男性と犬2(前編)


 その辺鄙なところに建っている一軒家には、男性が1人住んでいる。

 僕はその家へ、月に1度か2度ほど食料の配達に行く。男性の名はルーピンさんといい、元教師だという話だ。誰でもそう言われると納得するだろう、彼くらい教師らしい人も昨今珍しい。
「こんにちは!ルーピンさん」
 古びたトラックから注文の品を下ろして声を掛けると、程なく網戸が開いて彼が顔を出す。
「ああ、いつも済まないね。こんなに遠くまで」
 その古風な喋り方と目立つ白髪のせいで、僕は初めて会った時に彼を年配の男性だと思った。(これは彼には秘密だ)実は今も彼が何歳なのかを正確に知らないのだが。
「仕事ですから。気にしないでください」
 ここへ来ると僕は取り分け丁寧に喋るように心がけている。ルーピンさんの雰囲気が自然にそうさせるのもあるけれど、僕がいつも仲間に対して使っているような言葉でルーピンさんに話し掛けたら……半分以上は通じないんじゃないかと、そう思うくらい彼は何と言うか浮世離れしている。
「あれ、珍しい格好ですね」
 ルーピンさんはいつも、折り目の消えかけたようなズボンとシャツ、セーターというような古き良き時代の家長的服装をしているのだが、今日は何と細身の黒のジーンズ姿だった。
「洗濯の都合で着る物がなくなってね。昔の友人の物なんだ」
「へえ。でも似合ってますよ」
 昔の友人の物というと、貰ったか何かしたものだろうか。僕は彼がここに1人で暮らしている事を知っている。
 けれどそれに関して不思議に思う事がない訳ではない。そもそもは、この注文される食料だった。キャンベルのありとあらゆる缶詰。トマトペースト、コーン、クリーム、デミグラス。農家から配送されたての卵にチーズに豆にジャガイモ、ニンジン、タマネギ、オレンジ、レモン。もちろん冷凍肉も。フレークにパンにバターにジャムにチョコレート。色とりどりのジェリービーンズにキャンディー。水はエア入りとエアなしの両方。それとなぜかウォッカ。
 その量はあまりにも多すぎる。ルーピンさんが200ポンドはありそうな巨漢だというならともかく、生活に対して何かしらアドバイスをしたくなるくらい彼は痩せているのだ。
 もっともこの疑問に対しては、最初の訪問の日に説明を受けた。
「荷物はその辺りに置いてくれていいから。お茶を飲むね?」
「はい。もしよかったら」
「座って」
 この家に入るといつも、部屋に漂っている不思議な気配を感じる。
 暖かい、たった今まで何か楽しい事が行われていたような、そんな雰囲気がここにはある。団欒であるとかゲームであるとかそういう類の。家具やカーペットから優しい匂いが立ち上り、僕はソファの下や暖炉の中を覗いてみたくなるのだ。そこにはもしかしたら隠れている子供や、ボードゲームの駒や、綺麗な色の紙吹雪を見つけられるのかもしれないと、そんな気がして。
 それはおかしな空想だと自分でも分かっている。ルーピンさんに一人暮らしを装うような、そんな嘘をつく必要があるとも思えない。
「今日は暖かいね」
 彼はいつも問答無用でミルクティーを淹れてくれる。牛乳が沢山入っているやつで、それが妙においしい。
 僕はルーピンさんとお茶を飲みながら、色々な話をする。どちらかといえばルーピンさんの話を僕が聞く時間が長いだろうか。
 僕は彼の話が好きだ。ギリシャ神話の意外な矛盾や、星座の形の好み、シェイクスピアのゴシップや、エジプトの宗教観、心理学への揚げ足取り。話題はいつも突拍子もない方向へ飛び、僕は気付けば前のめりの姿勢になって拳を握っている。彼の話はとても分かり易くて面白いのだ。聞き取りやすい声と流れるような口調、ちょっとしたジェスチャ。彼らしいユニークな視点。どれもこれも僕の気持ちを掴んで、話に集中させる。
 そして重要な所だが、彼の話は聞いていても、ちっとも劣等感を持たないでいい。どういうことかと言えば彼は「今思い出した昔話がすこぶる面白いんだけど、よかったら聞いてくれるかな?」と、常にそういう感じで、僕は「こんな事を知らないのは恥ずかしいんじゃないか」とか「内心ルーピンさんは呆れているんじゃないか」とか一切考えずに済む。僕が途中で質問をすると、(それが後で考えるとどんなに下らない内容でも)彼はすごく嬉しそうに頷き、にっこりと笑って答えてくれる。
 その様子を見ていると、僕はまたちょっと不思議に思う。
