから盗み見た彼はよく喋り、よく笑い、冗談を言っているようだった。両手を垂らしてうつむいて何時間でも立っていたあの青い顔の子供と同じ人物には見えなかった。そしてグレイバックに対して相変わらず脅迫めいたことを言い、果ては男と結婚すると宣言したりした。今はグレイバックを告発し、着々と包囲網を縮めつつある。食事をして死体を捨てると、そこから虱潰しに住居を捜索されるので、おいそれと血も吸えなくなった。どこから探してきたのか、百年ほど前に撮影したグレイバックの写真を大勢に配り歩いているようだ。夜道を歩いていて、何人かが自分を見てあわててその場を離れたのをグレイバックは見逃さなかった。
 知恵もあるし度胸もある。一人前の男の仕事だった。当時からこんな風にちゃんと振舞っていたら、お前を一番かわいがって、後継者にしてやったのになあ。グレイバックは小さくつぶやいた。いや今からでも遅くはない。けれどその前に躾けは必要だった。罰を受け入れて心から謝罪するなら、グレイバックは彼を許すのに吝かではなかった。
「まずは結婚。あれだけは駄目だ」
 飢えのために目を真っ赤に腫らして、グレイバックは呟いた。古めかしい外套の裾が風で翻っている。ビル群のうちの目立たない1棟、その屋上に彼は腰をかけて待っていた。




 万一の事があってはいけないから、吸血鬼の行動時間である夜には起きているように。杖は肌身離さず。シリウスの携帯端末には2日に1度はそのようなメッセージが送られてくる。
 恋人の無精を誰よりも一番よく知っているシリウスは首をかしげながらその文面を眺める。時々は本当に起きているか確認のメールが来ることもある。「起きてますよ先生!」シリウスは不服そうな顔文字を付けて返事をする。
 彼は今夜もこの都市を捜索しているだろう。シリウスはチェスやカードで勝負する時のリーマスの遣り方を思い浮かべた。彼は粘り強く相手のミスを待つ手法を好む。油断や意欲喪失とは無縁の人柄だった。追跡者としてあまり相対したいタイプではない。リーマスがいつかあの吸血鬼を見つけ出し、決着をつける事をシリウスは疑っていなかった。手助けが出来ず、待つしかない身の上は彼のような性格の男性にとって大変なストレスだったが、それでも彼はおとなしく待っていた。ネット閲覧はとうに飽きていたし、読書もDVD鑑賞もクロスワードパズルも気分転換の凝った料理作りもやりつくした。リーマスとの同居で少しばかり訓練されたとはいえ、元々彼は一人で時間を過ごすのが得意な性質ではない。それでも彼は待つつもりだった。賢い飼い犬のように静かに。
 窓の外を明りが通過していく。せめて散歩くらいできれば気分転換になったかもしれないが、無情にもリーマスは24時間の外出禁止を命じたばかりか(グレイバックに吸血鬼でない仲間がいる可能性も考慮して)窓を開けないように注意をした。招待をされていない吸血鬼は家の中に侵入できないが、窓から身を乗り出している人間に危害を加えたり、攫ったりは可能らしかった。明らかに不満そうに唇の片端をあげるシリウスに、リーマスは「私は嫉妬深い吸血鬼で、愛人の君を誰にも見せたくないんだと想像してみたらどうだろう?我慢できるのじゃないかな」と必死に彼らしくない冗談を言った。「想像じゃなく現実だったら喜んで我慢したさ。ところで現実との違いはどこだ?お前が嫉妬深くない?それとも吸血鬼じゃない?まさか今の俺が愛人じゃないとでも?」そう返事をしたシリウスにリーマスは「次に会うまでのクイズにしておくよ」と言って笑っていた。
 また車のヘッドライトが通って行く。深夜3時という時間にしては、今夜は交通量が多いようだった。しかしその光が上から下へと移動している事に気付いたシリウスは眉を寄せ、カーテンを開けた。
 眼前に広がるのは季節外れの花火のような光景だった。手のひらほどのサイズの火球が無数に降っていた。事情が事情でなければ美しいとすら思ったかもしれない。深夜の街に振る炎の雪。
