このところ横須賀市や三浦市の懐かしいものや“廃なもの”の探索を続けてきました。 踏み込むほどに奥があり、今しばらく続けてみたいと思います。 |
(2006年5月記) |
【横須賀鎮守府司令長官官舎】 京浜急行県立大学駅から丘の上に当たる位置で東京湾を見下ろす田戸台にこの庁舎はあります。 横須賀鎮守府司令長官の官舎でしたが、現在は海上自衛隊横須賀地方総監部の管理下にあります。 |
(2006.4.15) 桜の咲くころに一般公開されることを知り訪れてみました。 門に立つ自衛官に案内され奥へと進みます。洋風の建物と和風の建物が接続された形の住宅で、 大正2年に建設されました。 |
洋風館部分は木造平屋建てで、基礎の部分と同じ石張りの煙突があります。 特徴的で美しいのは庭園に面したトンガリ屋根の窓の部分です。和風館部分は2階建てですがこちらは公開はされていません。 |
洋風館の内部は重厚な感じの応接室とリビングルームがあってそれぞれに暖炉がありました。 |
記念館となっている応接室には展示品がいくつか置かれていましたがその中に気になるものがありました。 それは「横須賀港一覧絵図」というもので、臨海公園(現在のヴェルニー公園)側の山から見た横須賀製鉄所、 後の横須賀造船所の姿を描いたものです。そこにははっきりと3本のドックが描かれていました。 (以前、ヴェルニー公園から対岸のドックを見ましたが、 その昔の姿、当初の姿です) |
【横須賀鎮守府】 そもそも、鎮守府(ちんじゅふ)とは何でしょうか。調べてみると古代日本の地方軍政府または、 近代の日本海軍の機関の名称ということでした。つまり、海軍の根拠地として艦隊の後方を統轄した 日本海軍の機関です。明治9年に東海・西海両鎮守府を横浜・長崎に設置したのを初めとして、 その後横須賀・呉・佐世保・舞鶴の4鎮守府に再編されたのですが、第二次世界大戦後にすべて廃止されました。 横須賀鎮守府の庁舎は明治23年に建設されたのですが関東大震災で倒壊し、大正15年に再建されました。 この建物は現在でも米海軍横須賀基地内の在日米海軍司令部として使われています。 |
(2006.5.21) 米海軍横須賀基地の中を見学できる「日米親善ベース歴史ツアー」という 催しに参加する機会がありました。基地内に残る横須賀製鉄所の跡やドライドック、旧海軍病院とその門柱などが 見学できます。 しかしこのときは運の悪いことに期待していた米海軍司令部の建物、つまり旧横須賀鎮守府庁舎は 改装工事の最中でこの有様、がっかりしました。本来は このような姿の建物(横須賀市のホームページより)であるはずでした。 |
旧鎮守府庁舎の右隣は米海軍第七艦隊極東司令部の建物で、こちらも元は「横須賀海軍艦船部」と 「横須賀鎮守府会議所」でした。そして今でもこの 日本語表記の表札が建物前面に掲げられています。(ランプの下の2ケ所:左が艦船部、右が会議所) |
そしてフランス人技師ヴェルニーと幕府勘定奉行、小栗上野介によって作られたという「横須賀製鉄所」 (鉄を作るのではなく、造船所をこのように呼んでいました)のドライドックを基地内から見ることができました。 これは慶応3年(1867年)に着工され明治4年(1871年)に完成した第1号ドライドックです。 もちろんこれは日本で作られた最初のドライドックであり、今なお現役で使用されています。 |
浦賀ドックのドライドックはレンガ積みでしたが、ここのは伊豆地方で産出した石を組んで作られています (のちに奥行き側を増設したためその部分はコンクリートになっていますが)。 海との境目は水圧でぴたっと閉じられる構造になっています。 つづいて明治の初めに第2号、第3号のドライドックが造られています。 このほか一回り大きい第4号、第5号ドックと、最も大きい第6号ドックを見学できました。 |
この日、横須賀を母港とする空母キティホークは出航していて見られませんでしたが、 代わって旗艦「ブルーリッジ」に乗船し内部を見学しました。 このほか「日米親善ベース歴史ツアー」では、軍人ガイドさんの案内により横須賀製鉄所跡の碑や、 将校クラブ、旧海軍病院とその門柱などを見学でき、サービスエリアでアメリカンな食事も体験できて楽しめました。 |
