【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】
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【天正4(1576)年】
月日  天皇 政体 事項
正月 第106代
正親町天皇
関白
二条晴良
織田信長、安土城の築城を開始

 普請奉行には丹羽長秀が当たる。
 2月23日には織田信長は安土城に移っている。
 この築城工事は、一旦、中止されるが、
 7月1日に再開される。
 ≫『丹羽長秀』


正月 大友義統、家督を相続

 大友宗麟は、家督を、
 嫡子の義統に譲る(2月説あり)。


2月8日 足利義昭、備後国鞆ノ浦に到着

 織田信長によって、
 京を追放された足利義昭は、
 毛利氏と頼り備後国鞆ノ浦に到着する。
 これを受けて毛利氏は、5月13日になって、
 正式に義昭を推戴することを決める。


4月14日 織田軍、石山本願寺を攻囲

 織田信長は、
 明智光秀・荒木村重・細川藤孝・原田直政を、
 石山本願寺へ派遣し攻撃を加える。
 ≫『明智光秀』


4月16日 武田勝頼、信玄の葬儀を執行

 前年の『長篠合戦』で、
 織田信長に大敗した武田勝頼は、
 父・信玄の「死後3年は秘匿せよ」の遺言を守り、
 信玄没後3回忌に当たるこの年に
 葬儀を執り行う。


5月3日 原田直政、戦死

 石山本願寺攻略中に、
 織田軍の原田直政は戦死を遂げる。


5月 上杉謙信、本願寺と和睦

 上杉謙信は、
 永年の敵であった一向宗(本願寺)と、
 足利義昭の周旋によって和睦する(11月説あり)。


6月 北条氏政、常陸国へ出陣

 北条氏政は、
 常陸国の多賀谷氏を攻略するために出陣。
 しかし多賀谷氏の援軍に出陣して来た
 佐竹義重によって駆逐されてしまう。
 ≫『北条氏政』


7月15日 「木津川口合戦」

 石山本願寺と同盟関係にある毛利氏が、
 支援のための兵糧を海路を経て石山本願寺に
 搬入しようとして、それを阻止しようとした
 織田軍との間で行われた合戦。
 
 毛利水軍は兵糧運搬船が700〜800隻、
 その護衛船団が3000隻であったとも言われる。
 これに対する織田水軍は300隻であった。

 結果、織田水軍は大敗北を喫する。


8月 足利義昭、三国同盟を模索

 足利義昭は、
 織田信長を封じ込めるために、
 上杉謙信・武田勝頼・北条氏政に
 同盟の締結を働きかける。


9月13日 「上月城攻略戦」

 宇喜多直家が、播磨国上月城を攻略する。

11月21日 織田信長、内大臣に就任

 織田信長は返礼として、
 宮中に黄金200枚等を献上し、
 摂関家・清華家に領地を寄進している。


12月19日 上杉謙信、七尾城を攻囲

 上杉謙信は、
 本願寺と和睦したことで、
 織田信長と雌雄を決すべく上洛路の
 確保を急ぐ戦略を取る。


 

 《天正4(1576)年のポイント》

 織田信長は、
 安土城の築城を開始し、
 この年の内に完成している。

 また信長自身も内大臣に就任し、
 「天下布武」による天下統一へ確実に前進していた。

 しかし現実は、足利義昭を中心に、
 新しい「反信長包囲網」が形成されつつあった。

 また石山本願寺の攻略も思うようにままならず、
 「木津川口合戦」では、毛利水軍の前に織田水軍は、
 完膚なきまでに敗れ去ると言う大失態を演じている。

 毛利氏は、足利義昭の推戴を決め、11月には、
 瀬戸内海から優勢な水軍で大坂へ上陸する部隊、
 山陽道から義昭を奉じて毛利輝元と小早川隆景の部隊、
 そして山陰道からは吉川元春の部隊と言う強力な三部隊によって、
 上洛を目指す戦略計画が練り上げられている。

 また上杉謙信は、この年、本願寺と和睦し、
 信長と雌雄を決するために一路上洛を目指して、
 飛騨国を制圧し、続いて加賀国四郡の制圧にも成功し、
 能登国の七尾城を攻囲する状況であった。

 こうして信長と義昭の戦いは、
 義昭の追放後もなお激烈を極めていたのである。


 

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