江戸時代末期、黒船の来航を受けた徳川幕府は海上防衛の必要性にせまられたのですが、
ここ富津岬は浦賀水道を守るのに好適地でありました。
1881年(明治14年)、明治政府によって砲台と海堡が造られました(完成時期は明治17年)。
公園内の濠に囲まれた「中の島」は元洲砲台そのものです。1895年(明治28年)には東京湾要塞司令部が置かれ、
元洲砲台には歩兵中隊が守備に就いていましたが実際にはここの砲台からは一発も発射されたことがないといいます。
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池の濠に架かる橋を渡ると、すぐに切通しのような石積みの入口があり窪地へと導かれます。
南に面した円弧状のところに登っていくと砲座の跡が5基ほど見られます。
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砲座は石積みによって階段のつけられている箇所がありました。ほかにレンガ積みの構造物が見られますが
弾薬庫跡のようにも見受けられます。
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いかにも砲台跡の構造物と思わせるものがここで、火薬庫跡だといわれています。
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6畳敷きほどのレンガの部屋にはいったい何があって、どのような作業が行われたいたのでしょうか。
階段の上からは現在では松の木が茂っていて遠くまで見通すことはできません。
後世になって建てられた展望台と一緒に見張り所のようなものや高射砲台座のようなものがありました。
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1915年(大正4年)になって元洲砲台はお役御免となり、代わりに陸軍技術本部の
大砲試射場が設置されました。中の島の濠の外側にかまぼこ型の妙な構造物があります。
これは射入窖(しゃにゅうこう)といって銃器の弾丸を撃ち込むための穴のあるコンクリート塊です。
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そしてこの射入窖の穴(上の画像では左奥側)の50mほど先に射撃用の穴を持つ壁、
放列施設というものがあります。この壁の小さな穴から射入窖に向けて試射したものと思われます。
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富津岬の北側の海岸、おそらく潮干狩りの時季には大勢の人でにぎわうであろうところに異様な構造物が
あります。この円筒形のものは警戒哨だそうです。つまり試射した砲弾の着弾を確認するための建物です。
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細いスリットは南北に空いていて南側は松林で阻まれているものの北側からはごらんのとおり
海上がよく見えました。
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富津岬のほとんどは保安林で覆われてしまっています。ちなみに保安林とは飛砂や高潮などで
岬の形状が変わらないよう保全するためのもので歴史的には新しいものです。
そしてその保安林の中には小銃や機関銃の性能試験を行うための監視所が残されています。
全部で3基あるということですが、すべては見つけられませんでした。人が一人か二人入れるほどの空間ですが
窓が三つついているところを見ると三人用なのでしょうか。
その特徴的な姿から地元では「ボウズ」と呼ばれているようです。
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