【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】
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【天正9(1581)年】
月日  天皇 政体 事項
正月 第106代
正親町天皇
関白
九条兼孝
武田勝頼、新府城築城開始

 武田勝頼は、
 織田=徳川同盟、
 徳川=北条同盟によって包囲され、
 穴山梅雪の進言を容れて韮崎七里岩に
 築城を開始。


2月 佐々成政、越中国を任される

 佐々成政は、
 織田信長から越中国を任され、
 その居城として富山城に入って、
 当時、上杉軍と激しい攻防を繰り広げていた
 越中国の経営にあたる。

 ≫『佐々成政』

2月28日 織田信長、馬揃え開催

 一番摂津・若狭衆など(丹羽長秀)。
 ≫『丹羽長秀』
 二番河内・和泉衆など(蜂屋頼隆)。
 三番大和衆など(明智光秀)。
 四番根来衆など(村井貞成)。
 五番一門衆(織田信忠ら)。
 ≫『織田信忠』
 六番公家衆(近衛信基ら)、馬廻衆。
 七番越前衆など(柴田勝家ら)。
 ≫『柴田勝家』
 八番御弓衆。
 信長一行。


3月18日 吉川経家、鳥取城入城

 鳥取城城主である山名豊国が、
 羽柴秀吉の計略にかかり城を出たために、
 毛利氏が山名氏家臣団から要請されて、
 吉川経家を差し向けた。


3月22日 徳川軍、高天神城を奪還

 天正2(1574)年に、
 武田軍によって占領されて以来、
 東海道を西進するための武田軍の
 重要拠点となっていた。


4月29日 関白
一条内基
一条内基、関白就任

 もはや政治的には意味を、
 失いかけている関白職であった。


5月 伊達政宗、初陣

 伊達政宗は、父・伊達輝宗と共に、
 相馬義胤との合戦に出陣し初陣を飾る。

 ≫『伊達輝宗』

6月2日 明智光秀、『明智光秀軍法』制定

 全十八条から構成され、
 織田信長への忠誠心のために、
 自部隊内に発布したもの。

 ≫『明智光秀』

6月28日 織田信長、島津義久に停戦勧告

 織田信長は大友宗麟からの要請を受け、
 大友氏と紛争中である島津氏に対して、
 近衛前久を通して停戦を勧告する。


7月12日 羽柴秀吉、鳥取城完全包囲

 羽柴軍は6月25日に姫路城を出陣。
 総数20000で鳥取城の攻略にかかる。


7月15日 織田信長、安土城をライトアップする

 安土城と総見寺に提灯を飾りたて、
 馬廻衆を動員し舟に乗せて琵琶湖上に出し、
 その手に松明を持たせた。


8月1日 織田信長、馬揃え開催

 この年、二度目の馬揃えを開催する。

8月17日 織田信長、高野聖を処刑する

 織田信長に謀反した荒木村重の家臣らを、
 密かに高野山において匿ったとして、
 高野聖数百人を処刑した。


8月 前田利家、能登国を任される

 前田利家は、
 織田信長から能登国四郡を任され、
 七尾城に入り(後に小丸山へ移る)
 領国経営をしながら対上杉景勝最前線に
 立つこととなる。


9月3日 織田信忠、伊賀国へ出陣

 四方面からの攻撃で、
 甲賀口から丹羽長秀・滝川一益ら、
 信楽口から堀秀政ら、加太口から滝川三郎兵衛ら、
 大和口から筒井順慶らが攻め込んだ。
 ≫『滝川一益』
 ≫『堀秀政』


9月11日 織田信忠、伊賀国を平定

 織田軍の電光石火の侵略戦により、
 伊賀国は平定された。


10月25日 鳥取城開城

 城兵の命と引き換えに、
 吉川経家が自刃することで決着する。
 この結果、織田軍は毛利軍に対して
 山陰地方で優位に立つこととなる。


11月17日 羽柴秀吉、淡路島平定

 11月8日に山陰方面戦線から
 姫路城に戻った羽柴秀吉は休む間もなく
 淡路島へ出陣しこれを瞬く間に平定している。


12月24日 武田勝頼、新府城入城

 高天神城を失ったことで、
 工期を早め入城せざるを得なかった。


 

 《天正9(1581)年のポイント》

 織田信長による「天下布武」は推進され、
 中でも羽柴秀吉が鳥取城を落としたことで、
 山陰地方における優位を得て中国経営が進んだ一年でもある。

 正親町天皇の前で「馬揃え」という軍事パレードを
 二度も開催していることは特筆すべき点である。
 それは「公」を「武」が圧倒した瞬間であった。

 また何よりも注目されるのは既存の政体に属さない信長が、
 九州地方の島津氏に対して停戦を勧告している点である。
 この年には、もはや信長の前に既存の政体は、
 意味を持たなくなっているのである。


 

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