 一人暮らしをしている人、しかもこんな人里離れた場所で家から出ずに暮らしている人というのは、どうも人間との距離の取り方を忘れている人が多い。僕が配達でたまに訪れる家にもそういう人達がいて、大抵彼等はこちらが息をつく暇もないくらいのスピードで要領を得ない話をまくしたててきたり、逆にむっつりと黙り込んで、こちらの話し掛けに対しても受け答えのテンポがずれていたりするのだ。
 ルーピンさんはそうではない。まったくそうではない。
 つい今しがたまで誰かと話していた延長上のように、心地のいい距離で話をしてくれる。彼の話をこうやって背筋を伸ばして聞いていると、僕はだんだんいい気分になってくる。まるで、自分がちゃんとした家に生まれて、ちゃんと真面目に育った人間であるような気がしてくるのだ。だって人からこんなに丁寧に扱われた経験は、今まで1度もないのだから。
 今、彼は人体に見立てたスプーンを指差し、楽しそうに急所の話をしてくれている。話も面白いが、笑顔がくるくると動いてそれを見ているだけでも飽きない。彼の授業を受けていた子供は本当にラッキーだと羨ましく思う。
「いつも思うんですが、学校では何を教えていたんですか?」
「地方の学校でね、色々教えたよ。主に生物や……」
「生物ですか」
「地理や民俗学や確率論から生活のちょっとした知恵まで。本当に地方だったから、教えられる事は何でも」
「生徒には人気があったでしょう」
「どうかな」
「もう復職はされないんですか?」
「病気が原因で辞めたからね。子供達はみんないい子で、本当に楽しかった」
 彼は目を閉じて、また違う種類の笑顔を浮かべた。僕はいつも言おうとして言い出せなかった事を今日こそ伝えようと正面に向き直る。
――――――仕事とは関係なく、ここに遊びに来てもいいでしょうか、ルーピンさん。
 そして、僕がどんなに彼の話を楽しみにしているかを正直に言って。そうしたらきっとルーピンさんは……。
「――い…………ってェ――――!!!」
「パッドフット!!」
 自分の計画に夢中になっていた僕は、足元に注意を払うのを忘れていた。いつの間にか僕の右足には悪魔のように黒くて巨大な犬が噛み付いていた。
 パッドフット。それが犬の名前だ。僕の配達する食料を大半平らげているのはコイツで。そして僕とパッドフットはどうも相性が良くない。毎回噛み付かれそうになったり、頭突きをされたりする。
「なんて事をするんだ!」
ルーピンさんが立ち上がると、犬はぱっと僕から離れて座った。頭の悪い犬ではない。それは分かる。
「そんな殊勝な顔をしても駄目だよ」
 犬の真っ黒な顔のどのあたりが殊勝なのか僕には見当もつかないのだが、ルーピンさんはゆっくりとパッドフットに歩み寄る。犬は2,3歩後退した。その気になれば僕の足など簡単に噛み千切ってしまうだろう、それくらい黒犬は大きい。そんな巨大な動物が、痩せた柔和な男性を怖がって尻尾を丸めている。
「いや、ルーピンさん気にしないで下さい。パッドフットはじゃれついただけなんですよ、きっと」
 僕は犬に笑いかけたが、相手はこちらを見もしなかった。
「そうかもしれないね。そうじゃないかもしれないけど」
「え?」
「いや、本当にすまなかった。怪我を見せてくれるかな」
「いいですいいです!次の配達もあるんで、失礼します。お邪魔をしました」
 救急箱を出そうとする彼に手を振って僕は立ち上がる。また今日も言えなかった。次に来る頃は、きっともう雪が降っているだろう。それは随分と遠い。
 気のせいだろうか、ルーピンさんに肝心な話をしようとするといつもパッドフットが邪魔をするのだ。
 僕は無意識に犬をじっと見ていたようだ。パッドフットが舌を出したのに気付いて、ふと我に返った。
 犬のするようにだらりと伸ばして口で呼吸するそれではなくて、人間のするように一瞬だけ見せて口を閉じるその仕草。

相手を馬鹿にする時の。

 いけないいけない。しっかりしなくては、犬がそんな事する訳がないじゃないか。僕はしきりと恐縮するルーピンさんにお辞儀をして、頭を振りながらその家を後にした。







また腕力だけで1本書いてるよこの人は。腕力ないくせにねえ。

ローカルのタイトルは容赦なく「間男」です。(ちなみに私の
ローカルタイトルは全部こんな感じです)セールスマン気をつけろ。
ここの旦那様は犬。君の喉笛を狙ってるぞ。

生意気にも後編に続きます。また来週!

後編へ

BACK