 しかしこれは現在の自分の状況と無関係だとはシリウスには思えなかった。住居が割り出せなくても、最寄駅が分かればまとめて周辺を焼いてしまえばいいし、家の壁が焼け落ちてしまえば招待をされていようがいまいが関係がなくなる。
 火球は地面に落ち、建物の外壁にぶつかり、窓から見える明るさは増していった。建物に引火して火災を引き起こすのは時間の問題のように見えた。目立たないようにこの住居を出て、タクシーで空港へでも向かうのが一番無難な行動だというのは理解しつつ、勿論シリウスはそうしなかった。彼は手早くメールを打ち、杖とコートと箒を手に取って安全な住居の外へ出た。
 火球は周囲数キロ四方ほどに降りかかっていた。1つをエクスパルソの呪文で破裂させてみると、松脂や火薬を布で巻いたものだと分かった。
「ギリシャ・ローマ時代の戦争か!」
 シリウスは箒で飛び立ち、低空飛行をしながら小声で毒づいた。この地域一帯は街路樹が多く、飛行は難しいが身を隠しながら飛ぶのには好都合だった。燃え始めている屋根を見つけて消火呪文をかける。魔法の使用にブランクがあったせいで1度目はうまくいかなかったが、2度目に効力を発揮した。次に彼は風を呼ぶ呪文を何度も唱えた。下方から上空へ、そして東へと流れる強風。東にはテムズ川がある。
 飛びながら彼は上空の気温を変化させる呪文を唱えた。次に気圧。その合間にアグアメンティのスペルで炎を消す。高度な技術と大変な集中力を要したが、シリウスは自分が失敗をしないと知っていた。魔法の種類を切り替えるたびに力の種類も切り替わる。それは左右の手を使って絵を描く作業に似ていた。出来る者は出来るし、出来ない者は一生出来ない。
 街灯にぶつかりそうになって、シリウスは壁を蹴った。それでも冷静だった。周囲から集めた暖かい空気を上昇させて、上空で急激に冷やす。何度か試した魔法だった。もっと広範囲だった事もある。さらに呪文を唱えて空気を循環させた。
 ぽつりと雨粒が頬に当たって、シリウスは息をついた。彼の作ったこの局地的な雨はすぐに勢いを増して30分は降り続く筈だった。相手があの火をどれだけの量用意していたのかは分からないが、30分はもたないだろう。彼がそう考えた時、柔らかい布のようなものが首に巻きついた。
 布と思えたものは、まったく重さを感じさせずシリウスの首に触れた吸血鬼の腕で、高速で飛行しているシリウスと同じスピードでグレイバックはその背後に寄り、彼の首筋に鼻を寄せた。
 長年吸血鬼の口付けを受けてきたせいか、彼は首筋の皮膚が一部分だけ固くなっていた。なめらかで白い肌の、ほんの一箇所だけ色のくすんだ部分。それは吸血鬼の目にはひどく煽情的に映るのだった。
「俺はひどくお腹が空いているのでね。食事をさせてくださいよ。さあ、じっとして」
 グレイバックはシリウスの動脈に咬みついた。散り易い花に触れるようにシリウスの首筋を扱うリーマスとはまるで違う激痛だった。
 グレイバックは心臓から送られたばかりの新鮮な、滋味あふれる血液をほんの少し味わって、他は捨てるか子供たちに与えるという贅沢な飲み方を好んでいた。しかしシリウス・ブラックの血は最後の一滴まで飲み干したいと、彼に思わせるのに十分な味だった。
 吸血鬼には被食者をコントロールする能力があった。それでなくても腕力の差は比較にならなかった。シリウス・ブラックを見つけてしまえば勝負はついたも同然だとグレイバックは考えていたが、それは誤りだった。
 体に衝撃を受けて、グレイバックは地面に叩きつけられた。何が起きたのか彼は理解できなかった。
「お前のような薄汚い男に飲ませるものか」
 シリウス・ブラックが背後から自分に組み付かれたまま、ビルの壁に背をぶつけるように飛んだのだ、とようやく理解して、グレイバックは起き上がった。どうやら彼には吸血鬼の支配の能力が及ばないか、少なくとも及びにくいようだった。
 シリウス・ブラックは吸血鬼の歯が首から抜ける際に頸動脈を深く傷つけており、大量の血を流した。吹き出す血に治癒の呪文を掛けようとして失敗し、次に炎の呪文で傷口を焼いて止血する。彼は眉一筋動かさなかった。
