***** 信越本線廃線跡 *****

 信越本線は長野新幹線の開業に伴い、1997年(平成9年)9月30日 をもって横川駅~軽井沢駅~篠ノ井駅間の運転が廃止されました。これは急勾配のため 特殊な運転方式をとっていたことにもよるのですが、かといって全く無くなってしまうというのも 残念なものです。ただ、軽井沢駅~篠ノ井駅間は第三セクターの“しなの鉄道”に経営転換され残されています。
 また、この信越本線自体も1963年(昭和38年)、旧線の老朽化と輸送量の増加に対応するため、 それまでのラックレール(歯車のようなレール)によるアプト式運転から変更されたものでした。 つまり34年間という短い期間運用されただけでの鉄道でした。


 2001年7月
 2011年1月 「旧丸山変電所」を追記


 横川駅には旧来からのホームがありますが、その先の軽井沢側に向けてはコンクリートブロックで遮断され、 さらには舗装材で塗りこめられていました。4番線ホームから碓氷峠に向かう線路上はすでに 駐車場となってしまっています。
 救いと言えるかどうかわかりませんが、その先の操車スペースを活用して「鉄道文化むら」が整備され、 各種機関車が動態保存されています。

 霧積温泉に向かう道の脇にまだ新しめの廃線があります。今にも“ガー”っときそうな錯覚を受けますが、 よく見れば線路にはイタドリが生えていました。「母さん、僕のあの電車、どうしたでせうね?」  ちょっと変えていますがこの文章で有名な霧積温泉渓谷はこの近くです。

 国道18号(旧道)沿いに登っていくと有名な「めがね橋」に出会えます。廃線になった旧信越本線の橋で、 正しくは「碓氷第三橋梁」といい、200万個のレンガが積まれたという大きな構造物で 国指定の重要文化財に指定されています。

 横川軽井沢間は急勾配のため路線決定に手間取り、高崎~横川間、軽井沢~直江津間よりも遅く 1893年(明治26年)に開業しています。

 めがね橋のさらに奥には信越本線の鉄橋も見えます。

 下からめがね橋の上まで登ることができ、旧の線路上が遊歩道になっているためトンネルを通り、 途中の丸山変電所跡を見て横川まで下れるようです。

 このトンネルは碓氷峠側のもので遊歩道はここで終わりとなり、この先には進めません。

 旧信越本線はあまりにも急勾配なため、ドイツの登山鉄道で使われていたアプト式の線路を使っていました。 現在、アプトの歯車用レールは撤去され遊歩道になっていますが、若き日の記憶によればこの上を ギャンギャンギャンと歯車の音をさせながら通過した記憶があります。

 そして橋の上から横川駅側にあるトンネルは「アプトの道」として整備されていました。

 解説によれば横川~軽井沢間は明治24年(西暦1891年)に着工され、 たったの2年弱で26のトンネルと18の橋梁が建設されたのだということです。 既に40年前に使命を終えているものの未だに堅固さを保っていました。

 めがね橋より少し上に行ったところに「熊の平信号所」の跡があります。 さびたレールやらポイントがむなしく残っています。

 アブト式の旧線が老朽化したことと輸送量の増加に対応するため、 いわゆる粘着式(普通のレール2本による走行)の運転に切り替えられましたが、しかし、 急勾配のため連結器の脱落による車両暴走という万一の場合に備え、 横川側に特殊な機関車をつけた押し&引きの運転だったといいます。  

 信号所の横川側には旧線のトンネルが2本あり、この場所で新線と合流しました。

 勾配がきついといっても歩いている分にはさほどに感じませんが鉄道にしては最急勾配なのだそうです。 長野新幹線はさらに大回りをして勾配をゆるくしています。

 横川駅にもどったところで偶然、臨時運転のSL(D51)が入線してきました。ラッキー!

 横川といえばなぜか欲しくなるのが「峠の釜めし」です。 



横川駅近くの鉄道文化村からは旧信越本線(碓氷線)の下り線の一部を利用して観光用トロッコ列車が走っています。 旧丸山変電所を経て峠の湯まで運転されています。上り線は遊歩道となっていて、 この先「アプトの道」としてめがね橋(碓氷第三橋梁)から熊ノ平まで続いています。

 横川駅から信越本線跡のレールに沿って進むと上信越自動車道の橋をくぐったところに旧丸山変電所の建物 があります。すでに重要文化財に指定され、保存のための修復工事が2002年(平成14年)に完成していますが それ以前はいかにも廃墟そのものだったようです。
 煉瓦造りの建物は2棟あり、横川駅から見て手前が蓄電池室、奥が機械室です。 碓氷線(信越本線の横川~軽井沢間の通称)が電化されたのは1912年(明治45年)のことでした。 以後、蒸気機関車に代わってアプト式の急勾配を登る機関車に発電所からの電気を供給しました。 しかしそれも1963年(昭和38年)に新線が開通したことにより役目を終えました。

 機械室では交流電力を直流に変えて、機関車と蓄電池に供給しました。機関車が峠にかかるときは 大量の電力を必要とするため蓄電池からの電力が補われたようです。蓄電池室の内部は覗けませんでしたが 機械室のほうは覗けました。修復工事によって消えた蓄電池室の換気用の煙突と思われるものがみられます。

 

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