今、お台場といえば臨海副都心の一部で、レインボーブリッジによって結ばれる埋立地一帯を 指していますが、かつてそこには東京湾海防拠点の一部である品川台場がありました。 江戸幕府はペリーの率いる4隻の黒船が来航したことをきっかけに海防策の一環として 台場を急ぎ建築することにしたのです。つまり、お台場とは幕府により作られた東京湾品川沖の砲台のことです。 |
(2007年10月記) (2008年 4月追記) (2009年12月追記) |
東京港の前身、江戸湊の防衛線最後の砦は臨海副都心のあるこの方向(当時の深川方向)にあと4基、 計11基が計画されていましたが、「日米和親条約」の締結により開国へと向かう中、 建設する必要性がなくなってしまいました。やがて日の出桟橋、竹芝桟橋ができ戦後になって豊洲埠頭、 晴海埠頭などのコンテナ埠頭ができて、不要となった台場は撤去されたり埋立地にとりこまれたりしました。 東京湾を外敵から守るための台場は、発展していく東京湾自身の内からの圧力によって 消えることになったといえます。撤去した台場の石は晴海埠頭公園などに今も見ることができるそうです。 |
(2008年4月:「第四台場」について追記) 天王洲アイルは第四台場跡を南西方向に埋立拡張して造られています。したがってその北東端、 シーフォートスクエア内のシーフォートタワー(第一ホテル)のあるところが第四台場のあったところになります。 未完成だった第四台場は埋め立て事業が進められ、流通倉庫の並ぶ殺風景な場所になっていきました。 1978年(昭和52年)に防潮堤工事が完成して、その後1985(昭和60)年に地域再開発事業が始まり、 倉庫の街「天王洲」はウォーターフロント都市「天王洲アイル」に生まれ変わったのです。 そして第四台場の石垣はボードウォーク(板張りの遊歩道)の護岸に再利用され、残されています。 ちなみに「シーフォート(Sea Fort)」とは「海の砦」の意味であり、 江戸湾に侵入してくる異国船を迎え撃つはずの「台場」に少しだけ名残を残しているようです。 |
(2009年12月:「御殿山下台場」について追記) 海上の「台場」のほかに、その延長線上の陸上にも台場は作られました。その名を「御殿山下台場」といい、 第八台場以降の4基の着工に先立って陸続きで造られました。当時海岸であった、 目黒川の旧の河口のところに御殿山の土を使って埋め立て、砲台としたものです。しかし昭和32年に撤去され、 現在その跡地の半分ほどが品川区立台場小学校になっています。台場浦公園、 台場幼稚園とともに台場の名前を残しています。またこの台場は当初から五角形をしており 今でも道路によって囲まれたその輪郭に 台場の跡を見ることができます。 ちなみに御殿山というのは現在のJR線の西側にあった高台で桜の名所であったとされています。 北品川の古い地名ということで今ではマンションの名前などに残されているだけです。 台場小学校の正門には台場跡から発掘された石垣を使った記念碑が建てられています。 そしてその上に乗る灯台は第二台場にあった品川灯台(明治3年点灯)なのですがこれは模造品で 実物は国の重要文化財ということで名古屋の博物館明治村に移されています。 |
【参考文献】 (1) (財)日本海事科学振興財団 船の科学館 資料No.16 |
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