「アバダ・ケダブラ!」
 そしてまったく躊躇なく、即死の呪文を唱えた。
 グレイバックは一瞬はよろめいたが、しかし不揃いな歯を剥きだしにして大声で笑った。
「効きませんな。吸血鬼と魔法使いは体の構造が違う」
 シリウスの設計通り、雨は本降りになりつつあった。人間と吸血鬼は激しい雨に全身を濡らしていた。
「しかしミスターブラック、あなたの血は素晴らしい。高値が付くわけです。俺の息子が道を踏み外してしまうのも当然だ」
「黙れ。リーマスがお前の息子などであるものか。化け物め!」
 シリウスは次々と呪文を唱えた。麻痺、爆破、裂傷、痛覚干渉。吸血鬼は蝙蝠や霧に身を変じて易々と身をかわす。外套が石化の呪文にかかったが、彼は首を振りながらそれを脱ぎ捨てた。グレイバックは飛びあがってシリウスの足を掴もうとしたが、シリウスは更に急上昇して麻痺呪文を連続で唱えた。呼吸が乱れ始めて、呪文の成功率が落ちている。
「あんたを樽に入れて葡萄みたいに踏んで血を絞り出しますよミスターブラック。そうして瓶に詰めたら高値で売って、この国を出ます。リーマスも最初は泣くでしょうけど、なに、諦めの早い子なんで大丈夫。庭にあんたの墓を―――」
 グレイバックは最後まで喋ることができなかった。恐ろしい勢いで飛んできた何かが吸血鬼を路面に押し倒し、その力に舗装は抉れて石片を撒き散らした。
「リーマス!」
 片手でグレイバックの頭部を押さえつけ爪をめり込ませているリーマスは、箒の上にいるシリウスを見上げてぎょっと目を見開いた。ほとんど雨に流されているがそれでもシャツは褐色に染まっており、彼の首筋には赤黒い傷がぱっくりと口を開けている。
 力の緩んだリーマスから逃れて逃走しようとするグレイバックに次々と声が浴びせられる。
「インペディメンタ!」
「ロコモーター・モルティス!」
「クルーシオ!」
「アバダ・ケダブラ」
「アクシオ!ピックアップトラック!」
 小型トラックがグレイバックに大打撃を与えた。血を流し、身体にめり込んだ鉄材を取り除きながら見上げると魔法使いたちが自分を見下ろしていた。
「ハリー、ハーマイオニー、ロン……それとジェームズ?リリー……?え?」
 リリー・ポッターは何故かスリッパ履きの部屋着のままで箒にまたがっていた。全員が彼女に注目する。
「この格好は寒いから早いところ片付けて帰りたいわ」
「僕は妻のおまけで来ました」
 眼鏡の青年、ハリー・ポッターは舌を出した。
「やばい、誤爆LINEした。僕だけ家族集結とか恥ずかしい!」
「シリウスは下がって治療に行って。ここからなら街の病院の方が近いわ」
「大丈夫だ、止血はした。やつに事象魔法は効かない。物理魔法がいい」
 誰か一人を人質にとれば逃げられるだろうと、グレイバックは小柄な若い女性を捕えようとした。よりによってハーマイオニー・グレンジャー、グレイバックに小型トラックをぶつけた魔女を。彼女は冷静に吸血鬼の跳躍を見極め、必要なだけ上昇すると今度は呼び寄せ魔法で街灯を呼んだ。グレイバックはかろうじて串刺しを逃れ、街灯は地面に突き刺さった。
「リーマス、リーマス、楽しかった暮らしを思い出せ。俺はお前を大切に育てた。そうだろう?」
 トラックに受けた表面の傷が急速にふさがっていく。時間稼ぎのためか、あるいはそうではないのか、グレイバックは哀れっぽい声でリーマスに語りかける。
「クリスマスにはプレゼントを買ってやった。みんなで歌を歌った。血でアイスキャンデーを作ってやった。夜の湖に泳ぎに出掛けた。服を縫ってやった。おまえは俺の息子だ」
 グレイバックと同じ高さに浮いているリーマスは、怒りよりはむしろ何かを耐えるような表情をしていた。火球と雨は止んでいたが、歪められた気象の影響か、強い風が吹き始めていた。
「それは現実じゃない。グレイバック。お前はクリスマスに家にいたことなどなかったし、みんなでどこかへ出掛けたことなどなかった。なにかを作ったこともない」
「……何を言ってるんだ。俺は……」
