猿島へは日本海海戦で有名な戦艦三笠の保存されている三笠公園の桟橋からかなりの便の定期船が出ています。 島の南側の三日月浜は海水浴場にもなっていてシーズン中は混みあい、臨時便も運行されます。 最近新しい桟橋ができましたが、古い桟橋にいたる石積の通路は江戸時代のものということです。 砂浜の奥には「海軍港」と標された石碑が立てられています。(古いほうの桟橋はすでに撤去されています) |
砂浜から要塞へと登る道の左手に旧海軍の兵舎があります。現在、 猿島には電気がない関係で各施設の照明や自動販売機を動かすためにここで発電機を使用して発電しています。 元々は蒸気機関による発電所として利用されていた建物ということです。 |
行楽客で賑わうレストハウスや管理事務所の前に幅広の階段(ボードウォーク)がありますが、 その陰に隠れるようにして小さな階段が残されています。これは兵舎への階段として元からあったものです。 |
坂を登っていくと要塞の切通しがあり、露天掘りの幹道になります。両側はブラフ積みの石組です。 そしてところどころに煉瓦積みの弾薬庫や兵舎の入口、炊事場のような用途不明の施設などが見られます。 (この付近からトンネルにかけての施設配置は このようになっています。) (注)炊事場のような用途不明の施設とはトイレでした。イギリス積みのため少し後に造られたと思われます。 |
このように掘り下げられているのは外部から見られないようにするためとされています。 そして幹道の先にはレンガアーチのトンネルがあります。レンガは当時最新の建築材料で、 多くの建物や鉄道の橋、トンネルなどの建築物に使用されました。 |
トンネルの長さは90mです。要塞ということにもかかわらず煉瓦で組まれたアーチは 芸術品のようにも見られます。ちなみにここの煉瓦の組み方は、長手、小口交互のフランス積み (フランドル積み)というもので全国的にも珍しいものです。しかもこの煉瓦は愛知県の士族就産所 (維新のために禄を失った旧武士のための工場)で作られたものということです。 煉瓦の積み方についてはその後に鉄道構造物などによく見られるイギリス積みが主流となりました。 |
トンネルの内部には弾薬庫や兵舎に加えて司令部の機能があったようですが全て塞がれていました。 内部の様子ですがトンネルと同様、煉瓦積みの2階建て構造のようです。この扉の向こう側は階段になっていて、 西側斜面に出て司令部や照明所への連絡に使用されたそうです。 (この様子は「NHK:ニッポン近代化遺産」で放映されました。) 余談ですが多くの煉瓦構造物の上部にあるアーチ状のものは「迫持ち(せりもち)」といい、 少し削った迫(せり)煉瓦が使用されているそうです。 |
トンネルを抜けると三叉路になっていて右側にもう一つの小さなトンネルがあります。 ただしこのトンネルは当初からのものではなく高射砲台座への通路として海軍によって昭和になってから 造られたものです。トンネルの出口は直角に曲げられており、海上から見えないようになっています。 |
そして三叉路のやや正面に弾薬庫への入口があります。 この場所の真上に第一砲台として加農砲(カノン砲)が2門あり、 そこに弾を上げるための井戸(楊弾井(ようだんせい)という)が画面左側角に見られます。 |
ガイドマップや現地説明板によると現在、島内には砲台跡が5座あるとされています。 うち4座ははっきりと分かりますがこれらは75mm高角砲座です。 残る1座は藪の中にあって明瞭な形で残されていませんが、2つあった127mm高角砲座のうちの一つです。 いずれにしてもこの5座は昭和16年に配備された高射砲のための砲座です。 終戦とともに進駐軍によって解体されて砲座だけが残ったものです。 |
なお、明治期に造られた27cm加農砲(カノン砲)の砲座は先の第一砲台のほかに 露天掘り幹道の上に第二砲台として4門あったそうですが確認できません。 さらに幕末のころ(1847年:弘化4年)には少し下っていった島の最東端に今は広場になっていますが そこにお台場(卯の崎台場)を設け、3門の大砲を据え付けたということです。 島の3箇所に建設された台場のうちの一つです。その6年後にペリーが来航していますが大砲は発射されていません。 さらにその2年後の安政大地震により被害を受け、お台場は放棄されました。 |
島の尾根筋を行く散策路の頂上部にある広場には展望台があります。 展望台といっても周囲は樹木に阻まれ全く見通しがききません。 この建物も海軍によって観測所(防空指揮所、司令所)として建設されたものです。 |
4層構造になっていますが、ロープが張られていて展望階には立ち入れません。 この画像は地上階のものでこの下に地下階があります。 |
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