“崩れ”について


 明治の文豪幸田露伴の次女、幸田文が、大沢崩れをはじめ全国の山河の崩壊地を訪ねた 一種のルポルタージュ文学『崩れ』について紹介したいと思います。
 作者の幸田文さんは失礼ながらご老体です。しかも女性でありながら山の崩壊について 観察しているものです。このような自然現象をいわゆる文学者がどのように表現したのかが気になり 読みはじめてみました。
 72歳にして崩れに興味を持ち、時には人の背を借りながらも取材を続け、文学者らしい表現で 荒々しい崩落地の様子を記述したのでした。普通このようなつかみ所のない自然現象を文学者が書くとは 思えなかったのです。老文学者を掻き立てたエネルギーは何なのだろう。生まれつき好奇心が強く、 たまたま始めて見た崩壊地点の壮大さ、恐ろしさ、神々しさに気を取られたのだろうかとも思います。 そしてあのお年でなお、あそこまで執着できたのかと思うと尊敬に値します。(もちろん有名な文学者で あるからこそ、関係当局が便宜を図り有能なスタッフがついてくれたのだろうと思うのですが)

 さて、読み終わるや否や、作者のたどった崩落の場所を自らもたどってみたくなりました。 可能な限りですが。

 日本三大崩れとは「大谷崩れ」、「常願寺川鳶山崩れ」、「稗田山崩れ」 を指します。ほかに「富士大沢崩れ」があります。

 (画像はクリックすると拡大できます)
     

 ◆平成15年8月、白馬大雪渓を登った折の帰路、国道148号線を北上し 大糸線中土駅の手前から旧道をたどって駅前の細い道を山側に向って入りました。 浦川に沿った林道側に砂防工事関係の事務所があり、そこを遡ろうとするがどうも天気がよくありません。 霧雨の中、たぶんもう少しで金谷橋というあたりで工事中の看板もあったため この先に進むことを断念しました。
 金谷橋からは稗田山(1,443m)を見上げることが出来ると思うのですが、 もともと白馬が天候不良のため下山したのであってこれ以上のことは期待は出来ません。

 姫川に合流する浦川は暴れ川と言う形容の通り、急斜面を流れていました。 河原というおだやかなものではなく、大小の岩の間を流れ、この日も雨のせいか茶色の泥水が 流れ下っていました。
 「稗田山崩れ」はまたの機会ということで。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 ◆平成16年8月、前年に続くき白馬山行では白馬槍、槍温泉と今回は天候に恵まれました。
 「稗田山崩れ」についても再度の挑戦となったのです。幸い浦川では砂防工事中ではあったものの 通行には支障がありません。金谷橋から稗田山を見上げるのですが切り立った崩落部分は 岩石というよりも茶色の土が露出しています。(右の画像)
 工事関係者にいろいろ聞いていると風吹大池への道に全体が展望できる場所があるということです。 金谷橋から幸田文さんの文学碑のある十字路までもどり、「風吹大池→」と書かれた方向に進みます。 舗装された細い道を6kmほど登りますが、実はこの道、公式には車の乗り入れは不可となっているようです。
 かなり高度を上げたところでその展望場所に着きました。稗田山が正面に位置し、 金谷橋ははるか下にあります。明治44年と45年の2度にわたる崩壊により稗田山の北側半分が崩れ落ちました。
 削り取られた斜面はまだ茶色の肌を見せていますが、かなりの部分は緑に覆われつつあるようです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−






 ◆平成15年9月、山梨県身延町から安倍峠を超えて梅ヶ島温泉に下ります。 新田という集落から街道を離れ、大谷川に沿って登っていきます。「大谷崩」の案内標識にしたがい 林道を登って行きますが、こちらも砂防工事中のようで大型のミキサー車とすれ違いました。 林道終点には工事会社の建物と大谷崩れの案内看板がありましたが、あたりは真っ白の霧に包まれていました。 安倍峠を越えるときに降っていた雨は上がったのですがこれ以上に晴れそうにはなく、あきらめました。

 大谷崩れは、安倍川水源の一つである大谷(おおや)領が、宝永4年の大地震により大崩壊したもので、 長野県の稗田山(ひえだやま)崩れ、富山県立山の鳶山(とびやま)崩れとともに、 日本三大崩れの一つに数えられています。作家幸田文さんは昭和51年5月にこの地を訪れ、 大谷崩れの偉大な自然の営力に深い感慨を覚え、その後に全国の大崩壊地を巡っています。
 大谷領は山梨県側では行田山と呼ばれています。標高が1999.7mということですが、 山梨県側では30cmの記念碑を建て、丁度2,000mの山ということでミレニアム開発をしたそうです。
 また、新田の集落には赤水滝というのがありますが、崩壊当時滝が赤く染まった水を流し続けたことから この名がついたそうです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−