「おまえがやった事と言えば、酔って自慢話をする、酔ってみんなを一列に並ばせて殴る、それだけだ。歌は歌ったかもしれない。お前が、1人で。みんなは怯えていた」
 リーマスは上着のポケットからナイフを取りだした。細身のデザインのそれは、銀製と思しき刃が付いていた。
「私は他のみんなを見捨てて、1人だけ生き延びた。私には義務がある」
「お前は、親を殺すのか……?」
 リーマスは意を決してグレイバックを見据えた。そこで冷えた肩に手が置かれた。熱い掌。
「お前が手を下す必要はない」
 シリウスは静かな声でそう告げた。振り返ると彼は優しい顔をしてリーマスを見ていた。
「やつの外套は石にして砕いた。やつには日光を遮る手段がない。最初からそのつもりだった。そろそろ時間だ」
 シリウスはリーマスの耳元に囁くと、
「インカーセラス!」
 と唱えた。縄が現れてグレイバックの体を縛める。しかし吸血鬼には完全な拘束にはならず、彼は両腕の力でそれを引きちぎった。
「インカーセラス!」
「インカーセラス!」
「インカーセラス!」
 シリウスの意図を即座に理解した周囲の魔法使いの男女たちが口々に捕縛の呪文を唱え始める。切るそばから現れる縄。
「!?」
 グレイバックは彼等の目論見を測りかねて左右を見回す。
 そんな吸血鬼の瞳孔を、強い一条の光が刺し貫いた。太陽の日差し。夜明けだった。
 彼は自分の外套で日の光を遮ろうとして、自分がそれを失っている事にやっと気付いた。周囲の影を探してそちらへ移動しようとしたが、身体に食い込む縄がそれを許さない。頬に痣が浮き上がった。額に首筋に。痣はどんどんと色濃くなり、やがては煤の破片を散らし始めた。まず足が砕けて彼は左に傾いだ。バランスを崩した体は地面に落下し、それでも這って縄から逃れようとする。
「インカーセラス」
 リーマスは唱えた。死んだ子供たちの代わりに、彼は火傷を負っても最後まで見届けようとしていた。しかし背後からかぶせられた自分のマントが全身を覆って、それ以上は何も見えなくなった。
「見なくていい。俺が見ている」
 乾いたものが焼ける音と、臭い。時々はぜるような小さな音がする。老いた吸血鬼の声は届かなかった。マントの中にいるリーマスには、外の音は少しくぐもって聞こえる。現実のようなそうでないような感覚。それにこの中なら涙を流しても誰にも見られない。
「終わった」 
 リーマスが長い息を吐き出すのと、彼の肩におかれたシリウスの手が滑り落ちたのは同時だった。マントの中にいるリーマスが足元に見たのは、落下していくシリウスの体だった。彼は手を伸ばす。
 右手を黒く焦がしながら、リーマスはシリウスの手を掴んだ。そのままそっと地上に降りる。地面に横たわるシリウスの上に覆いかぶさって、濡れた髪をかき分け、彼に声を掛ける。返事はなかった。
「シリウス?」
 彼は呼吸をしていなかった。首筋に触れると脈も止まっていた。リーマスは息を飲む。
 周囲に降り立った魔法使いも異変を感じたのか、彼の手首の脈をとり小さな悲鳴をあげた。
「失血したあと体を冷やしたせいだ……馬鹿……」
 ジェームズの声がした。いついかなる時も冗談めいている口調が、今は失われていた。
「緊急救命治療はマグルの方がすぐれている。救急車を呼ぶよリーマス。誰か胸部マッサージの経験は?」
「私、分かります。おじさま」
「じゃあ頼む」
「先生、日光を浴びないように気を付けて、ゆっくりシリウスから離れて。私が心臓マッサージをするわ」
「リーマス、3分以内に蘇生をしないと危険よ」
「エピスキー!癒えよ!」
「ロン、今は傷が癒えても意味がないの。蘇生をしないと」
 ざわざわとした周囲の声を聞きながら、リーマスはシリウスの胸に額を押し当てて僅かの間考えていた。やがて彼の心は決まり、顔を上げた。
「ハリー、頼みがある」
「先生?」
「ここでは私は動けない。ポートキーか、暖炉を探して私とシリウスを私の屋敷へ連れて行ってくれないか?すぐに」
「……分かった」
 ハリーは機敏な動作で一言も質問することなく駆けて行った。
「ジェームズ。救急車は必要ない。シリウスを運ぶのを手伝ってほしい」
