※お話の流れでほんの少し児童虐待描写と
 差別的な表現が入ります。ご注意ください。






 真夜中のカフェは客もまばらだった。
 暗い緑色の壁紙に赤茶色の木材が組み合わさってモダンな印象の内装であるが、テーブルや椅子の類はすべて古風なもので、また店内の照明は絞られていたので、ゆっくりと足を休めるのに相応しい店だった。会話を妨げる音楽も流れていない。
 シリウスは食事をしていた。炙った白身魚と、鮮やかなグリーンの葉、レッドオニオンとトマト、細かな木の実と香辛料が美しく散らしてあるブーケのようなサラダだった。向かいに座ったリーマスはいつもの如く、お気に入りの絵を鑑賞するような熱意をもって友人の食事を眺めている。
 吸血鬼であるリーマスには人間の食べるものは全て体に合わない。しかしシリウスがあまりにもおいしそうに食事をするので、時折彼は友人の皿から一切れ失敬して口にしてしまう悪癖を断てずにいた。
「皿に手を出すな?」
「……出さないよ。旅先で体調を崩すと大変だ」
 彼等は旅行の最中だった。飛行機で移動すると太陽を避ける事が難しいので、もっぱら棺に入ったリーマスを伴っての船か列車の旅となった。シリウスは大抵旅行の間だけ古美術商を名乗り、緩衝材で幾重にも巻かれた大きな木箱に神経を尖らせる謎の美貌の客として、どの国へ行っても噂の的になった。
 リーマスは昼間に外出ができないので、寺院や美術館、遺跡や庭園など有名な観光施設のほとんどを見る事が出来なかったが、その代り中の様子を見てきたシリウスによる仔細な説明を聞いて、十分に満足していた。建物の歴史的背景や建築様式、建築技術、凝った絨毯の意匠や庭園のデザインまでを身振り手振りで語るシリウスに、「却って自分の目で見るよりも君の話を聞く方がいいような気がする」とリーマスは満足げだった。それに夜間でも見学できる施設、墓地やナイトツアーなどもある。友人との旅はリーマスにとって楽しい行事だった。今回の旅行も、リーマスがシリウスに強く勧めたものだ。彼が人間でいられる期間はあと2年、その間に見たい風景をすべて見ておいてほしいと。遮光の手段が自宅よりも限られたものになる旅行をシリウスは厭ったが、リーマスが説き伏せた。
 こうやって蝋燭の明かりの下で物を食べている友人を見ると、リーマスの胸には何千回目かの迷いが去来する。シリウスは物を食べる姿がとても魅力的な男だった。皿の中の料理を丁寧に繊細に扱い、香りや色や匂いを賞賛し、微細な味の違いを感じ取れる舌をもっている。
 彼が吸血鬼になれば、おそらく誰からも敬われ理想とされるような伝説の吸血鬼となるだろう。その美貌、その品格。しかしリーマスは優れた料理に出会った時の、シリウスの笑顔が好きだった。彼の幸福が空気に伝わってこちらまで嬉しくなるような表情。
 もし、自分が失踪したら彼はどうするだろう、とリーマスは何千回目かの空想をする。そうすれば彼は吸血鬼になる理由がなくなる。リーマスを見つけるために有効なありとあらゆる手段を、普通の人間は思いつかぬような或いは常識的に実行できない類のものも含めて彼が執るであろう事は想像に難くない。しかしリーマスがその時点ですでにこの世に存在しなければ、いかにシリウスであっても見つけ出すのは不可能である。そこまで考えてリーマスはため息をつく。その時のシリウスの精神状態は、想像するだけで胸の痛くなるものだった。
 シリウスの望みとシリウスの幸福は彼自身が決める事で、自分が判断すべきではない。リーマスもそれは理解していた。たとえどれだけ自分が食事する彼の姿を好ましく思っていたとしても。暖かい血の通った身体こそが彼の魂には相応しいと思っていたとしても。
 肌で温められて柔らかくなった黒髪の感触をリーマスは思い出した。皮膚の下をめぐる芳しい血のにおいとシリウスの匂いが混ざった、陶然とするような香りも。耳の下や首筋、手首、足の付け根。鼻を寄せるとシリウスはいつも笑ってされるがままになっていた。
「リーマス、瞳孔の形が」
 シリウスの指摘で我に返り、ゆっくりとリーマスは目を閉じた。
「どうした、長旅で消耗したのか?」
 吸血鬼は血に飢えると瞳孔の形が変化する。細い洒落たグラスを傾けてビールを飲むと、シリウスは声を低くして冗談を言った。