 ◆平成17年10月、2年前の同じ時期、雲の中でなにも見えなかった大谷嶺の崩れに再度向いました。 ですが安倍峠は通過できず、やむなく井川雨畑林道経由で遠回りをしました。
 かすかに雲がかかっているものの大谷(おおや)崩れの全容が見えました。 幸田文さんが崩れについて最初に見たところです。
「大谷嶺の山頂すぐ下のあたりから壊えて、崩れて、山腹から山麓にかけて、斜面いちめんの 大面積に崩壊土砂がなだれている。崩壊は憚ることなく、その陽その風のもとに皮のむけ崩れた肌をさらして、 凝然とこちら向きに静まっていた。無惨であり、畏怖があり、いうにいわれぬ悲愁感が沈殿していた」。
(「崩れ」より引用)




 
 まさにその通りでした。標高2,000mの山頂から扇の要に向かうようになだれ落ち、 そこからすそを広げたように安倍川になだれています。扇の要付近は1,300mであるので 700mの崩落となります。原因は地震と洪水とのことであり、いまでも治山工事が続いています。 歩いて登山道を少し登ってみたのですが、扇の要のところはこれ以上よく見えるようにはなりませんでした。 しかも悔しいことに角張った岩につまずき、大事なカメラを壊してしまいました。もうひとつの失敗があり、 近くにあるはずの幸田文さんの文学碑を確認しそこなってしまいました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 ◆平成15年10月、富士山5合目付近の御中道から大沢崩れを訪ねてみました。 大沢崩れとは富士山の西側で御中道よりより上の斜面がスプーン状にざっくりとえぐれているところをいい、 山頂近くからくずれ始めているとのことです。
 天気は予報が急に変わって下り坂となっていました。スバルライン料金所あたりから初冠雪の富士が見られ、 紅葉もぼちぼちというところです。
 5合目手前の奥庭駐車場に停め、御中道まで登ります。5合目からの道との合流点一帯は御庭といい 眺めの良いところです。御中道はここからも標高2,400m付近をいくつかの沢をわたって 大沢崩れまで続いています。奥庭駐車場からは林道があって、ここから入ったらしい工事車両が停めてある地点から 普通の山道に入ります。樹林帯は針葉樹と広葉樹が混じっていてシャクナゲも多く、 花はないもののタカネバラも見られます。
 最初に出くわすのが滑沢で、このあと仏石流し、一番沢、前沢と続きます。 展望が開けるのは沢を横切るときだけで、あとは樹林帯の中になります。滑沢にはそこからの南アルプス光岳、 聖岳、北岳、甲斐駒から八ヶ岳までの展望を刻んだ石が置いてありました。 一番沢はこのコースでいちばんの難所とみました。全体としてやや下りかげんに進み、 約2時間ほどで大沢休泊所、いわゆる「お助け小屋」にたどり着きます。かつてここには小屋番がいたそうですが、 今は無人で砂防工事の工事事務所として使われていました。ここに作家幸田文さんの文学碑があり正面に 大沢崩れの章の一節が刻んであります。幸田文さんは昭和51年7月にこの地を訪れています。



 祠の脇をすり抜けて急坂を100mほど登ったところで始めて大沢崩れをまのあたりにすることができます。 そこは見晴台と刻まれた石が置いてある大沢崩れの北側斜面であり、向かい側の切り立った南側斜面と、 常にカラカラと音を立てて崩れ落ちる様子を見ることができます。それでもこの位置からは沢の底までは見えません。 それくらい大規模な崩れでした。あいにくと頂上方向には雲がかかりはじめていて 上のほうが見えにくくなっていたのが残念でした。(上の画像の中央は雲ではなく、石が転がり落ちている土煙です)
 沢は頂上直下から標高2200mまでの長さ2.1km、幅500m、深さ150mという規模のものです。 ちなみに大沢休泊所から下に向っても道がついていましたが、現在国土交通省による調査工事が実施されていて 通行禁止になっているはずです。御中道そのものは歴史が古く、かつて標高2800m付近を横切っていたらしく 以後明治、昭和と崩壊が進み昭和52年に閉鎖されました。

(参考):
(NPO法人)砂防広報センターか ら配信されている富士砂防シリーズ のなかに「幸田 文 崩れ〜富士山大沢崩れ〜」の動画がありましたので紹介します。きれいな映像とNHK アナによる幸田文「崩れ」の朗読をお楽しみください。(約12分)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


メニューに戻る

ホームページに戻る