 マグルの交換手を相手にシリウスの容体の説明をしていたジェームズは、リーマスの声を聞くとすぐに電話の相手に救急車は必要ではなくなったと簡潔に告げて会話を終わらせる。リリーはジェームズの手を握った。
 



 しばらく閉ざされていた屋敷の中は埃っぽく、光の差さぬそこは幽霊屋敷めいていた。暖炉から次々と到着した彼等は杖を使って周囲の蝋燭に火をともす。リーマスはシリウスを抱えて大広間のメインテーブルまで運び、そこへ彼を横たえた。濡れた髪が卓上からこぼれて床に滴を垂らす。
「ジェームズ、シリウスが倒れてから何分経った?」
「2分と少し」
「ハーマイオニー、キッチンの冷蔵庫の冷凍室の中に無農薬野菜のラベルが貼ったアルミパックがある」
「えっ?!はい。野菜?」
「湯を沸かしてその容器を全部入れて解凍して、持ってきてくれ」
「無農薬野菜を?」
 一瞬ハーマイオニーは、リーマスの正気を疑うような表情を浮かべた。恋人を失いかけているショックで精神のバランスが崩れたのではないかと。ハーマイオニーだけではなく周囲の誰もが同じ顔をしていた。しかし最終的には長年にわたるリーマスへの信用が打ち勝って、彼女はキッチンへと走って行った。
 リーマスは上着を脱いでシャツの袖をめくりあげながらポッター夫妻へ振り返る。
「ジェームズ、リリー、君たちにとってもシリウスは親友だ。私のせいでこんな事になってすまない。それと相談もなく治療手段を決めたことを申し訳なく思う」
 焼けた手で、彼はジェームズとリリーの腕に触れた。夫婦の魔法使いは首を振る。
「私が何をするか、もう分かっていると思うけど、マグルの救命医療よりもたぶん成功率は高い」
「うん。大丈夫だ。シリウスも文句はないと思う。もちろん僕達もだ。早くやれ。手伝うことはあるか?」
「ジェームズはシリウスの食道を開いてくれ。リリーは気道をふさいで。できる?」
「そういうの得意よ」
「ありがとう」
 2人の魔法使いが杖の先をシリウスの喉の奥に向け呪文を唱える。リーマスは持っていた銀製のナイフで自分の左手首を深く切り裂いた。シリウスの頬に血しぶきが飛び散る。吸血鬼の血は人間のそれよりもわずかに暗い色をしていた。銀で切ったために傷口は塞がらず、かなりの量の血液がシリウスの喉の奥に流れ込んだ。側で見ていたロンは、口元を押さえて目をそらす。やがて左手首からの出血が少なくなると、次にリーマスは右の手首も同じように深く切った。
「リーマス、これは念のための確認だけど、シリウスを蘇生させた後で君を回復する手段も勿論確保してあるんだろうね?」
 ジェームズが穏やかな声で尋ねた。
「うん」
「君に何かあったら僕がこいつに殺される。僕の目を見て約束してくれ」
「うん。大丈夫」
 リーマスは血の止まらない左手でシリウスの首筋に触れてにっこりと微笑んだ。変化は始まっていた。彼の心臓は再び鼓動を開始し、唇は吐息をこぼした。元々男性にしては白く肌理の整っていた肌は、一切の色むらがなくなり、ますます白くなり艶を増した。
 逆にリーマスの顔色は青く変化し、頬や腕に血管が透け始めた。彼は苦しそうな浅い呼吸を繰り返している。リリーとジェームズは両側から彼の身を支えた。
「リーマス、僕達の血を」
「ありがとう。でも大丈夫」
「先生、遅くなりました!野菜!」
 廊下を駆けてきたハーマイオニーの声が大広間に響き渡る。リーマスはシリウスの喉に血を流しこむ作業を終えて、そのアルミ容器を受け取った。
「シリウスは?」
「生き返った。君たちのお蔭だ」
 リーマスは3つあったアルミパックのうちの1つを開封した。中は血液で満たされていた。
「本当に野菜だったら私は死んでた。君は最高だシリウス」
 そう言ってリーマスは恋人の唇に口付けをし、それを飲んだ。
 まさか自分の血液の味見のためにシリウスが血液を保存していたとは思わない魔法使いたちは「さすがシリウス、緊急時のために備蓄してあったんだな」「備えあれば憂いなしってこういう事ね」などと噂し合った。
