・・・ 八王子の「御陵線」跡 ・・・

 かつて八王子市には甲州街道を跨いで「御陵線」が走っていました。もともとは 多摩御陵への参拝客輸送を目的に建設されたものですが廃線となり、 現在は京王高尾線の山田駅付近までが再利用されています。


 Rev.1 2002年1月
 Rev.2 2005年11月、追加記入
 Rev.3 2008年 4月、修正、加筆  
 Rev.4 2008年11月、追加記入  
 Rev.5 2011年10月、追加記入

(画像をクリックすると拡大できます)

 この画像は京王線めじろ台駅から東に歩いて数分のところにある山田小学校交差点近くの高台から 山田駅方向を見たものです。

 下に降りて少し近づいてみるとこのような感じになっていて、いい感じのカーブを描きながら 本線側より分岐してくる様子がよくわかります。

 そして散田町には妙に太い中央分離帯つきの道路がありますが、これこそが御陵線の走っていた線路跡です。 この場所からその道路を通って南浅川を横山橋近くで横切っていました。現在、 この道路は中央本線を地下道でくぐって甲州街道に交わっています。

 そしてその直線的な道路の先をまっすぐに延長してみたあたり、つまり南浅川を渡ってすぐの住宅地の中に この橋脚跡が2つあります。しかもそれぞれ民家の敷地の中にあるのですが、 御陵線の遺構として残っているの貴重なものです。

(この画像では向こう側が南浅川方面になり、見にくいですが中央にコンクリートのかたまりが二つあります。)

 南浅川に近いほうの橋脚をもう少し近づいて見てみました。異様にでかい構造物で 取り壊すのでさえ大変だろうと思うほどです。振り返ると こんな感じになっていますのでこれでは当分取り壊されずに済みそうな気もします。

 一つ隣りの橋脚は少し形が違うのですが、同じように民家と一体になっていました。

 なおこの先の延長線上を多摩御陵の参道まで捜し歩いてみましたが、 それらしい遺構は特に何もありませんでした。

 (2005年11月)
 この路線は正しくは「京王電気軌道御陵線」といい、昭和6年から昭和20年まで 北野駅から多摩御陵前駅間で営業されていました。北野駅からは6.2kmの単線で、終点の多摩御陵前駅と 山田駅の間には「武蔵横山駅」がありました。
 「京王御陵線」は京王電鉄の前身で、1910年(明治43年)発足の京王電気軌道株式会社の手により 大正天皇の墓所である多摩御陵へのアクセスを目的に1931年(昭和6年)に開通しましたが、 戦局の悪化に伴い不要不急路線として1945年(昭和20年)に休止路線となりました。 その後昭和42年になって、北野駅〜山田駅間は京王高尾線に活用され復活しましたが 山田駅〜多摩御陵前駅間は昭和39年に廃止路線となっています。

 3年半ほど前にこのページのトップの画像を撮影した場所にはすでに住宅が立ち並んでいました。 しかたなく脇から下の空き地に下りて山田駅方面からこちらに向かって登ってくる角度で撮影しました。
 少し登り勾配になっていて、当時の電車がここを越えられたのかと少し気になります。

 上の画像の左手、フェンスの中は畑になっています。振り返ると登りぎみの右にカーブした空間が存在します。 そして畑の中に石柱を見つけました。近寄れないのですが目を凝らしてみると何か書かれています。 カメラを望遠にして見てみると京王帝都電鉄のマークの入った標柱(境界石)でした。 この標柱の存在は他のサイトでも見たことがなく、始めてです。
 「京王電鉄」が以前「京王帝都電鉄(KTR)」 といっていたころのマークです。ということは京王さんの土地なのでしょうか?  ちなみにこの手の標柱は御陵前駅跡にいくまでの間、ほかにありませんでした。(ありました。2011年10月修正)

 【このページをご覧頂いた近くにお住まいの方から、標柱(境界石)は もう一本あるとの情報をいただきました。御陵線跡の道路の右側、横山中学校バス停の近くにありました。 道路からわずかに奥まっています。また民家の塀とは角度が一致していないものの御陵線のあった道路とは 一致している、つまり京王のマークは御陵線道路に向いています。山田小信号側からきた元々の道路は この少し手前で狭くなっているので本来の御陵線の敷地はこの位置まであったものと思います。 山田小信号側にあった境界石からも御陵線敷地はそれなりに広かったと思われます。 それにしても周辺の開発にも耐え、よく残ったものです。】 (2011年10月)