【住友重機械工業(株)浦賀艦船工場】 通称「浦賀ドック」といっていました。浦賀ドックの歴史は古く、江戸時代の末期にこの地に造船所が作られ、 咸臨丸の修理や鳳凰丸の建造などが行われました。そして明治30年、榎本武揚の働きかけで 「浦賀船渠株式会社」が設立されました。その後、浦賀重工業株式会社を経て 住友重機械工業株式会社となったのですが、2003年3月住友重工は浦賀からの撤退を決定し、 浦賀ドックの歴史は幕を下ろしました。 その間に建造された船は1000隻以上とか。閉鎖され、まさか解体されたりはしないでしょうが 往年の姿を残している間に見ておこうと思います。 |
(2006.4.15) もともと浦賀のこの地形は天然の良港になっています。ここに徳川幕府が 造船所を設置したことから日本の造船の発祥地となったのです。これまでに青函連絡船、 日本丸・海王丸等の大型帆船、自衛艦など多くの船を建造してきた場所です。 丘の上から見た浦賀ドックは今まさに整理解体中のようでした。 |
上の画像の中央付近は新造船用の船台があったところで、少し右手方向に主として船舶の修理に使用された 第1号ドックがあります。レンガ造りのドライドックで、道路沿いのコンクリート壁から覗いて撮影しました。 長さは180m、幅20m、深さ11mといい、明治34年製の大変貴重なものと思われます。 |
ここに船が納まった姿を想像することは難しいのですが、倒さずに入れるなど大変な 技術であったにちがいないと思います。 |
船の建造には多くのクレーンが活躍していて、浦賀ドックのシンボルだったクレーン (自走式つち型クレーン)は閉鎖後に倒壊の危険を防止するためということで長〜く伸びた 腕の部分が撤去されました。昭和18年から立ちつづけていたといいますが、なんとも寂しい姿になっています。 |
もう一つのクレーン(自走式ジブクレーン)には「浦賀船渠 昭和20年6月 7T」の看板が見えます。 終戦2ヶ月前の完成ということです。 |
工場の一部はむかい側にあるスーパーの駐車場として利用されていたので入ることができました。 そこの天井クレーンには「浦賀重工業 昭和39年1月製造」とあります。 |
敷地内にはまだ解体されずにいる事務棟の建物が、レンガ塀とともに残されていました。 おそらく保存運動が起きているのだと思います。木造の下見板張りで、昔の小学校のような 懐かしい雰囲気が漂っています。 |
ドックから南の灯明崎方向に少し歩くと浦賀湾の渡し場があり 小さい船が往復しています。 この渡し舟はなんと江戸時代からというたいへん古い歴史があるようです。 それというのも対岸まで行くのにバスよりも早いという便利さのためと思われます。 船自体は屋形船風の結構新しいもので、お客が来れば随時運行してくれるとのことです。 |
さらに先へと進むとヨットハーバーのようなところのフェンス越しに別のドックの跡が見えます。 川間ドックといって元は旧石川島造船所の所有だったものですが、残念なことに海側の扉がはずされ、 ドライドックとしての役を果たすことはできなくなっていました。 煉瓦造りのドックは日本に2基しか存在していないのですが、そのうちの一つがこの状態なのです。 残るのは先の浦賀第1号ドックのみということになります。 |
京急浦賀駅から向って左の観音崎方面へ徒歩3〜4分のところの崖下に、 赤レンガの小さなトンネルがあります。 これは、浦賀ドックにおいて使用される工業用水のための「水のトンネル」(浦賀導水坑)で、 タービン冷却用の水を大量に必要としたために整備されたものです。山の上にあった溜め池から掘られたもので、 全長約1kmあるそうです。現在は使用されていませんが水がちょろちょろと流れていました。 |
【長浦湾の倉庫群】 JR田浦駅近くの長浦湾一帯は旧日本海軍軍需部のあったところです。軍需部とは砲弾、魚雷、 機雷などの兵器類から軍艦で使う燃料、食糧、被服にいたるいっさいの軍需物資を集めて保管し、 軍艦や前線に送り出すところです。これらの物資を保管する数多くの倉庫が長浦倉庫と呼ばれていました。 当時これら倉庫の周辺には鉄道線路が張り巡らされ、田浦駅構内へとつながっていました。 その様子はこちらのページ「田浦の米軍専用引込み線跡」でどうぞ。 |
【参考文献】知られざる軍都東京(洋泉社MOOK) |
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