 すべての血液を飲みほして、リーマスがようやく普段の顔色を取り戻した頃、シリウスは目を開いた。
 その顔を見て、リーマス以外の全員は小さく悲鳴をあげた。
 意識を取り戻したシリウスは、自分のいる場所とあちこちに血の付いたリーマスの姿を見て速やかに状況を悟り、顔を歪めた。
「リーマス、すまない……お前につらい思いをさせた……そうだろう?」
 リーマスは無表情で皮肉を言った。
「これこそがずっと君の望んでいた事だったんだから、もっと喜んだらどうだ?立ちあがって踊るとかそれとも……」
 最後まで皮肉で通そうと彼は努力したが、途中で涙を流し、とうとう嗚咽で喋れなくなってしまった。シリウスの知る恋人はそんな風に泣く人ではなかったので、困った彼は泣く吸血鬼の背を抱いた。
「リーマス、あの、盛り上がってるところ済まないけどシリウスの顔見て」
 抱擁しあう恋人たちを辛抱強く見守っていた男女を代表して、ジェームズが遠慮がちに声をかける。
「顔?」
「なんていうか、もうそれ変だよ」
「うん、先生。シリウスは元々ハンサムだったけど、今は命とられる系の神って感じ……」
 真珠の粉を刷いたような艶めかしい白い肌。珊瑚に似た濃淡のある薄い唇。濃灰色だった瞳の色は薄まり、ブルーともトパーズともつかない色合いが僅かに混じって、顔立ちに近寄りがたい冷たい印象を強めていた。そしてぞっとするほど黒く滑らかな髪。
 あまりに現実離れしているので、油彩画の絵か、作り物のようだった。 
 そんな彼をまじまじと見つめたあと、リーマスは首をかしげる。
「……そうかな?」
「だめだこりゃ」
 「太ればいいんじゃ?」「いや、スーパー美デブが誕生するだけじゃない?」などと相談を始めた彼等に、吸血鬼はあまり太れないよとリーマスは言い、女性2人は少し無言になった。
「イケメン……というか生き神系メン……」
「アハハ、相当疲れてるね、リリーが駄洒落をいうなんて……えっちょっと何写メってるの」
「いや、これは撮るでしょう誰だって」
「済まないリリー、もうシリウスは写真には写らない」
「畜生、そうだった」
 眼鏡の父子が「畜生って……」と同時につぶやいた。
 騒動の連続で彼等の体力は限界値で、ロンなどは瞼が半分垂れさがっていたが、ともかく全員無事だったという喜びで高揚し、笑い合っていた。
「せっかくだからこの格好のままバチュラーパーティーをしましょうよ!」
 と、リリーが本気とも冗談ともつかぬ声で提案し、全員に却下される。
「バチュラーパーティーはもう手遅れでしょう。しかもあれは僕と……あれ?親友2人がくっついた場合は僕が1人でプロデュースするのかな?どうなんだろう。まあいいや、後日小さなパーティーはしよう。夜中に」
 ジェームズは2人に手を差し出して握手をした。俄かに美貌の神になった男と、地味な顔をした彼の恋人は心から礼を述べ、その場にいた全員の魔法使いともまた同じように握手を交わした。
「ともかく良かった。色々。あと、おめでとう」
 湿った髪と服で、疲労の浮かんだ顔で、それでも彼等は上機嫌で暖炉をくぐって行った。
「ありがとう来てくれて。今日の事は忘れない。これからずっと」
 手を繋いで彼等を見送っていた2人は、どちらからともなく相手に凭れ掛り、大きく息を吐いた。
 シリウスの手がかつての熱を失い、ひどく冷たく感じられる事にリーマスは気付いていたが、しかし彼はもう感傷を持たないと決めていた。
 最後にハリーが手を振って暖炉の奥に消え、2人は静かに向かい合った。
「これから少し忙しくなるよ。事前に申請していたとはいえ正式な儀式を行わなかったから、君の吸血鬼化が正当なものかどうか審議が行われる」
「うん」
「それにグレイバックに協力していた吸血鬼か、あるいは魔法使いがいる筈だ。追わなければ」
「そうだな」
「君の棺桶も発注しないと。特別なものだから納入に30日ほどかかるんだ」
「それだけか?」
「パーティーを開いてくれるって。ジェームズが」
「ほかに何か大事な用件を忘れてないか?」
「大事な?」
「俺達はこれから……」
