【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】
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【慶長10(1605)年】
月日  天皇 政体 事項
2月19日 第107代
後陽成天皇
征夷大将軍
徳川家康
徳川家康、上洛

 正月9日に上洛を開始。

3月21日 徳川秀忠、上洛

 伊達政宗・上杉景勝・最上義光らを、
 従えての上洛で総数10万とも16万とも
 言われる大軍勢であった。


4月7日 徳川家康、将軍職の辞任を奏請

 自らの後継将軍には、
 徳川秀忠を推挙。


4月12日 豊臣秀頼、右大臣に就任

 豊臣家としては徳川家康からの
 政権移譲を期待した。


4月16日 征夷大将軍
徳川秀忠
徳川秀忠、征夷大将軍に就任

 徳川幕府第二代将軍。
 ここに将軍職は徳川家の世襲であることが
 天下に広く示された。


4月26日 徳川秀忠、参内

 将軍就任の御礼に参内。
 前田利常・島津家久・福島正則らを
 従えての参内であった。

 ≫『福島正則』

4月29日 土井利勝、大炊頭に就任

 徳川秀忠側近。

5月9日 徳川家康、豊臣秀頼の上洛を要求

 徳川家康は、
 徳川秀忠の将軍職就任を祝うために、
 豊臣秀頼に上洛するよう高台院(豊臣秀吉室)へ
 豊臣秀頼上洛の仲介を依頼するが、
 淀殿はこれを断固として拒絶する。


5月 徳川家康、婚姻政策を進める

 徳川家康は、
 久松定勝の娘を自分の養女とし、
 山内忠義(一豊の養子)と婚姻させ、
 岡部長盛の娘を養女として
 鍋島勝茂(直茂嫡子)と
 婚姻させる。


6月 前田利常、前田家家督相続

 前田利家四男。
 室は徳川秀忠の次女・天徳院。
 この年の5月には松平姓も下賜されている。
 兄・前田利長の隠居により家督相続。

 《関係略図》

 前田利家┳利長
     ┣利常┳光高
     ┃  ┣利次
     ┃  ┗利治
     ┗利孝      

7月23日 征夷大将軍
徳川秀忠

関白
近衛信尹
近衛信尹、関白就任

 父は近衛前久。

7月 徳川幕府、城の改築城を進める

 伏見城本丸の修築を開始。
 近畿方面での有事に備えるためであった。


 

 《慶長10(1605)年のポイント》

 慶長8(1603)年に征夷大将軍に就任した徳川家康が、
 将軍職を自分の子である徳川秀忠に譲渡したことによって、
 征夷大将軍職は徳川家のものであることが天下に示された。

 これは同時に徳川家康の存在を豊臣秀吉亡き後、
 その遺児である豊臣秀頼が政権を担当するまでの間の
 後見に過ぎないと見ていた豊臣家に大きな衝撃を与えることとなる。

 さらに追い打ちをかけるように徳川家康は、
 豊臣秀頼に対して上洛して徳川秀忠の将軍職就任の祝いをするように強要する。
 この時、徳川家康は、豊臣秀吉の室である高台院を仲介とするが、
 これの要求には淀殿が断固として徹底拒絶する。

 ここに豊臣家は、徳川幕府に対するスタンスを巡り、
 分裂の芽を内包することとなるのである。

 このように混乱する豊臣家を横目にしながら、
 徳川家康は有力な外様大名との政略結婚を推し進め、
 さらに豊臣家を睨む城の普請を急ぎ、豊臣家包囲網を作るなど、
 徳川幕府の基盤を着々と固めたのである。


 

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