 上りきったところからはやや太い道路がJR中央本線や甲州街道方面に向かって下り勾配で 直線的に伸びています。この付近の道路で中央にケヤキ並木があるというのは珍しいと思います。

 御陵線は中央本線(当時は省線といいましたが)を高架で越えたそうです。現在、 めじろ台側から下ってきた道路は地下をくぐっていますが、それも最近のことで、それまでこの道は存在せず、 長いこと工事のため閉鎖されていました。

 中央本線を越えて甲州街道にいたる短い区間に高架の「武蔵横山駅」がありました。 つまり場所的には丁度このあたりの上空で、駅は鉄骨柱とコンクリート柱の一大構造物であったそうです。
 道路は甲州街道と交差した後、南浅川にかかる横山橋へと続くのですが、御陵線自体は高架のまま 甲州街道を鉄橋でわたり、めじろ台からの道の延長線上にあるガソリンスタンドの奥の駐車場を経て 南浅川に到達しました。このとき甲州街道上には武蔵中央電気鉄道の路面電車が走っていたはずです。

 【このページをご覧頂いた方から、ガソリンスタンドの裏手方向に当たる駐車場に 橋脚の根元だけが残されているとの情報をいただきました。ガソリンスタンドと、 南浅川向かいの橋脚を結ぶ直線上にあります。】(2008年11月)

 そして南浅川を渡り、先ほどの延長線上の位置をたどって行く手を覗くとこの二つの橋脚が見えます。 南浅川からは数十mと離れていません。とても頑丈なつくりで御陵線がここを高架で走っていたことを示す 唯一の痕跡です。
 ところで南浅川の川の中にも橋脚と鉄橋があったのですが、その鉄橋は正式に撤去されたのではなく 公然と盗まれてしまったものだという話があります。そしてしばらくは2本の橋脚だけが残っていたのですが それは撤去されてしまいました。(注:盗難にあったのは甲州街道の橋梁で南浅川橋梁の橋桁は保管されて 再利用されているとの資料もあります)

 現在、長房団地のあるところは土地が一段高くなっています。つまり、中央本線を高架で渡った御陵線は 南浅川を越えて、高架のままこの崖上の土地に導かれたものと思われます。 終点の多摩御陵前駅予想地点と結ぶとこの団地のこの空間に線路があったのではないかと想像できます。

 なぜならば、 この航空写真(1974年:国土地理院提供)で見るとおり、長房団地は直線に建ち並んでいません。 なぜか線路跡に沿っているような気がしてなりません。

 上の画像の延長線上で、多摩御陵のケヤキの木々の立ち並ぶ参道にぶつかる地点が御陵前駅のあったところと 推定しました。その場所は細い2本の道路にはさまれた住宅地となっていて、 付近にない道路のつくりになっています。つまり方向とか間隔とかが特異なのでここが怪しいとみました。 (ちなみにこの画像は終点予想位置から見た参道です)

 そしてこれが御陵線の位置を想定して描いてみた図 です。

【御陵前駅のその後】

  (2008年4月)
 御陵線については計画時点では北周りのルート案というものがありました。東八王子駅(現在の京王八王子駅) の少し手前から高架線として市街地北側を浅川に沿って西に進み、 元本郷町の浄水場あたりから南浅川沿いに御陵前にいたるというルート(浅川橋〜多賀神社北〜横川〜船田) ですが地元の反対にあって、計画を変更し北の駅から当時何もなかった片倉、 山田を経由する南回りルートに決定したそうです。
 また多摩御陵前駅はその名にふさわしく神社の神殿のような豪華な駅舎であったといいます。 駅前には池や噴水もあり、プラットホームは3本が櫛の歯のように(ヨの字のように)並んでいたようで それぞれに終点の形で線路が引き込まれていました。
 ところが営業を休止してまもなくの昭和20年8月、八王子大空襲で焼失してしまいました。 (以上、京王研修センター内資料館資料より)

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