「それとももうひとつの理由か?吸血鬼も旅先で情熱的な気分になるとか」
 彼はてっきり友人がテーブルの下で足を蹴ってくるものと、或いは辛辣にやり返してくるものと予想していたが、リーマスの反応は違った。彼はただ笑ったのだ。眼は人間と変わらぬ形に戻っていたが、その笑顔はごく親密な時間に見る種類のものだった。
 シリウスは少しの間、幼い顔でぽかんとしたあと強くフォークを握り直した。
「なるべく急いで食べるから待っていてくれ」
「消化に悪いからゆっくり食べなさい」
 ささやき声で恋人同士の会話が交わされているテーブルへ、突然場違いな男が闖入してきた。
 どさりと音を立ててリーマスの隣の椅子に腰を落とした男を、はじめのうちは席を間違えたものだろうと2人は気に留めなかった。しかし男は同席するシリウスとリーマスを見ても、一向に去る気配を見せなかった。
 まずリーマスの顔色が変わった。普段から色の白い彼だが、その時はまったく死体のような色に変わり、唇の血の気まで失せていた。彼はうつむいたまま視線を上げなかった。そしてそれにシリウスが気付いた。
「リーマス?」
「久しぶりだな、リーマス」
 見知らぬ男が大きな声を出したので、シリウスは漸くその男に視線を遣った。18世紀の労働者のような古めかしい服を着た男は、害のなさそうな笑顔を浮かべていたが、その目にはどこか下卑たところがあった。
「次に顔を見せたら殺すと言った筈だ」
 シリウスは驚愕した。彼の知るリーマス・ルーピンはおよそ他人に対する敵意や攻撃心の欠落した性格をしていた。その彼がレストランで隣の席に座った男を威嚇している。顔色がひどく悪い事を除けば表情に変化はないが、しかしシリウスはリーマスの心が恐れと嫌悪で混乱しているのを感じ取っていた。
「なんだって!?育ての親に対してなんて物言いだ!お前はそんな子じゃなかった!」
 男は歯を剥きだして吠えた。黄ばんだ乱杭歯が露わになる。人間にはあり得ないほど発達した犬歯。
「……フェンリール・グレイバックか……!?」
 シリウスの声が震えた。リーマスが青ざめたまま「シリウス」と彼の名を呼んだ。冷静さを失ったシリウスが椅子の脚を杭の代わりにグレイバックに襲いかからぬよう牽制したのだ。しかし学生の頃の短慮を矯正したシリウスは吸血鬼との筋力の差を忘れるほど我を失いはしなかった。呼吸は早くなっているが、席を蹴って立ち上がる様子はない。
「俺の名をご存じとは光栄ですシリウス・ブラック殿。なんでも近々吸血鬼になる予定だとか」
 握手の手が差しだされた。変色して形のいびつな分厚い爪のついた手をシリウスは冷やかに凝視して顔を歪める。
「グレイバックは、俺の友人から普通の人生を奪った怪物の名だ」
「俺のことをリーマスはそんな風に!?なんてことだ!!」
 大げさに両手で口元を押さえた後、グレイバックはすぐに笑顔になって首を傾ける。
「でもミスターブラック、あなたはその怪物になろうっていうんでしょう?俺を責めるのはおかしい」
「このフォークとナイフが銀製でなかった事に感謝するがいい」
「そのか弱い人間の腕で俺を脅しているのか?あなたは実にいい匂いがするミスターブラック。黒スグリのような血の匂いだ。どうかこれ以上挑発しないでいただきたいですな。俺はあなたの手首をぽっきりと折り取ってそこのグラスへ血を注ぎたいのを我慢しておるのだから」
 リーマスがほとんど囁くような声で2人の会話を断ち切った。
「いますぐ失せろ。そうすれば追わない」
「かわいいリーマス、俺は忠告に来たんだ。お前は小さい頃からぼんやりとしていて損ばかりしていた。お前はいま金の卵を産む鶏を絞め殺そうとしている」
「それは、私の友人の話か?」
「そう、こちらのミスターブラックの話だ。彼の血の素晴らしさは噂に聞いている。それを吸血鬼にしてしまうだと?とんでもないことだ!彼の血のファンの方が何人も相談にいらしたんだ。どうかお前の目が覚めるよう説得してほしいと」
「まともな吸血鬼があなたなど相手にするものか。噂を聞いて金の臭いにつられてここまで追ってきたんだろう。全くあなたらしい」
「リーマス、かわいい息子。昔のお前はもっと素直だった。なんとかいうあの学校に入って小難しい理屈を覚えてからお前はおかしくなった。行くべきじゃなかったんだ。もっと本気で止めていればよかった!」