「シリウス・ブラック。私と一生を共に生きてくれるだろうか」
「・・・・・・」
「何か違ったかな」
「違ってない。答えはもちろんイエスだが、断ったらどうなる?」
「杭を探しに行く」
「物騒だな」
「嘘だよ。おとなしく諦める」
「じゃあリーマス・J・ルーピン。俺と結婚してくれますか?」
「えー……」
「えーとは何だ」
「私が今言ったじゃないか」
「法的にもずっと一緒という意味だから同じじゃない」
「答えはイエスだけど、断ったら?」
「泣きながらその扉を開けて出ていく」
「気を付けて。君はもう朝の屋外には出られない身体なんだよ。黒焦げになる」
「知ってる。俺はこれまでお前の眠気についてからかってばかりいたが、今とても後悔している。すまなかった」
「えっ、それはどういう」
「眠い。涙が出るほど眠い。徹夜してもここまで眠くはなかった。なんだこの眠気は」
「ああ、そうか。可哀そうに。じゃあすぐに……いやでもせめてシャワーを浴びて着替えないと。しばらく私と同じ棺桶で眠ることになるけどいいかな。そんなに狭くはなかっただろう?シリウス?大丈夫かい?」
「うん……ちょっとここで横になっていいか……」
「だめだ。なんだか君と私が逆になったみたいだな」
「リーマス、その、手の傷……」
「寝言みたいになってる。君がバスルームに入ったら、ちゃんと手当てをするから。ともかく移動する」
「……はい」
 左右におぼつかない足取りのシリウスの腕をとって、リーマスはきちんと立たせた。そのまま歩きだそうとして、思い出したように彼は顔を傾けてシリウスに口付る。幸福そうに目を閉じて、彼はそれを受けた。
「今日は珍しくお前の方からキスを……何回か……」
「ちゃんと歩いて。キスのことはあとで思い出せばいいから」
「これは夢かもしれない……」
「目が覚めても私は同じ棺にいるよ。そしてもう私は1人じゃない。夢じゃない。大丈夫」
 リーマスはそう言って小さく笑った。



 それから吸血鬼とその友人は吸血鬼2人という関係になり、変わらず仲良く暮らし続けた。
 まさしく人外の美貌を手に入れたシリウスは、夜に見知らぬ人間や魔法使いと出会うと、高い確率で相手が悲鳴をあげるか、またはそれぞれの神に祈りだしてしまうので、サングラスとマスクと帽子が必需品になってしまった。いまでは吸血鬼界一の美貌を謳われ、取材やスカウトから逃げ回るのに忙しい。
 リーマスは今でも、吸血鬼になる前となった後のシリウスの顔の違いがよく分からないと首をひねっている。そんな彼は屋敷の裏庭で牛を飼い始めた。豚とヤギとアヒルと鶏も。しかしそれらの血はシリウスの口には合わないようだった。「この牛の血を50点とするなら、俺の血の味は何点くらいだったんだ?」若干気がかりそうに時々彼はリーマスに質問をする。リーマスは笑って答えない。
 ごくたまに共通の友人たちが遊びにやってきたり、逆に2人が友人たちの家を訪問したりする。気が向けば都会へも遊びに行く。2匹の蝙蝠に姿を変えて。
 そしてきちんと門限を守り、朝日が昇る前には帰宅する。並んだ2つの棺桶に入って、今日も楽しかったという感想を述べて上品なキスを交わし、彼等は眠りにつく。










終わるの寂しいからやだなー……って思いながら書いてたら
全然進まなくてびっくりしました。
手が滑ってとんでもない事になりました。長げぇー!
こんなに呪文を色々書いたの初めて!
もうグレイバックの名前を書きすぎてゲシュタルト崩壊しましたよ…
シリウスの住んでいるマンションからテムズ川まで
グーグルカメラでずっと風景を見たり
ビッグベンの構造を調べたり、観覧車の構造を調べたり
AEDの仕組みを調べたりしましたが
半分の長さにカットしたので無駄だった!

どの話も、しりるしりは全部結婚式で終えちゃうぞ!
って思っているので、吸血鬼の人たちも結婚で終わります。

2007年の秋から細々と続いてきた吸血鬼のお話も今回でおしまいです。
読んでくださったかた、ありがとうございました。

2014.11.07