 涙を浮かべんばかりに語るグレイバックに、リーマスの唇は歪んだ。
「ホグワーツへ行くまで、私は地獄にいた。毎日飢えて血の事ばかり考えていた。床に落ちた血を舐め、捨てられた死骸の血をすすった。お前に吸血鬼にされた子供たちは皆、最後には心を病んで自ら太陽の光を浴びた。今はもう思い出す事も少なくなった。やっと」
「みな俺の家族だ。俺達は家族だった」
「ちがう。お前は子供をいたぶるのが好きな、真性のサディストだ。グレイバック」
「俺はお前の育ての親だぞ!罰当たりな口を閉じろリーマス!」
 涙を流しながら片手を上げたグレイバックに、静かに杖が向けられた。
「以前から」
 シリウスの声は落ちついていた。杖の先も揺らいではいない。しかしそれは訓練によるもので、彼の眉根には深く嫌悪の皺が寄せられている。
「即死の呪文は吸血鬼にも効力を発揮するか興味があった。試してみてもよろしいですかミスターグレイバック?」
「この人間には躾が必要だ」
「あなたの大好きな「躾」を彼に施す前に、私があなたの首を捩じ切る。それに彼の魔法を軽視しない方がいい。彼は魔法使いのあらゆる名誉職を蹴ってここにいる、何百年に1人の天才だ。虫ほどでも知恵があるなら、今ここでどうすればいいか分かる筈だグレイバック」
 灰色の髪と髭を震わせて、みじめな室内犬のような顔をしたグレイバックの目が小刻みに揺れた。
「俺達はまだ義理の家族のままだ。俺はお前の養父なんだよリーマス。つまりは後見人だ。家族がバカな真似をしでかしそうな時は、止める義務がある」
 彼は唇を舐めながら、考え考えそのように言った。
「後見人は、子供の資産について、指図する権利がある。そうだとも」
 シリウスがちらりとリーマスに目をやる。彼は大丈夫だというように一つ頷いた。
「規律を破り、獣のように子供を襲って気まぐれに血族に加えるお前の名など、とっくに吸血鬼人名録から抹消されている。お前は吸血鬼の社会からはじかれたただの怪物だ、グレイバック。私とは何の関係もない」
「すぐに社会復帰の手続きを取る!」
「それに私は吸血鬼となったシリウスと結婚する予定で、もう許可も得ている。伴侶を得れば、私は誰憚る事のない世帯主で治産者だ。後見人の出る幕ではない」
 沈黙が訪れた。
 シリウスは一瞬完全にグレイバックの存在を忘れ、リーマスの顔を凝視した。グレイバックもぴたりと涙を止めてリーマスを見ている。そして手を伸ばしてシリウスの胸を押すようなしぐさをした。それは暴力ではなく弱弱しい確認で、シリウスも拒絶するのを忘れて呆然としていた。
「リーマス、リーマス、お前は……」
 グレイバックのどこかだらしなく歪んでいた顔が不意に引き締まり、両の眼に徐々に恐怖の色が浮かび始めた。
「……?」
「男と結婚だと!?男が好きなのか!?どうして……いつから……」
 シリウスとリーマスは顔を見合わせる。2人はようやくグレイバックの突然の恐慌の理由について思い当たった。
「もうあれから何十年も過ぎたんだ。性的指向だって変わる」
 ここでリーマスは言葉を切り、意地悪く笑った。
「あるいは私は元から同性が好きだったのかもしれない。私がホグワーツに行って、男の恋人を見つけてよかったじゃないか、グレイバック?」
 言葉もなくグレイバックは椅子から落ちてその場にへたり込んだ。2人は席を立つと、これ見よがしに互いの腕に腕を絡めてグレイバックを見下ろした。男は後じさり、椅子に頭をぶつける。
「我々の「仲間」に入りたいなら追ってくるといい。新しい世界が開けるかも」
 グレイバックの喉の奥からかぼそい悲鳴があがった。シリウスは無表情を保ったがリーマスは苦い笑いを浮かべた。ウェイター達が何か問題があったのかと聞きに来る前に、2人は支払いを済ませ店を出た。当然ながらグレイバックが追ってくる様子はなかった。










 人通りの絶えた夜道を、まだ何とはなしに腕を組み合ったまま2人は歩いていた。空気の匂いが朝のものに変わりつつあった。
「あの男は、お前に襲われるとでも思ったのか?つまり、襲われるくらいの魅力が自分にあると思えたと。羨ましい自信だ。卒業してお前と同棲を始めたころの俺だってそんな大それた望みは持っていなかった!」
「どうかそのへんで、シリウス。これ以上笑ったら歩けなくなりそうだ。それにちゃんと謝罪したい」
「謝罪?」
「……私のせいでせっかくの旅行が台無しだ」
「リーマス、今ここで抱擁しても?」
「……構わないけれど、でも」
 シリウスの長い腕がゆっくりと背に回り、いつも焼かれるほどに熱く感じられる彼の体温がリーマスに伝わってきた。
「旅先で求婚されるとは思わなかった」
「……まだ確実ではないから黙っていたんだ。落胆させてはいけないと思って」
「今日がお前にとって最悪な一日だったのは理解しているつもりだ。でも俺は自分が幸福だと感じるのを止められない」
「・・・・・・」
「ありがとう、リーマス。俺も10年後くらいにはプロポーズするつもりでいた。お前に先を越されるとは」
 友人の肩に顔を埋めて、シリウスはくすくすと笑った。リーマスはその髪を撫でる。
「あの男と顔を合わせたあとで、こんな風に平気で歩いて話せる日が来るとは思わなかった」
「それは?」
「昔なら私はパニックを起こして、人と話せるくらい回復するのに何箇月もかかっただろう。でもいま私は笑っている」
 リーマスは顔を上げたシリウスと目を合わせて微笑んだ。
「君がいるからだ。君のおかげだシリウス。幸福なのは私だ」
 リーマスはそっとシリウスの頬を両手で包み、キスをした。シリウスは情熱的に応じた。しばらく彼等は腕の中の恋人の体を楽しんでいたが、リーマスの方が先に我に返って、身を離した。
「道端ではよくないな。ホテルの部屋に帰ろうシリウス」
「ああ、まあ続きはベッドの上の方が都合がよさそうだな」
「いや、そういう意味では……ああ、まあどちらでもいいんだけど。同性の恋愛があんなにも人を怯えさせるものだとは思わなくて。グレイバックはともかくとして、一般の人が不愉快になってはいけない」
「うん、あれには俺も驚いた」
「君の顔があまりに特殊だから、私は君が男だという事を半分忘れていたよ」
「聞き捨てならないな。卑猥な反論をしてもいいか?」
「それも帰ってからにしてくれ」
 笑いながら彼等は互いの肩を叩いたり腰に手を廻して揺さぶったりしていたが、シリウスは残念そうに空を仰いだ。
「どちらにしろ続きは明日の、いや今日の夕方だな。もうすぐ朝が来る。急ごうリーマス」
 早足になるシリウスを追いながら、吸血鬼は小声で呟いた。
「棺桶なら」
「え?」
「棺桶の中でなら問題なく、その、続きの話ができる」
 シリウスの右足が連続で2回前に出た。彼は少し斜めになりながら返事をする。
「……ああ、そうだな。しかし」
「少々狭いけど」
「この時間帯のお前は眠気のせいでいつも」
「さすがにあんな事があった直後に熟睡するのは、幾ら私でも無理だ」
「そうか……」
「いや、言ってみただけで別に」
「中へご招待いただくのは初めてだな」
「そうだったかな」
「俺も将来世話になる家具だ。試しておくのは悪くない。お言葉に甘えてお邪魔しても?」
「勿論喜んで」
 その直後にリーマスの顔が赤いとシリウスが指摘し、リーマスは否定した。しかしシリウスがなおも言い募ったので、とうとうリーマスは猫の子でもつまむようにシリウスを肩の上へ担ぎあげた。シリウスは笑い声をあげて両足をばたつかせたりリーマスの背を叩いてみたりしていたが、彼の歩みには少しも影響はなく、やがて諦めてシリウスは友人の肩の上で力を抜いてぶら下がった。その際何か冗談を言ったのか、リーマスの笑い声が漏れた。
 夜明けを待つきらびやかな街の明かりの中に紛れて、やがて彼等の姿は見えなくなった。









グレイバックのフルネームとか、ジャンル10年目にして初めて覚えました。
口調もあやふやですが、なんか違っていたらごめんなさい。


シリウスは慣れない棺桶の中でやたら肘や頭を強打し、涙目になるでしょう。
先生はプロの吸血鬼だけあって、するりするりと器用に動き、
完全アウェーのシリウスを翻弄するでしょう。
色々終った後で、なんかもう15時間ぐらい眠り続けて、起きたらベッドの上に寝ていて
(日没後に先生が運んだ)シリウスは敗北感に唇をかむでしょう。
すてきな婚前旅行ですね。

2012.10.31



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